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第一章 降龍の谷と盗賊王
第十話 謎の姉妹
しおりを挟む将軍の兵士たちが州境へ辿り着いた頃、晴れ渡っていた空は一転し、小さな雨が降り始めていた。
谷合の街道を、一台の大きな華美な車と、数台の荷車、護衛の騎馬たちの列が連なって進んでいる。
一行は、将軍の護衛兵たちと合流し、城邑へと向かった。
その長い行列が暫く進むと、霧で霞んだ道の先に、大きな木の下に二頭の馬を停め、雨宿りをしているらしい二人の少女の姿が見えて来た。
一人は、紅色の着物を、もう一人は、青い着物を身に着けている。
車に乗った男は吊された簾を上げ、手で護衛の一人に合図を送って車を止めさせた。
護衛の男は、車に乗った主から何やら指示を受け、小さく頷くと、急いで少女たちの元へ向かった。
その二人の少女たちは、いずれも十代で同じ年頃の様に見える。
「お前たち、何処へ行く?」
護衛の男が問い掛けると、青い着物の娘が、俯き加減に答えた。
「私たちは、鄭邑の祭りへ向かう旅芸人です。あと少しという所で雨に遭ってしまい、困っております…」
少女たちは、頭に布を被っている為、はっきりと顔を見る事が出来ない。
男はもう一人の、紅色の娘の前に立ち、布の中を覗き込んだ。
「こ、これは…!」
男は少し驚いた様な顔をした後、小さく咳ばらいをした。
「我が主は、大変慈悲深いお方ゆえ、そなたらを、車に乗せても良いとの仰せだ。」
そう言うと、娘たちを促して、車の方へ向かった。
「主よ、お連れしました。」
護衛の男が、簾の外から、中の人物へ声を掛ける。
簾を開き、中から顔を見せたのは、恰幅の良い中年男だった。
男は、少女たちを嘗める様に見た後、紅色の着物の娘に声を掛けた。
「娘よ、名を何と言う?顔を見せるが良い。」
娘は、布を指先で持ち上げ、恭しく、恥じらう様に顔を上げた。
長い睫の奥から、大きな瞳を上げるその少女は、紅を引いた艶やかな唇を開いた。
「麗蘭、と申します。」
微笑みを浮かべた娘は、まさに絶世の美女であった。
「良し、準備は出来たか?」
長い黒髪を解き、女物の紅色の着物を身に着けた孟徳は、立ち上がって、虎淵を振り返った。
「どうして、僕まで女の恰好を…?こんなので、大丈夫でしょうか…?」
青い女物の着物姿の虎淵は、不安な表情で大きな溜め息を吐《つ》く。
「女の方が、相手を油断させるのに好都合だ。それに、暁塊という男は、無類の女好きであるらしい。心配するな、似合っているぞ!お前なら、孟嘗君の食客にもなれよう…!」
孟徳は笑って、虎淵の背中を軽く叩いた。
二人は宿で、すっかり姉妹に変装すると、出発の準備を整えた。
虎淵は、子猫を腕に抱いて、二人の様子を眺めていた玉白に近付くと、腰を落として、玉白の肩を優しく撫でた。
「玉白殿は、僕たちが戻るまで、少しの間、ここで待っていて下さい。」
「…一緒に行く…」
玉白は、振り返って孟徳を見た。
玉白の瞳は、何かを訴え掛けようとしているが、孟徳は、それを敢えて無視する様に言った。
「お前が居なくなったら、こいつはどうするんだ?」
玉白の腕に抱かれている、子猫を指差す。
玉白は、悲しげな顔で虎淵を見つめた。
「そんな顔をしないで下さい…!僕たちは、必ず戻って来ますから…」
そう言いながら、虎淵は目線を足元に落とし、下を向いた。
やがて、玉白は諦めた様子で小さく頷き、黙って俯いた。
悪路に差し掛かり、車輪は大きく軋んだ。
酷く揺れる車内で、虎淵は冷や汗を握り締めていた。
先程から、二人を訝しがっているのか何なのか、刺史の暁塊は、二人にひたすら嘗める様な視線を送って来る。
あまりの居心地の悪さに、虎淵はちらりと、横に座っている孟徳に視線を向けた。
孟徳は、涼しげな様子で微笑を湛えている。
「お前たちは、姉妹か?」
「はい。この子は、妹の虎蘭と申します。」
暁塊の問い掛けに、孟徳は淀み無く答えた。
「そうか、ふふ…なかなかの美人姉妹よ。」
暁塊は、満足げに笑いを浮かべ、切れ長な目を一層細めて、自分の顎髭を撫でる。
ここぞとばかりに、孟徳は腰を上げ、暁塊の隣に擦り寄る様に座った。
孟徳から漂ってくる、仄かな甘い香りに、暁塊はうっとりと目を細めた。
「暁塊様、城邑へ着いたら、一つお願いしても宜しいでしようか?」
「何だ?」
「呂興将軍の屋敷へお寄りになるなら、私共も連れて行っては頂けませぬか?」
「そんな事なら、容易い事よ。」
機嫌よく答えた暁塊は、少し身を乗り出すと、舌嘗めずりをした。
「だが…只で、という訳にはいかんな…」
「ふふ…勿論、何なりとお申しつけ下さいませ。」
孟徳は、怪しげな目付きで、暁塊の顔を見上げた。
向かいに座った虎淵は、はらはらしながら、その様子を見ている。
一刻も早く、この車から飛び出したい気持ちで、一杯になっていた。
突然、車が大きく揺れたかと思うと、車はぴたりと停止した。
「ん…?何事だ…?」
暁塊は、車の小窓に掛かる簾を指で少し上げ、外の様子を伺った。
すると、護衛兵の一人が車へ走り寄り、車の外から中へ報告を行う。
「暁塊様!盗賊共が現れました…!」
「ふん、何をもたもたしておるのか…!さっさと蹴散らしてしまえ…!」
暁塊は鼻で遇いながら、護衛兵に命令した。
すると、その護衛兵は、口元に笑いを浮かべ、
「…はい、既に部下たちは皆、蹴散らされました…!」
と言うや否や、抜き放った剣で車の入り口の簾を切り裂き、その剣を、暁塊の顔の目の前に寸止めした。
「!?」
余りの突然の出来事に、暁塊は悲鳴を上げる間も無かったが、大きな鼻と額に触れそうな刃に、改めて戦いた。
護衛兵に化けていたその男は、兵士の甲を取り、長い髪を下ろした。
「き、貴様は…!!」
「確か以前、お前は二度と自分の民を苦しめぬと、俺と約束をしたはずだ…!」
男は、切れ長で鋭い目を暁塊に向け、低く澄んだ声を発した。
歳はまだ若そうだが、どこか落ち着いた威厳が備わっている。美形と言っても申し分のない、整った目鼻立ちをしていた。
「わ、解っておる…!い、命だけは…!」
暁塊は、わなわなと声を震わせた。
「だが、約束を果たす所か…俺に刺客を差し向けて来た…」
男の態度は冷静そのものだが、声には怒りが込められている。
「こ、この通りじゃ…!もう民への重税は決して致さぬと誓う!金品は好きなだけ持って行くが良い!」
暁塊は慌てて、車の床で平伏し、額を床板に擦り付けた。
それを見た男は、すっと立ち上がり、暁塊に向けていた剣を鞘に収めた。
「次は無いぞ…!」
暁塊の姿を見下しながらそう言うと、車内にいる二人の娘たちに目を向ける。
「この娘たちは、俺が貰っておく…!俺と共に来い。悪いようには致さぬ…」
男は先程とは全く違い、柔らかい口調で、二人に車から降りて来るよう、手を差し延べて促した。
その様子を、暁塊は少し顔を上げ、横目で忌々しげに睨んだ。
「…よくも…!計画を邪魔してくれたな…!」
「え…?」
男は、目の前の娘から発せられた言葉に、軽く驚きを見せた。
次の瞬間、娘は懐に隠し持っていた匕首を、男の胸元目掛けて斬り付けてきた。
男は素早く跳び退いて、車から遠ざかった。
「孟徳様…!」
咄嗟に虎淵が呼び止めたが、孟徳は匕首を手に、男を追って車から飛び出した。
馬の嘶きが聞こえ、虎淵が振り返ると、車からいち早く逃げ出した暁塊が、馬を蹴って走り去る所だった。
暁塊は憎らしい表情で、一度こちらを振り返った。
孟徳が突き出した匕首を、男は身軽な動作で、ひらりと躱す。
次の一手は、抜き放った剣で受け止めた。
「ほう…女のくせに、なかなかやるようだ…!」
「うるさい…!!」
かっと目を瞋らせて、孟徳は再び男に攻撃を仕掛けた。
男は、匕首が喉元に迫った寸前で、さっと素早く体を翻し、今度は左手の首刀で、孟徳のうなじの辺りを強く殴打した。
「……!!」
その瞬間、孟徳の膝はがくっと屈し、体は前に傾いた。
男は素早く腰を落とすと、彼の体を右腕でさっと抱き留めた。
「孟徳様…!」
叫びながら、こちらへ走り寄って来る虎淵の声が、朦朧とする意識の中、次第に遠ざかって行った。
子猫が大きな欠伸をして、目を覚ます。
いつの間にか、外からは小さな雨音が聞こえている。
宿の部屋に残された玉白は、膝を抱え、部屋の片隅に蹲っていた。
子猫は、玉白の腕や足に擦り寄り、小さくざらついた舌で、玉白の指先を嘗める。
やがて玉白は顔を上げ、子猫の頭を優しく撫でた。
部屋の隅に、趙泌の薬箱が置かれている。
玉白は、徐にその箱の前に腰を下ろすと、沢山ある引き出しを一つづつ開けて、中身を確認し始めた。
どの引き出しにも、乾燥させた薬草の様な物しか入っていない。残りの引き出しは、どれも空だった。
玉白は小さく溜め息をつくと、孟徳と虎淵が脱いで置いて行った、二人の着物に目を留めた。
少し躊躇いがちに、二人の着物を拡げてみると、孟徳の着物から、小さな書簡らしき物が足元に落ちて来た。
趙泌が探しているのは、きっとこれだ…
それを拾い上げると、ほっとした様な、少し残念な様な、複雑な気持ちが沸き上がって来た。
玉白は書簡を懐に収めると、足元に絡みついて来る子猫を、そっと抱き上げた。
「…いい子で…」
そう言いながら子猫に頬ずりした後、再び床に降ろし、入り口の戸を静かに閉め、部屋を出て行った。
子猫は「にゃあ」と小さな鳴き声を上げながら、戸をかりかりと爪で引っ掻いたが、その戸を開く事は出来なかった。
酷くじめじめとした場所で、孟徳は目を開いた。
体を起こそうとすると、頭が酷く痛み、思わず悶絶した。
「孟徳様!大丈夫ですか…!」
傍らに座って、彼を見守っていた虎淵が、急いで背中を支える。
「くっそぉ…!あの野郎、思い切り撲ちやがった…!」
孟徳は、後頭部から首筋の辺りを手で押さえながら、ゆっくりと体を起こした。
辺りは薄暗く、夜か昼かも分からない。
剥き出しの岩肌に、小さな燭台の明かりが燈されている。
何処か遠くで、雨音なのか、水が滴り落ちている様な音が聞こえていた。
「気が付きましたか?」
困惑して辺りを見回していると、何処からとも無く、一人の少女が現れた。
「此処は、師亜様の砦。"降龍の谷"と呼ばれている所ですよ。」
少女は、盆に乗せた粥を、二人の前に差し出しす。
「今、お二人に、新しいお部屋をご用意していますから、暫くはここで我慢して下さいね。」
そう言いながら、今度は茶器を取り出し、器に茶を注いだ。
「師亜様は、ああ見えて、とてもお優しい方なんです。きっと良くして下さいますよ。」
少女は、二人に笑顔で語り掛ける。
「ちょっと待て…!俺たちは此処にいる気なんて、無いぞ…!」
「心配要りません。此処に居る者たちは、皆そうやって、師亜様に助けられて来た者ばかりですから…」
話しが微妙に食い違っているが、少女は構わず続ける。
「私は、明明と申します。両親を亡くし、奴隷として働かされていた所を、師亜様に助けられました。それからはずっと、師亜様のお側に置かせて頂いてます。」
明明は見た所、年齢は十歳前後に見える。
孟徳はちらりと、脳裏に玉白の姿を思い浮かべたが、直ぐにそれを掻き消した。
「あの男…ああ見えて、幼女趣味か…」
孟徳は蔑んだ様に言うと、少女に白眼を向けた。
「誰が、幼女趣味だと…!」
暗闇からいつの間にか現れた男が、引き攣った顔で、部屋の入り口に立っていた。
「そう言うお前は、女装趣味の変態だろう?」
師亜は、目に嘲笑を浮かべて応酬した。
「…んだと!この…!」
孟徳は咄嗟に立ち上がり、師亜に掴み掛かった。
師亜は無抵抗で、微笑を浮かべたまま、孟徳を見下ろしている。
「この俺が、騙されるとは…大したものだ…」
師亜はふっと笑うと、孟徳の頬に指先で触れて来た。
「暁塊を騙して、どうする気だったのだ?奴の屋敷に忍び込むつもりだったのか?」
孟徳の腰を腕で引き寄せ、顔を近付ける。
「さっ触るな…!変態野郎…!」
孟徳は師亜を突き放そうとしたが、彼の腕は想像以上に力が強い。
「事情によっては、協力してやっても良いのだぞ。」
師亜は微笑を崩さず、探る様な目付きで、孟徳の瞳を覗き込む。
軽率そうな師亜の態度に、反感はあるが、他に頼る相手もいない。
躊躇いつつも、孟徳は口を開いた。
「…助け出したい、仲間がいる…」
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