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第一章 降龍の谷と盗賊王

第六話 旅の道連れ

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翌朝、澄み切った空気の中、二人は宿から外へ出た。
二人の足取りは、重くはない。目的の場所は、既に決まっている。
昨夜の内に、宿の主人から、将軍の食邑しょくゆうの場所を聞き出していた。
"鄭邑ていゆう"というその邑は、ここからおよそ二百里の道のりである。

邑の通りへ出た時、市場の方から、男のがなり声が聞こえて来た。

「この餓鬼がき!よくもわしの商売道具を、壊しやがったな!」
大男が斧を片手に、少女の腕を掴んでいる。

足元には、割れた酒甕さかがめの破片と、中に入っていたらしい、白く濁った覆水ふくすいが広がっていた。

その二人の間に、男が割って入り、しきりに頭を下げている。

「どうか、堪忍してくだせえ!旦那!」
男は、大きな箱の様なものを背負っている。
必死な形相で、大男の足にすがり付いていた。

「このは、言葉が通じねぇんです…!耳が不自由でして…不憫ふびんと思って、許してやってくれやせんか?!」

大男に腕を掴まれた少女は、声も発さず、人形の様に振り回されている。

「しょうがねぇ…許してやるよ…!」
そう言うと、大男は足に縋り付いた男を蹴り飛ばし、少女の細い腕を強引に引っ張ると、台の上に強く押し付けた。

「片腕だけでな…!!」

大男が握った斧を頭上高く振り上げた瞬間、

「やめろ!!」

その声と共に、大男の胴体に何者かが飛び掛かった。
男は一瞬よろけたが、直ぐに体勢を立て直し、目の前の少年を睨みつける。

次の瞬間、大男の顎の下へ、素早く切っ先が向けられた。

「お、おいおい…!まさか、本気でやると思ったか?ただの脅しだ…!」
大男は額に汗を浮かべ、慌てて斧を地面に投げ捨てた。

「俺のも、脅しに見えるかい?おっさん…!」

孟徳は大男を睨み据えたまま、片頬だけを上げて笑った。


「旦那…!待ってくだせぇ!」

箱を背負った小男が、少女の腕を引いて追いかけて来た。

「さっきは助けて頂き、ありがとうごぜぇやす…!」
城邑の門の前で、孟徳と虎淵に追い付いた男は、深々と頭を下げる。

「ほれ、玉白…!おめぇも、ちゃんとお礼しねぇと…!」
男はそう言って、少女の頭を押さえ、強引に下げさせようとする。

「礼など必要ない…!」

足を止め、それを見ていた孟徳は、少し不快な表情をする。
男の手の下で、少女は大きな黒い瞳を上げて、孟徳の顔を見つめている。

「ああ…旦那、やっぱり、昨日のお方だね…!」
孟徳の顔を改めて見た男は、そう言って愛想の良い顔でにっかりと笑った。

「いやぁ、それにしても驚いた!旦那は剣の達人ですかい?」
男は、矢継ぎ早に話しかけて来る。

「この邑の者ではなさそうだし…何処かへ、かれる途中ですかい?」
「関係の無い事だ…虎淵行くぞ…!」
迷惑そうな表情で、孟徳は虎淵を促し、男と立ち尽くす少女に背を向けて、再び歩き始める。

「これも、何かの縁でさぁ…!あっしは旅の薬売りで、あちこちまわってるんで、力になれるかも知れやせんよ!」

男は、二人の背中に呼びかけた。



鄭邑ていゆうへ行くのかい?だったら、あっしが一番近い道を教えやす!」
男は、布にいた地図を机の上に拡げ、指で示しながら、白い歯を見せて笑った。

孟徳と虎淵、男と少女の四人は、邑の小さな茶屋へ入り、机を囲んで向かい合っていた。

「あっしは、趙泌ちょうひつと申しやす。この玉白ぎょくはくといって、あっしの姉の子なんですが…幼い頃に母親を亡くして…今は、あっしが面倒をみてると言う訳でさぁ…」

趙泌は、隣に座る玉白の頭を撫でながら話す。
玉白は、無表情のまま、孟徳の顔をじっと見つめ続けている。

「ずっと気になっていたんだが……」
孟徳が口を開いた。

「何でこいつは、ずっと俺にがんを飛ばして来るんだよ…?!」

思わず立ち上がり、声を荒げる孟徳を、
「まぁまぁ、落ち着いて…孟徳様…」
と虎淵がなだめ、肩を押さえて座らせる。

「ああ…それは、その…」
趙泌は先程までとは違い、急に口篭くちごもる。

「この子には、五つ年上の姉がいたんです。この辺りの山には、虎が住んでやして…ひと月程前、山に入ったきり帰って来ねぇんでさぁ…」
趙泌は、痛ましい目付きで、玉白の横顔を見つめた。

「生まれつき、耳が不自由で…言葉が通じねぇもんで、何て言ってやったら良いか…それで、この子は姉さんがいつか帰って来る、と信じてやしてね…」
孟徳に向き直ると、じっと見つめる。

「本当に、よく似てるんでさぁ…!この子の姉さんに…!」

「………?!」

孟徳と虎淵の二人は、暫し言葉を失い、呆然とお互いの顔を見合わせた。
次の瞬間、虎淵がこらえ切れず吹き出した。
孟徳は複雑な表情で、顔を紅潮させた。

「おい!笑うなよ、虎淵!!」
「だって…孟徳様…!も、申し訳ございません…!」

「どうだい、旦那?そろそろ、あっしらもこの邑を離れようと思っていた所なんだ…一緒に鄭邑まで行きやせんか?」
趙泌は人懐ひとなつこい笑い顔を向け、二人に提案してきた。

「あっしが道案内しやすぜ!それに、人数は多い方が安心でしょう?」

相変わらず、こちらへ眼を飛ばしている玉白を横目に見ながら、孟徳は暫く考え込んだ。


出会った邑から、三日目の夜を迎えていた。
天候にも恵まれ、順調に道程どうていを進んで来た。
南へ向かうほど、山々の白さは衰え、少しずつ緑の大地が見える様になっていった。

先頭に、趙泌が馬上で荷車を繋いだ馬を引き、後ろに孟徳、虎淵がそれぞれ馬にまたがって続いていた。
荷車には、趙泌が背負っていた、薬が入っているらしい大きな箱と、玉白を乗せている。

四人は、街道から少し離れた、平らな場所を見付けると、焚火を囲んだ。

「この調子で行けば、あと二日もあれば着きやす…!」
趙泌は、擦り合わせた手を、焚火にかざす。

「趙泌殿のお陰で、本当に助かりました!ねえ、孟徳様…!」
虎淵と趙泌は、すっかり打ち解けた様子で、会話を交わしていた。

孟徳が、焚火の傍へ行って腰を下ろすと、玉白が近付いて来た。

「…何だよ、ここに座りたいのか?」

玉白は、じっと孟徳を見下ろしていたが、やがてその隣に腰を下ろした。

「玉白殿は、やっぱり、お姉様がお好きなんですね…!」
二人の様子を、目を細めて見ていた虎淵が、冗談っぽく言うと、孟徳は睨み返した。

「玉白、お前には気の毒だが…お前の姉さんはもう死んだんだ…!帰って来る事は無いんだよ…!」

玉白は、不思議そうな顔で、孟徳を見つめている。
「…言っても無駄か…」
そう言って、目を伏せた。
やがて眼差しを上げ、玉白の黒い大きな瞳を覗き込んだ。

「お前は、信じてるんだよな…自分の目で確かめるまでは、姉さんが生きていると…!」

玉白の瞳は、赤い炎に照らされて、揺らめいている様に見えた。

趙泌が、鍋に水といいを入れ、手早く掻き混ぜ、火に掛けている。
出来た粥を二つのわんそそぎ、それぞれ孟徳と虎淵に勧めた。

「明日も、早朝から出発しやすぜ…!若い人は、しっかりと栄養をつけねぇとな!あっしは、見張りをやってるから、ゆっくり休んでくだせぇ。」
趙泌はそう言うと立ち上がり、少し離れた場所にある、大きな岩の上に腰を下ろした。

椀にがれた粥を食べ干した虎淵は、鍋から新たな粥を注ぐ。

「玉白殿も、お食べ下さい…」
そう言って、椀を玉白に差し出そうとした。が、椀は虎淵の手から滑り落ち、地面に転がった。

「虎淵…?!」

それを見て、咄嗟に孟徳は立ち上がろうとした。

「……!!」
しかし、急に視界が歪み、激しく地面が揺れている感覚に襲われた。

虎淵は、地面に仰向けになって倒れている。
ふらつく足を、二、三歩踏み出したが、立っているのがやっとだった。
孟徳は膝から崩れ落ち、そのまま、虎淵の隣に倒れ込んだ。
意識が遠退き、視界の端には、焚火の前に膝を抱いて座り、じっとこちらを見つめている玉白が映った。

「ようやく眠ったか…」

岩の上で、遠くの山々を遠望していた趙泌は、冷めた目付きで、肩越しに振り返った。
岩から飛び降り、焚火の方へ歩いて来る。

「おい、玉白!ぼさっとしてんじゃねえ!さっさと手伝うんだ!」
趙泌に呼ばれ、玉白は青白い顔を上げた。

趙泌は、手早く二人の腕を、縄で後ろ手に縛った。
虎淵と孟徳を、玉白と二人で荷車へ運び込み、その上に筵を掛けた。

「良し、焚火を消すんだ!急がねえと、かしらを待たせちゃ後が怖えぞ…!」
そう言って、玉白をかすと、出発の準備を急いだ。



荷車を引かせた馬に、鞭を呉れながら、趙泌は山道を急いだ。
玉白は、荷車から空を見上げていた。

月の光が、森の木々の間から、怪しく差し込んで来る。
青白い月はまるで、自分たちを追い掛け、頭上高くに留まったまま、こちらを見ている様に感じられた。

谷を抜け、丘を超え、やがて道沿いに、一塊の集団が野営しているを、趙泌は遠望した。
やがて、その集団からも趙泌の姿は確認された。
物見の男が、仲間を振り返って怒鳴った。
「趙泌の野郎が現れた…!おかしらに知らせろ!」

「随分、待たせたじゃねぇか!」
趙泌の頭上から、恐ろしいだみ声が降って来た。

かしらは、熊の様に大きな図体で、踏ん反り返って趙泌を睨んだ。
顔つきは、まるで虎の様で、鼻が非常に大きい。
獣の皮を身に着けていて、盗賊の様な格好である。

「申し訳ありやせん…!こいつらが、鄭へ行きたいなんて言い出すもんで…ちっとばかし、遠回りになっちまいやして…」
狼狽うろたえながら、趙泌は振り返って、荷車の方を指差した。

「ろくな奴じゃ無かったら、てめぇの首を引っこ抜いてやる!」
頭は趙泌を押し退け、大股で歩きながら荷車へ近付き、頭の後から付いて来た仲間が、筵をめくった。

「ああ…?何だ、餓鬼じゃねぇか…!俺は使える奴を連れて来い、と言ったろう!!」

頭は、鬼の形相で趙泌を振り返った。

「あっしらに、大の大人を捕まえるなんて、無理でさぁ…!だが、そいつは使えやすぜ!剣の達人なんだ…!」
趙泌は、慌てて弁解した。

「ふん…!全く、約に立たねぇ!」
そう言いながら、頭は懐から取り出した金子きんすを、趙泌の足元に投げた。
趙泌はしゃがみ込んで、それを拾い集めたが、

「…たったの、これっぽっちですかい…?」
と、情けない顔を上げた。

「文句があるのか!次は、もっとましな奴を捕まえろ!」

頭が怒鳴っている内に、仲間たちが虎淵と孟徳を、荷車から引きずり降ろしていた。
荷車の端に座った玉白は、ただ押し黙って、その様子を見つめている。

頭は、二人を火の傍まで連れて来させると、孟徳の着物の襟首を掴んで顔を上げさせ、手桶に汲んだ水を勢いよく掛けた。

「おい!起きろ!薄鈍うすのろめ!」
孟徳は意識を取り戻したが、次に、激しく咳き込んだ。

「うう…」
朦朧とする意識の中で、孟徳は地面に倒れて身悶みもだえた。

虎淵も、仲間たちに同じように、水を掛けられた。
意識を取り戻した虎淵は、顔を上げ、辺りを見回した。

「も、孟徳…様…!」
虎淵の目に、倒れている孟徳の姿が映り、彼は一瞬で正気を取り戻した。
立ち上がろうとしたが、両手を縛られ、自由が利かない。

虎淵は振り返って、荷車の側に立ち尽くしている、趙泌と玉白を見た。

「趙泌殿…!僕たちを、騙したんですね…!」
虎淵の声は震えていた。

趙泌は黙ったままうなだれ、玉白を荷車へ乗せると、馬を引いて、その場から立ち去って行った。

「いいか、お前ら!今日から、俺がお前らの飼い主だ!逃げようなんて考えたら、酷い目に合うぞ!」

頭が二人に怒鳴り付けながら、仲間たちに出発の合図を送る。
仲間たちは、孟徳と虎淵を引きずる様に連れて行くと、太い木で組んだ大きな檻へ、二人を放り込んだ。
檻には大きな車輪が付いており、やがて車輪を軋ませながら動き始めた。

後ろ手に縛られ、冷たい床板に転がされた孟徳は、きっと顔を上げた。

「趙泌の奴…!今度会ったら、ただでは済まさぬぞ!」

虎淵は、隣でぐったりとうなだれている。

「孟徳様…僕が付いていながら…本当に、申し訳ございません…」
「何を言っている…!終わった事はどうでも良い!ここから逃げる事を考えろ!」
孟徳は、木組みの間から外を見た。

ざっと見回して、小集団のこの賊は四、五十人程度だ。
盗賊だと思っていたが、彼らは奴隷商人だった。
自分たちの他にも、檻に入れられた人々がいるらしい。数台の檻車が引かれているのが見えた。

ふと、丘の上に昇った青白い月を、孟徳は見上げた。

「…?!」
何かいる。そう思った次の瞬間、

「虎淵!伏せろ!」

物凄い早さで、何かが檻の中へ飛び込んで来た。

外では、何人かが呻き声を上げて、一瞬にして馬から転がり落ちていた。
「敵襲だ…!!」
かしらが怒鳴って、腰の剣を抜き放った。

次々と矢の雨が降って来る。
頭は剣で、飛び交う矢を払い落とし、馬を飛ばして森へ駆け込んだ。
仲間たちも、頭に続いて森へ馬を走らせる。

降り注ぐ矢が治まり、孟徳が顔を上げると、檻の中には無数の矢が突き立っていた。
後ろ手に縛られたまま、矢の一本を抜き取ると、鏃《やじり》で縄を切った。

「大丈夫か…?!虎淵!」
虎淵を自由にし、振り返ると、先程まで閉まっていた檻が、開け放たれている。
何者かが、檻車を開けて行ったらしい。
他の檻車からも、囚われた奴隷たちが逃げ出していた。

「まだ、近くに敵が潜んでいるかも知れぬ…!」

孟徳は、倒れた男の腰から剣を抜き取り、虎淵と共に森の方へ走った。
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