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第二章 飛躍の刻と絶望の間

第二十話 洛陽

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秋風が冷たさを帯び始めた頃、曹家の屋敷の門を、一人の壮年の男がくぐった。
応対に出た家人からの報告で、虎淵こえんが男を出迎えに向かった。

門の前に立つその男は、長身で体格が良く、目元には精悍せいかんさを漂わせていたが、一見すると、身窄みすぼらしい身なりと見えた。
くくった長髪からは、何本もの後れ毛を垂らしており、粗衣そいを身にまとい、高価な物とは言い難い冠を付けている。

孟徳もうとく様は…今、に服していらっしゃいますので、誰ともお会いになりません。わたくしで宜しければ、御用件をおうかがい致します。」

それを聞いた男は、驚きの表情をした。

「まさか…!曹巨高きょこう殿が、お亡くなりに…?!」
「いえ…亡くなられたのは、奥方の青蘭せいらん様です…」
左様さようであったか…曹家の御嫡子ごちゃくしが、加冠かかん(成人の儀式)されたと聞いたので、一目お会いしたく参ったが…そういう事なら、致し方ござらぬ…」

男は残念そうに肩を落とし、虎淵に軽く会釈をすると、門の外へ出て行く。

「あの…お名前を、お聞かせ願えませぬか…?」
虎淵が呼び止めると、男は立ち止まり、後ろを振り返った。

「はは、名乗る程の者ではござらぬ…!またご縁があれば、どこかで会いましょう。その様に、お伝え下され。」
そう言って、男は歩き去って行った。



故郷くにへ帰った孟徳を待っていたのは、病床にある母の姿であった。
母、青蘭はすっかりやつれ、座っているのもやっとの様子だったが、孟徳が帰ったと聞き、辛い体を起こして薄化粧を施し、孟徳を迎えた。

「母上…!」

孟徳は目に涙を浮かべて、母の手を握った。
母は瞳を潤ませつつも、いつもと変わらぬ微笑を浮かべ、優しく孟徳の肩を撫でる。

「よく帰って来てくれましたね…奉先ほうせんは、一緒では無いのですか…?」

「はい…しかし、いつか必ず、奉先を連れ戻すと約束します…!」
そう言って、孟徳は母の手を握る手に力を込めた。

「母上、どうか…どうか、死なないで下さい…!」

孟徳の頬を、涙が伝い落ちた。
母は孟徳の額に顔を寄せ、同じように涙を流した。

「これも、運命です…あなたは、わたくしの誇りです…それを、忘れないで…!」

母、青蘭はその翌日、眠るように息を引き取った。

「青蘭様は…孟徳様がお戻りになるまでは死ねないと、周囲にらしていたそうです…」

虎淵は腕で涙を拭いながら、庭にたたずむ孟徳の背に話し掛ける。
俯いたままの孟徳は、憔悴しょうすいした様子で、力無く呟いた。

「俺は、ふくさねば成らぬ…暫く誰とも会わぬので、その間はお前が俺の代わりに、事を取り計らってくれ…」



それから、半年が経とうとしていた。
親の喪に服す期間は、凡そ三年間が通例である。
孟徳は、屋敷の近くの草盧そうろこもり、祖衣粗食の生活を送っていた。

そんなある日、曹家の主が草盧を訪れ、狭い室内で、膝を突き合わせて座る孟徳に告げた。

「朝廷からの拝命を受けて、わしは官に就く事になった。急ぎ京師けいし(都)へ向かわねばならぬ。お前と、虎淵も連れて行きたいが、どうか…?」
それを聞いた孟徳は、暫し黙考した。

父が自分を心配してくれている事は、痛い程よく解る。
まだ若い孟徳にとって、三年という月日つきひは如何にも長く、大事な年月としつきでもある。
そんな息子の姿を、父は慨嘆がいたんに堪えぬ面持ちで、常日頃、眺めていたのである。

孟徳は顔を上げ、微笑を浮かべた。

「父上のお考えであれば、わたくしは、それに従うのみです。」

それを聞いて、主は相好そうごうくずし、早速出立しゅったつの準備に取り掛かかるよう告げると、草盧を後にした。

孟徳は草廬を出ると、屋敷の自室へ戻り、旅支度を始めた。
戸棚を開いて、衣服を取り出した時、足元に何かが転がり落ちた。
膝を突いてそれを拾い上げると、それはあの砦で玄徳げんとくに手渡された翡翠ひすいの首飾りであった。

『…いつか必ず会おう…』

そう約束を交わしたのは、つい昨日の事のように、鮮明におぼえている。
孟徳はそれを強く握り締め、やがて自分の首に掛けた。



漢の京師は、雒陽らくようである。
昔は「洛陽」と称されたが、漢は"火徳"である為、水を意味する"氵"(さんずい)が不吉であると改称された。
孟徳が京師を訪れたのは、幼い頃、祖父に連れられて来た時以来である。

孟徳の祖父は、曹騰そうとうあざな季興きこうと言う、宦官かんがんであった。
宦官の最高位と呼べる、大長秋だいちょうしゅうにまで登った人である。
宦官である為、子は持てないが、養子を取る事が許された。
その養子が、孟徳の父、曹崇そうすう、字は巨高である。

どういった経緯で、父が祖父の養子に迎え入れられたのか、詳しい事は分からぬが、夏侯氏かこうしが姻戚関係にあると言う事だけは知っていた。

雒陽は、東西、六里十歩(約2,700m)、南北、九里七十歩(約5,300m)という、広大な城邑じょうゆうである。
大通りを行き交う人の多さに、目が回る程であった。

京師に移って直ぐに、孟徳は孝廉こうれんに推挙され、ろうと言う官職に取り立てられた。
だが、母の喪が明けた訳では無い。職務の時意外、孟徳は自室に篭って、余り外を出歩く事はしなかった。


「孟徳様、お話ししたい事がございます。」

もうすぐ冬が近い。冴え渡る寒空さむぞらの朝である。
白い息を吐きながら、虎淵が改まって、部屋の外から呼び掛けた。
孟徳は戸を開け、虎淵を室内に通すと、向かい合って座った。

「話とは、何だ…?」
「はい…実は、僕を配下として加えたいと申されている方が、いらっしゃるのです…」

怪訝けげんな表情をする孟徳を、虎淵は真っ直ぐに見詰めながら答えた。

「その方は、朱公偉しゅこういと言う方です。」
孟徳はその名に、聞き覚えがあった。
朱儁しゅしゅん、字を公偉と言う。
交州こうしゅういて、反乱軍の首領を斬って乱を平定し、朝廷に召されて諫議大夫かんぎたいふとなった人物である。
主に従って朝廷へおもむいた際、朱大夫しゅたいふに面会し、彼は一目で虎淵を気に入ったらしい。自分の配下として加えたいと、主に熱望したのだと言う。

「…それで?お前は、どうしたいのだ?俺が、行くなと言えば行かぬのか…?」

孟徳が問い掛けると、虎淵はやや視線を下げ、両膝に乗せた手を握り締めた。

「僕は…先生の様に、強い人間では有りません。孟徳様の力になりたいと、いつも考えていますが…今の僕では、到底先生には及びません…どうすれば良いのか…迷ってばかりです…」

虎淵の声には、悔しさと切なさが込められている。
日頃、あまり心情を吐露とろする事の無い虎淵が、そこまで言うのは、真剣に悩んでいる証拠である。
孟徳は深く息を吐くと、虎淵の左肩を叩いた。

「お前の心が決まっているなら、俺に問うまでも無いであろう…!」

顔を上げて見詰め返す虎淵に、孟徳は白い歯を見せた。


その日の午後、珍しく孟徳は一人で邑内ゆうないを出歩いていた。
通りを行き交う人波に揉まれる様に、ただ波に乗って歩いた。

やはり…行くな、と言うべきであったか…

孟徳は多少、後悔した。
奉先が去り、虎淵まで離れてしまったら、自分には何が残るのか…?
人々が賑わう街角で、ふとそんな事を思うと、無性にわびしさが込み上げる。

俺は、いつも一人で運命に立ち向かっている気になっていたが…本当はそうでは無い。
いつも誰かに支えられ、助けられていたのだな…

孟徳は晴れ渡る青空を見上げ、高い空を旋回する、一羽の鷹の姿を眺めた。

「てめぇ!何処に目を付けて、歩いてやがる…!」

突然、見知らぬ男に胸ぐらを掴まれ、孟徳は地面へ投げ飛ばされた。
余りに突然の出来事で、避けるいとまも無い。
「この餓鬼がき、兄貴の肩に触れただろう!土下座して謝れ!」
仲間らしい別の男が、怒鳴り付けて来る。

孟徳は地面に膝を突いたまま、顔を上げて男を睨んだ。

「悪かった…だが、ぶつかって来たのはそっちだ…」
そう言うと、手で着物を払いながら立ち上がる。

「何だと、この野郎!この方を誰だか知らねぇらしいな…!中常侍ちゅうじょうじ蹇碩けんせき様の叔父上おじうえだぞ…!」
更に、別の取り巻きの男が前へ出て息巻く。

蹇碩と言えば、老獪ろうかいな宦官であり、既に壮年を過ぎている筈であるが、目の前の男は、どう見てもまだ若年じゃくねんである。
だが、甥が叔父より年長であるというのは、珍しい事では無い。

何より、周囲の人々がこの騒ぎを誰一人止めようとしない所か、見て見ぬ振りをしながら通り過ぎている事が、男の言う話があながち嘘では無いという証であろう。

「それを聞いて…尚更、頭を下げる気にはなれぬな…!」

そう言って、孟徳は男たちに背を向け、歩き出した。

「何だと…!てめぇ、待ちやがれ!」
蹇碩の叔父であり"兄貴"と呼ばれる男は、怒気どきあらわにして、孟徳に掴み掛かった。

肩を掴まれた孟徳は、直ぐ様身を引いて男の腕を取り、素早く懐に近付くと、鋭い蹴りを繰り出し、男を後方へ弾き飛ばした。
それを見た仲間たちは、一斉に孟徳に飛び掛かる。
男の仲間は十人近い。流石さすがに多勢に無勢で、孟徳は男たちに囲まれ、袋叩きにされた。

「もう、その辺で止めておけ!まだ童子ではないか…!」
その時、一人の男が現れ、良く通る大声たいせいで彼らに呼び掛けた。

「うるせぇ!俺に、文句が有るのか…?!」
男は倒れた孟徳の腹に蹴りを入れながら、その壮年の男を顧みた。

「うっ…あ、あなたは…!」
次の瞬間、男と仲間たちは一斉に閉口へいこうし、慌てて孟徳から離れた。

孟徳は呻きながら、口から砂の混ざった血反吐ちへどを吐き、地べたにつくばっている。
その姿を見詰めながら、その壮年の男は深く溜息を吐いた。

永光えいこうまちの人々に怨嗟えんさの種をくのはさないか…!」

「永光」と呼ばれたのは、蹇碩の叔父である。
永光と仲間たちは、その男と顔見知りである様だ。

「この事には、目をつぶってやる。大人しくうちへ帰るのだ…!」
男に叱り付けられ、永光と仲間たちは、いまいま々し気にその場を去って行った。

「大丈夫か?」

男が心配気に声を掛け、孟徳を助け起こそうとしたが、孟徳はそれを手で制しながら、自力で立ち上がった。

「お助け下さり、有り難うございました。」
孟徳は男に対して拱手きょうしゅしたが、「童子」と呼ばれた事に少なからずむっとし、着物の汚れを払いながら、無愛想ぶあいそうな態度で再び歩き出した。

「あの男は、蹇永光けんえいこうと言って、あの様に不遜ふそんな行動をする事が多々あってな…全く厄介者やっかいものだ…」

聞いてもいないのに、男は話しながら孟徳の後を付いて来る。
孟徳はやや迷惑そうに振り返り、男を見上げた。

「あれが、宦官の叔父であると知っても物怖ものおじせず、毅然としているとは、侠気きょうきがある…!」

男は感心した様にそう言うと、孟徳に笑顔を見せた。

男の身なりは立派な物では無く、束ねた髪からは何本もの後れ毛を垂らしている。
だが、男の立ち姿には清潔感が有り、何処か威厳を感じさせる。
孟徳には、一目で只者ただものでは無いと解った。

「お主、宦官が嫌いか…?」
男が問い掛けた。

「…好きな者が、居るのか?」
「はは、それもそうだ…!」
男は笑いながら、孟徳に肩を並べる。

「…俺の祖父は、宦官だ…!」

孟徳が少し、冷淡な口調でそう言うと、男は驚きの表情で孟徳を見下ろした。

「宦官の孫とは…奇異きいな事を…」
そこまで言って、男は唐突に思い当たったという具合に、顔を上げ天を仰いだ。

「もしや、曹家の御嫡子ごちゃくしか…?」

「父を、ご存知なのか?」
「曹氏には、大変世話になっている者だ。京師にられる事は知っていたが、挨拶にも行かず…失礼致した…!」
男は頭を掻きながら、苦笑を浮かべる。

「申し遅れたが、わしは橋公祖きょうこうそと言う者だ。以後、お見知りおき下され。」

そう名乗った男は、孟徳に向かい、拱手した。
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