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第二章 飛躍の刻と絶望の間

第二十一話 乱世の奸雄

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数ヶ月前、秋風と共に曹家を訪れた、あの人物こそ彼である。

橋玄きょうげんあざな公祖こうそと言うその男は、孟徳と共に、曹家が雒陽らくように構えた屋敷の門を潜った。

「も、孟徳様…!一体、どうなさったのです?!」
傷だらけで帰って来た孟徳を見て、虎淵は驚きの声を上げた。

「何、大した事は無い。それより、父上はおられるか?」
「は、はい。直ぐお呼びします…!」
苦笑を浮かべ、問い掛ける孟徳の姿に戸惑いつつも、虎淵は屋敷の奥へ走り去った。

広間に姿を見せた曹家の主は、橋公祖を笑顔で迎え、揖礼ゆうれいをした。

「ようこそ、おいで下さいました。太尉たいい殿。」

太尉とは、司空しくう司徒しとと合わせて「三公」と呼ばれる役職の一つであり、軍事をつかさどる職務である。

人は見掛けに寄らぬと言うが、彼こそ正にその典型の様な人だった。
詰まり、橋公祖は一見ただの庶民にしか見えぬ、粗末な格好をしているが、朝廷で最高位の職に就く人物、と言う訳である。
それを知って、孟徳は彼を改めて見直した。

公祖と主は暫く談笑した後、話題を孟徳に向けた。

「それにしても、孟徳殿は大した人物です。これから世は、大いに乱れるであろうが、孟徳殿の様に侠気ある若者が、この王朝を支える事であろう…!」

世辞せじなどでは無く、公祖は本心からそう言っている。

「孟徳殿の正義感は、に向いている。北部尉ほくぶいの職に就いてはどうか?わしが、推薦しよう…!」

北部尉とは、雒陽の東西南北、四つの門に置かれた官の一つであり、罪人を取り調べたり、盗賊を捕縛する職である。 

「お申し出は、実に有り難いのですが…」

孟徳は口篭くちごもりながら、やや笑顔を曇らせた。

「金の心配なら要らぬ。わしが支援致そう…!」
そう言うと、公祖は爽やな笑顔を孟徳に向けた。

今の時代、高官に就く為には高い金額を支払わねばならない。
実際、高額で官職を買う者が大勢いた。
孟徳は心を見透かされ、苦笑すると、公祖に拱手した。

「いや、そのお気持ちだけで充分です…!」

「前途ある若者の為に、わしは出し惜しみはせぬぞ…遠慮など要らぬ!こう見えても、わしは金を持っているのだ…!」
公祖は、豪快に笑声を放つ。

孟徳は、心を打たれた思いがした。
金の問題では無い。まだ全くの無名で若輩の上、宦官の孫である自分を、さげすみこそすれ、高く評価してくれる人物に出会ったのは初めてである。

そんな公祖の姿を、孟徳はある人物に重ね合わせながら見詰めた。

"孟嘗君もうしょうくん田文でんぶん"

戦国四君の一人であり、孟徳が最も尊敬する人物である。
彼は、一芸に秀でていれば、身分も家柄も問わず、誰でも食客しょっかくとして迎え入れ、その数は三千にものぼったと言われる。
孟嘗君は私財を投げ打って、彼ら食客たちを支援したのである。

食客は、配下や部下とは違い、あくまで"客"であるから、主従関係は成立しない。
だが食客は、時には恩義に報いる為、命懸けで彼を救った者もあったと言う。

士爲知己者死
『 おのれを知る者の為に死す 』

それは「刺客列伝」に登場する、有名な豫譲よじょうの言葉であるが、今まさに孟徳の心情はそれであった。

「所で孟徳殿、"月旦評げったんひょう"と言うのを知っておられるか?」

公祖は再び孟徳へ向き直ると、そう問い掛けた。

雒陽へ来てから、殆ど出歩く事の無い孟徳であったが、虎淵をはじめ、家人かじんたちに邑内を常に偵察させていた。
それゆえ、このまちの中で知らない事は殆ど無いに等しい。

「聞いた事はございます。確か、許子将きょししょうと言う人が、毎月開く人物評定会だと…」
「その通りだ…!」
公祖は自分の膝を叩くと、こう提案した。

「では、話は早い。一度、許子将に会って、ご自分を評価して貰うと良い。」


許劭きょしょう、字を子将ししょうと言う。
若くして、卓越たくえつした人物鑑定眼を持ち、彼に高く評価された人物の中には、その後、高位に登った者が居るらしい。だが、反対に低く評価されれば、その後、出世せぬばかりか、没落した者も居たと言われる。
今や、彼の"月旦評"こそ、将来を左右され兼ねぬ重要な人物評定であり、多くの人が彼を訪問したのである。

孟徳としては、公祖こそ、唯一自分を認めてくれた人物なのであって、それだけで充分であったが、公祖の勧めもあり、翌日、虎淵を共なって許子将の屋敷へおもむく事にした。

許子将の屋敷は、立派な門を構え、人目に付き易くする為であろうか、多少派手な装飾がほどこされている。
門前にたたずみ、それを見上げた時点で、孟徳は既に帰りたくなった。

二の足を踏んでいる孟徳に、虎淵は少し意地悪く笑いながら言った。

「孟徳様、らしくありませんね…!」
「ううむ…そ、そんな事は無い。行くぞ…!」
孟徳は唸って、足を前に踏み出した。

「曹孟徳…?その様な名は、聞いた事も無い…」

家人からの報告に、許子将は首をかしげた。

橋太尉きょうたいいの、お知り合いだと申しております。大長秋だいちょうしゅう曹謄そうとうの孫だとか…」
「何だと?そいつは、宦官の孫だと言うのか?馬鹿馬鹿しい…!」

家人の説明に、子将は露骨ろこつに嫌な顔をした。

「まあ良い…公祖殿の知人と言うからには、無下むげにも出来まい。連れて参れ。」

門前払いを覚悟していたが、再び現れた家人に案内され、孟徳と虎淵は屋敷の奥へ通された。
公祖に、自分の名を家人に伝えよと言われ、その通りにしたが、実際効果があった様だ。
公祖はやはり、許子将にも認められている程の人物なのである。
孟徳は感心しながら、長い廊下を歩いた。

やがて、屋敷の主が待つ、大きな広間へと案内された。
広間の中央に、一人の長身の男が立っている。

孟徳はやや驚きの表情で、その男を見上げた。
許子将とは、既に老齢ろうれいに近い貫禄かんろくある男性かと思っていたが、目の前の男は、想像していたよりずっと若い。
 
色白で細面ほそおもてなその青年は、黒い着物に赤い帯を締め、何処かおごそかな雰囲気で孟徳を凝視している。
 
子将の方も、孟徳の若さと美しさに、多少の驚きを示したが、やがてその目に侮蔑ぶべつの色を現した。
祖父が宦官であると伝えたのが、まずかったか…
孟徳は少し目元を陰らせた。

やはり、来るのでは無かった…

後悔の念が沸き上がったが、此処で卑屈ひくつになっては、これから先、一生付きまとうであろうその宿命に、立ち向かう事は出来ない。
孟徳は毅然きぜんとした態度で、子将を睨み返した。

生意気な…
子将は内心そう思い、鋭い目をやや細めたが、一度小さく咳払いをして、孟徳に軽く拱手した。
孟徳も同じ様にして挨拶を返す。

「初めに言っておくが、わしは、そなたを知らぬ故、あまり期待はしないで欲しい…」
「構いません。思った通りに、鑑定して頂きたい。」

孟徳は、真っ直ぐに子将を見据えている。
小柄でまだ若く、少女と見紛みまがう様な風貌ふうぼうであるが、その少年のたたずまいにはがある。

威而不猛
『 ありてたけからず 』
それは理想的な君子の姿を言うのであるが、子将の頭に、最初に浮かんだのはそれである。
暫し黙考したが、やがて静かに息を吐きながら答えた。
 
「そなたは、"治世ちせい能臣のうしん"…とだけ、言っておこう…」

「有り難うございます…!」

即座そくざに頭を下げ、懐から金子きんすを取り出そうとする孟徳を子将は手で制し、

「公祖殿の知り合いから、金は頂けぬ。」
そう言って、家人と共に二人を門まで見送った。

門の外へ出て行く二人を見送った後、子将は家人を振り返り、吐き捨てる様に言った。

「あれは、"乱世らんせ奸雄かんゆう"よ…!」


「許子将に、何と言われても気にしては成らぬ。"彼に鑑定された"という事実があれば、それで良いのだ…!」

許子将の屋敷へ赴く前、橋公祖は孟徳にそう告げていた。
彼は始めから、子将の狭量きょうりょうな性格を理解していたと言うべきであろう。
やはり、公祖殿は賢い方だ…!
そう思い顔を上げると、孟徳は突然走り始めた。

「孟徳様!どちらへ…?!」
それを見て、驚いた虎淵が呼び止めた。

「公祖殿の元へ行くのだ!俺が師と仰げるのは、きっとあの方しか居ない!お前は、先に屋敷へ帰っていろ。」

「…孟徳様!!」
再び走り出そうとした時、虎淵にもう一度呼び止められた。

「僕は明日、曹家を発ちます…!」

「!」
孟徳は足を止め、虎淵を振り返った。

「そうか…もう決めたのだな…!」
「…はい。ですから、今日は…今日だけは、孟徳様と一緒に居させて頂けませんか?」
虎淵は顔を紅潮させ、哀願あいがんする様に言う。

「まさか、今生こんじょうの別れと言う訳では有るまい?」
孟徳は笑ってそう言いたかったが、虎淵のその顔を見ると、思わず口をつぐんだ。

「良し、わかった。お前の望み通りにしよう…!」

くくった長い髪を寒風かんぷうなびかせ、孟徳は爽やかな笑顔を浮かべた。
それを見た虎淵の顔にも、笑顔が戻る。

その時、二人の間に、高い空から真っ白に輝く雪の花びらが舞い降りた。

「雪か…道理で、冷える訳だ…」
二人は同時に、白く一面に曇る寒空を見上げた。


昼に近付き、降り続く雪は一層強くなり、城内の景色を白く染め始めた。
孟徳と虎淵は、人々で賑わうまちの市場を、肩を並べて歩いていた。
風は冷たく、頬に触れる雪は刺すように冷たい。
だが、二人でこうして歩くのは、数ヶ月振りである。
虎淵はそれだけで、充分楽しかった。

武術や剣術は奉先に習ったが、書物や学問については、孟徳に教わった。
虎淵にとっては、孟徳と奉先が自分の師なのである。

「虎淵、腹が減らないか?」
「そうですね、どこかで食事を取りましょう…!」
そう言って、二人は繁華街へ続く赤い大きな門を潜った。

辺りには、美味そうな食事の香りが漂っている。
どの店も客が一杯で、入れそうに無い。二人は席のいている店を探して歩いた。
大勢の人々が行き交う中、賑わう店先の柱の陰に立って、二人の姿を睨んでいる男が居た。
男は、隣に立つもう一人の男の肘をつついた。

「見ろ、あの餓鬼だぜ…!」
「ああ、確かにそうだ…!兄貴に知らせて来る…!」
一人の男はそう言うと、その場から走り去った。

孟徳と虎淵は、ようやく落ち着ける店を見付け、席に座った。
「ご注文は?」
直ぐに店の者が現れ、二人に声を掛けた。

「俺はめんにするよ。虎淵、お前は?」
「僕も同じ物をお願いします。」
店員は頷くと、店の奥へ入って行った。

するとそこへ、大きな鉄の鎌を背負った大男が現れ、二人の席の前に、どっかと座る。

「おい!此処は、餓鬼が来る様な場所じゃあぇぞ…!」
男は二人を鋭く睨み、しわがれた声で怒鳴った。

虎淵は思わず身をすくめ、慌てて孟徳を振り返ったが、孟徳は怖じける様子を見せず、男を睨み返した。

「この店しか空いていなかったのだ。仕方が有るまい…!」
「生意気な奴だ…!俺が誰だか、教えてやる…!表へ出ろ!」

右目の上に深い傷痕が残る顔を孟徳に近付け、男は生臭なまぐさい息を吐きながら低く言った。

「孟徳様、相手にする必要は有りません…!行きましょう!」
虎淵が孟徳の肩を掴み、立ち上がる。
黙ったまま、孟徳も立ち上がり、虎淵の後に付いて店を出た。

「小僧、逃げるのか?!ふん!女の様な見た目だが、中身も女の様だな…!」

背後から、男の怒鳴り声が聞こえる。
男のそのあざけりの言葉に、孟徳は立ち止まって振り返った。

「おい、貴様…もう一度言ってみろ…!」
孟徳は怒気をあらわにして、男を睨む。

次の瞬間には、孟徳は地を蹴って男に飛び掛かっていた。
素早く腰にいた剣を抜き放ち、振り上げた剣を、男の頭上から振り下ろす。
だが、男が背負っていた大きな鉄鎌てつがまによって、孟徳の剣は難無く止められた。

「小僧、腕に自信が有る様だな…!」

男は孟徳の剣を弾き返しながら、不敵に笑う。
孟徳は素早く飛び退くと、男に向けて剣を構えた。

「孟徳様…!」
驚いた虎淵が、孟徳に走り寄る。
だが虎淵が止める間も無く、孟徳は再び男に斬り掛かった。

この騒ぎで、店先に人だかりが出来ていた。
虎淵が辺りを見回すと、その中の数人の男たちが、野次馬たちを輪の外へ追いやっている。どうやら、あの大男の仲間らしい。
いつの間にか二人は、辺りを敵に取り囲まれていたのである。
まずい…!
そう感じた虎淵は、不安な表情で孟徳を振り返った。

男が振り上げた大鎌は、孟徳の懐を狙って飛び込んだ。
すんでの所でかわしたが、鎌の先が衣服をかすめ、孟徳の着物を切り裂いた。
男は、大きな鉄鎌を片手で持ち、軽々と振り回している。

「俺は、"鉄鎌てつがま雷震らいしん"と恐れられている!次は、その細首をき切ってやるぞ…!」
そう言うと、雷震は鎌の先で孟徳の首を指し示す。

「やれるものなら、やってみろ…!」

孟徳は、そう叫んで雷震に向かって行ったが、突然、何者かに片足をすくわれ、体勢を崩された。
そのまま地面に倒れると、頭上から雷震の鎌が襲って来る。
孟徳は素早く地面を転がって、鎌の攻撃を避けた。

「くそ…!」
だが、立ち上がろうとした時、雷震の振り下ろした鋭い鎌が、孟徳の左肩に突き刺さった。

「うぐっ…!!」
思わず膝を折り、孟徳は地面にひざまづく。
両手で鎌を掴んで抜き取ろうとするが、びくともしない。傷口から血が滲み出し、着物が赤く染まった。

「孟徳様…!!」

虎淵は叫ぶと、咄嗟に剣を抜き、雷震に斬り掛かった。
雷震は孟徳の肩から素早く鎌を引き抜き、旋回させると、虎淵の攻撃を鉄の柄で弾き返した。

「ふん…!貴様から、血祭りに上げるとするか…!」

そう言いながら、今度は虎淵に鎌を向ける。

「虎淵…!」 
孟徳は血で染まった左肩を押さえながら、青白い顔を上げた。

大男の雷震は、重い鉄鎌を振り回し、虎淵に打ち掛かる。
数合の打ち合いが続き、虎淵は剣で鎌を受け止めた。

「小僧、なかなかやるな…!」
雷震は鎌の切っ先を、虎淵の顔に向ける。

鋭い刃先が、じりじりと虎淵の目前に迫って来る。
虎淵が力を振り絞って、鎌を押し戻そうとした時、虎淵の腹部に激痛が走った。

「うっ…!!」

見ると、いつの間にか鉄鎌の柄の、反対側からも刃が飛び出している。
その刃は、虎淵の腹部に深く突き刺さっていた。

雷震はにやりと笑うと、虎淵の腹部に刺した鎌を強く引き上げる。

「うっ!ああ…!!」
傷口から血が流れ、虎淵が悲痛な叫び声を上げた。

「虎淵…!!」

孟徳は叫びながら、雷震の足元に跪いた。

「やめろ!やめてくれ…!」
地面に両手を突き、土下座の姿勢を取る。

「頼む…!俺が悪かった…!今すぐ、此処を立ち去るから…虎淵を、殺さないでくれ…!」

頭を地面に押し付けて懇願する孟徳の姿を、雷震は冷ややかに見下ろし、血塗ちまみれの鎌を虎淵の腹から抜き取ると、虎淵の頭を掴んでその首に押し当てた。

「残念だが、お前らを殺さねば、金を貰えぬのでな…!」

雷震は不敵に笑ってそう言うと、虎淵の首に当てた鎌を、一気に横に引いた。

「やめろおぉーー!!」

虎淵は膝から崩れ落ち、ゆっくりと体を傾けて、雷震の足元へ倒れて行く。
孟徳の叫び声は、雪の降りしきる寒空に響き渡った。
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