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第1話『見える男』

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 1-1


 飛鳥が死を自覚してから三十分、あれから翼はずっと泣きっ放しだ。そばにいるのに何もしてやれないもどかしさに耐え切れず、飛鳥は静かに家を出る。
 行き交う人々も翼と同様に、飛鳥の姿が見えていないようだった。ぶつかりそうになっても避けてくれないし、やはり接触しようとすると身体をすり抜けてしまう。

(完全に幽霊状態だな……。死んだらみんなこうなっちまうのか?)

 もしそうだとしたら、飛鳥以外にも同じ状態の人間がどこかにいるのかもしれない。ただ、生きている人間とそうでない人間を一目で見分ける方法が飛鳥にはわからなかった。
 行く宛てもなくトボトボと適当に歩き、広い公園に差し掛かったところで飛鳥はベンチに腰を下ろした。公園内は人気が少なく、忙しそうに通り過ぎていくスーツリーマンと、芝生の上で遊ぶ幼い子とその母親らしき女性がポツポツといるくらいだ。

(俺も子どもの頃はここによく来てたっけな~。翼を連れて来て遊んでやったこともあったっけ)

 八つ下の弟のことが、飛鳥は昔からずっと可愛くて仕方なかった。翼が中学生になった今もそれは変わらないし、翼のほうもまた飛鳥のことを兄として慕ってくれている。
 そんな可愛くて大事な弟を独りにしてしまった。叔父がいるから天涯孤独というわけじゃないが、翼にはもう、血の繋がった家族がこの世にいないことになる。両親の死からまだそれほど年月が経っていないタイミングでの追い打ち……翼のショックはきっと計り知れないほどのものになってしまっただろう。
 できることなら元に戻りたい。生き返って弟の元に駆けつけてやりたい。だけどそんな方法はどこにもないのだと、なんとなくわかっている。

(つーか俺永遠にこのままなのか? 死んだら天国なり地獄なりに行くんじゃないのかよ?)

 誰とも話せない、誰とも触れ合えないなんてあまりにも退屈だ。それはある意味で考えうる地獄の一つなのかもしれなかった。

「――お兄さん」

 すぐ近くから声が聞こえたのは、飛鳥が今の状況に絶望を感じ始めたときのことだった。振り返ると、飛鳥と同い年くらいの男が立っている。トップ短めのツーブロックヘアーをしたどこにでもいそうな青年で、好奇心旺盛そうな瞳がこちらを見下ろしていた。

「こんなとこ一人で座って何やってるんすか? ひょっとしてデートの待ち合わせ?」

 飛鳥は一応辺りを見回してみるが、近くに他の人間の気配はない。

「いやいや、お兄さんで合ってるよ。坊主が似合うお兄さん」
「あんた……俺が見えるのか?」

 これはもう飛鳥が話しかけられているんだと確信して、そう問う。

「見えるって……そりゃ見えるでしょ。こんなイケメンを俺が見逃すわけないじゃん」

 声もちゃんと届いているようで、飛鳥の言葉にちゃんと返事が返って来る。

「もしかしてあんたも仲間なのか?」
「そうそう、お仲間ってやつだよ。やっぱお兄さんもそうなんだ? 坊主だし、ハッテントイレの近くにいるし、絶対そうだと思ったんだよね」
「ハッテン……?」

 言葉の意味がわからなくて困惑する飛鳥を他所に、青年は図々しくもどかっと隣に腰かけてくる。そしてなぜか手を飛鳥の太腿に触れさせた。

「触ることもできるのか!?」
「えっ、もしかして触っちゃ駄目だった?」
「いや、そうじゃない。ちょっとびっくりしただけだ。俺なんか今日は触りたくても触れなかったし……」
「へえ、お兄さん意外とシャイなんだね。お兄さんみたいなイケメンに触られたら大概のお仲間は悦ぶと思うけどな~。俺だってめっちゃテンション上がっちゃうよ」
「そ、そうなのか? よくわからんけど、俺も触ってみていいか?」
「もちろん!」

 嬉しそうに笑う青年の頭に、飛鳥は遠慮がちに触れてみる。髪の毛のサイドは想像していたとおり、硬くジョリジョリとした感触がした。トップのほうはサイドに比べれば柔らかいが、ワックスで固めたのかツンツンしている。
 続いて両頬に触れる。思っていたよりも柔らかい。それに人肌の温もりを感じる。もう永遠に感じ取ることができないと思っていたそれに、どこか安堵するような気持ちになった。

「焦らすね~。そういうのも嫌いじゃないけど、俺はもっとガツガツ来られるほうが好きだよ。たとえばこんな感じにさ」

 そう言って青年が手を伸ばしてきたのは飛鳥の股間だった。膨らみをズボンの上から柔らかく揉んできたその手を飛鳥は慌てて払いのけ、青年の顔をまじまじと見返す。

「なんでそこを触るんだよ!?」
「触るっつったらやっぱそこだろ? あ、それとも人目が気になるのか? ならそこのトイレで触り合いとか見せ合いしようぜ。なんなら俺ん家でもいいし」
「なんでそうなる!? 幽霊になったらそういうのが挨拶代わりにでもなるっつーのか!?」
「幽霊? 何の話?」
「あんたも仲間なんだろ? さっきそう言ったじゃねえか!」
「うん、ゲイ仲間だって言ったね」
「ゲイ仲間……だと?」

 自分たちの会話は噛み合っているようでまったく噛み合っていなかった。今更そのことに気づかされ、同じ境遇の人間に出会えたと思っていた喜びはまた絶望へと一気に色を変えてしまう。

「……いや、待て、じゃあどうしてあんたには俺が見えるんだ? 会話も普通にできるし、身体に触ることもできる。他の人は駄目なのに、なんで……?」

 最愛の弟にすら触れられなかった。もう言葉を交わすこともできない。同じ空間にいるのに、何かを共有するということはもう永遠にできないのだと、どれだけ悲しみに暮れただろう。それなのに、この縁もゆかりもない青年とは生きていた頃に他人とそうしていたように、普通にコミュニケーションがとれる。

「さっきから何言ってんの? あ、もしかしてお兄さん、中二病ってやつ?」
「ちげえよ。俺、幽霊……って言っていいのかどうかわかんねえけど、とにかく死んでるんだ。だからあんた以外の人には俺のことなんて見えてねえんだよ」
「うわ、中二病でもかなり重い類のあれじゃん……」

 さっきまで穏やかだった青年の顔に、不快そうな表情が少しだけ浮んだ。飛鳥が弁明しようとする前にスッと立ち上がる。

「手に負えねえわ。じゃ、俺用事思い出したから帰る。その変な妄想に付き合ってくれる優しい人に出会えるといいな」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 歩き去ろうとする青年の腕を慌てて掴んだ。

「放せよ! 俺は忙しいんだ! いい歳した男の中二病な妄想に付き合ってる暇なんかねえの!」
「嘘つけ! 忙しいやつがこんなところでナンパなんかするもんか! さっきのナンパだったんだろ!? さすがの俺も気づいたわ!」
「中二病だって知ってたら、どんだけ顔がタイプでも声かけなかったよ! 俺はもっと普通の人がいいの!」
「中二病じゃねえよ! ホントに死んでるんだって!」
「じゃあ証拠見せてみろや! 他のやつらに見えてねえっつーんなら全裸でこの辺一周するくらいわけないよな!?」
「ああやってやるよ! それでもし俺の言ってることが本当だったら土下座で謝罪しろ!」
「土下座くらいいくらでもしてやるよ! その代わり嘘だったらお前が土下座しろよ! いや、土下座の前に通報されて人生終了だろうけどな!」

 嘲笑った青年の顔を一つ睨んでから、飛鳥は自分の服に手をかけた。他人や物には触れられないが、自分の身体や服には触れられるのだと今更のように自覚しつつ、上から順番にパパっと脱いでいく。ちなみに身に纏っていたのは死ぬ直前に着ていたものではなく、なぜか部屋着として使っているジャージだった。
 下着一枚になったところで、嘲笑っていた青年の顔が困惑したそれに変わった。まさか飛鳥が本当に脱ぐとは思っていなかったのだろう。

(土下座することになるのはお前のほうだからな。見てろよナンパ野郎)

 最後の砦となったトランクスを脱ぎ捨てると、青年はギョッとしたように目を見開いた。

「そんじゃ一周してくる」
「あ、おいっ……」

 何か言いかけた青年を無視して飛鳥は人のいるほうへと駆け出した。
 もしかしたらあの青年以外の人間にも見えてしまうかもしれない。一瞬だけ人前に飛び出すことに不安と躊躇いを覚えたけれど、見えていようがいまいが、自分が死んでいることには変わりはない。そう思い直して芝生のほうへ走り出る。
 生きているときに同じことをしていたら、変質者として通報されるのも待ったなしだっただろう。けれどやっぱり今は、芝生の上を歩き回る幼い子どもも、それを見守る母親らしき女性も、犬を連れて歩くおじさんも、ベンチに座ってサンドイッチを食べているスーツリーマンも、誰一人として飛鳥のほうへ視線を向けてくることはなかった。見ないようにしているのではなく、明らかに見えていないのだ。
 騒ぎなど起きるわけもなく、飛鳥は辺りを一通り駆け回ったところでさっきのベンチまで戻る。飛鳥に裸で一周して来いと言った青年は、まるで神隠しにでもあったかのように呆然としていた。

「で、感想は?」
「すげえエロい身体してんのな……」
「そういうこと訊いたんじゃねえよ! ご覧のとおり、何の騒ぎも起きてねえだろ? 俺の言ったこと嘘じゃなかったってことだよ」
「いや、けどさ……幽霊なんてもん、いるわけねえじゃん。あ、もしかしてこれポニタリング!? あっちにいる人たちもみんな仕掛け人なのか!?」
「いくらポニタリングでもさすがに全裸で公共の場走らせたりしねえだろ! ……つーか服着よ。他人からは見えないっつってもやっぱ落ち着かねえわ」

 それにこの青年にはしっかり見えているようだし、彼の目の保養になるのも悔しい。トランクスから順に急いで着衣を済ませる。

「なあなあ、お兄さんって俳優か何かなの?」
「だからポニタリングじゃねえっつってんだろ!」
「いやいや、マジで幽霊なわけないじゃん。記念に写真撮っていい? あと名前教えといてよ。俳優なら今度から出るドラマ絶対チェックするから」
「もう好きにしろ……」

 これは何を言っても信じてくれそうにない。それを察して飛鳥も諦めモードに入る。ベンチに腰かけると青年も隣に座り、肩が触れ合うくらい近寄って来ると、スマホを構えた。

「……ってあれ? 何でお兄さん映らないんだろ?」

 青年のスマホには、本人の姿しか映っていない。角度や距離を何度か変えたりしてみたけれど、そこに飛鳥の姿が映し出されることはなかった。

「まあ幽霊だから当然だな」
「マ、マジで幽霊なの?」
「さっきからそう言ってんだろ? ポニタリングじゃねえっつーの」
「いや、でも普通に見えてるし、触れるじゃん。股間のもっこりもしっかり感じ取れたんだけど」
「何でかは知らねえけど、どうもお前だけには見えるし、触り合いもできるみたいだ」
「触り合いって何かエロい響きだね……」
「やかましいわ!」

 要らぬ口を挟んだ青年の頭を軽く叩くと、やはりさっきと同じようにちゃんと髪の毛の感触がした。

「じゃ、じゃあ俺土下座しねえと……」
「土下座?」
「さっき約束したじゃん。お兄さんが幽霊ってのがマジだったら土下座するって」
「そういえばそんなことも言ったな。けどもういいよ、土下座は」

 あのときは絶対に土下座させてやろうと意気込んでいたものの、飛鳥が本当に幽霊だとわかって明らかに狼狽している青年の様子を見ていると、何だか気の毒に思えてきた。

「その代わり、俺の話し相手になってくれよ。今のとこ俺のことが見えて、俺の声が聞こえるの、あんたしかいないから」

 誰とも会話ができない、誰にもその存在が認知されない。そんな世界でこれから先ずっと生きていかなければならないのかと思うと気が狂いそうになる。けれどこの青年がいるならまだどうにか平静を保っていけそうだ。

「の、呪われたりしない?」
「しねえよ! 人聞きの悪いこと言うんじゃねえ! それに呪いたくても呪い方がわかんねえよ!」
「そ、そっか……じゃあここで話すのもなんだし、うちに来る? あとここだと俺が人目気になるわ。他の人から見えないってことは、傍から見たら俺一人で喋ってる変なやつだし」
「それもそうか……」


 1-2


 鳶川とびかわ大空ひろたか――それが、公園で偶然出会った青年の名前だった。飛鳥と同じ二十三歳で、この近くの化学工場で働いているという。
 大空のアパートに着くまでにできた自己紹介といえばそれくらいだった。道中は人目があって大空は話し辛そうだったし、バスの中となると尚更だ。意図した沈黙だから気まずさを覚えることはなかったが、話しかけたくて飛鳥はずっとうずうずしていた。
 バスに揺られること十五分、飛鳥の生活圏から少し離れた町のバス停で大空は降車する。バス停からアパートまでは歩いてすぐで、玄関に入るなり大空は大仰に息を吐いた。

「やっとまともに会話できるな」
「だな。隣にいるのに放置されてて寂しかったぞ」
「しゃーねえじゃん。不審者扱いされるのは御免だぜ。まあとりあえず上がれよ」

 お邪魔します、と断ってから飛鳥は大空の部屋に上がらせてもらう。
 通されたリビングは程々に生活感が感じられるものの、どちらかというと綺麗なほうだった。広さはダイニングと合わせて八帖くらいだろうか。家具は全体的にこぢんまりとしているが、一人で暮らすにはちょうどよさそうな感じだ。ここにベッドや布団がないということは、あの奥のドアの向こうに寝室があるのだろう。

「一人暮らしだよな?」
「じゃなきゃ、いくら他人から見えないっつったって連れて来ねえよ。落ち着かねえし」
「彼氏とかいないのか?」

 大空がゲイだということは公園でのやり取りで把握している。

「今はいねえな~。こう見えても貞操観念強いからさ、いたらナンパなんかしねえよ」
「意外だな。浮気とか普通にしそうな雰囲気なのに」
「失礼だな~。そういうあっちゃんは彼氏……いや彼女? はいなかったの?」
「彼女で合ってる。俺もしばらくいなかったな。あんま欲しいとも思ってなかったけど」

 飛鳥にとって最も優先すべき事項は弟の翼だった。弟に安心・安全な生活を提供することが飛鳥の生き甲斐であり、それに幸せを感じるほど翼を家族として愛している。ちなみに恋人は過去に二人ほどいたこともあったが、どちらにも飛鳥が弟を優先したがることを理由にフラれている。

「つーか“あっちゃん”って呼ぶんじゃねえよ」
「え~、いいじゃん別に。飛鳥といえばあっちゃんだろ? あ、俺のことはひろちゃん♡って呼んでくれてもいいよ」
「絶対呼ばねえよ」

 飛鳥もそうだが、大空も決してちゃん付けで呼ばれるような顔じゃない。

「あっちゃんってゲイには偏見ないんだな。俺にしか見えてないとはいえ、それでもゲイの家に上がるのは普通抵抗あるんじゃねえの?」
「別にそんなんねえよ。俺の弟もゲイだし、職場にもいたから」

 弟からそれを聞かされたのは一年ほど前の話だ。思いつめたような顔で部屋に呼び出されたかと思うと、震えそうな声でカミングアウトされたのである。

「まあそれがなくても元々偏見なんてなかったけどな。人間って七十億だか八十億だかいるわけだろ? その中の何割かが同性を好きになっても何もおかしくねえと思うけどな~」
「みんながみんな、あっちゃんみたいな考え方してくれたら、ゲイももうちょい生きやすいんだけどね。まあとりあえず……俺にあっちゃんの弟紹介してよ」
「絶対嫌だっ」

 きっぱりと拒否すると、大空は「え~」と不満そうな声を上げる。

「可愛い弟を、公園で見知らぬ男に声かけたあげく股間揉んでくるような野郎に紹介するわけねえだろ」
「あれはお互いに誤解があったんじゃん。ハッテントイレの真ん前にいたあっちゃんも悪いよね?」
「なんでだよ! 一般人はあれがそういうトイレかどうかなんて知らねえよ! ゲイの常識を押し付けてくるんじゃねえ」

 ゲイそのものに偏見はないが、公共の施設でそういう行為をするというのはさすがに擁護できないものがある。

「とにかく弟は絶対に紹介しないからな。お前に紹介するくらいならむしろ俺があいつと付き合うわ」
「あっちゃんブラコンなの? というかそれはゲイなのでは?」
「ブラコンは認めよう。だが決してゲイではない。翼は特別枠ってやつだ」
「それもそれでどうよ……」

 ブラコンなんて最早言われ慣れた言葉だし、むしろそう言われることに喜びさえ感じている。ブラコンで何が悪い。あんな可愛くて、優しくて、自分のことをものすごく慕ってくれる存在を大事に想わないなんて、そんなの兄としてありえない。

「お前もきっと弟ができたらこの気持ちが痛いほどわかるはずだ」
「水を差すようで悪いんだけどさ、俺弟はいないけど兄貴がいるんだよね」
「へえ。やっぱり可愛がってくれるのか?」
「いや、昔からすげえ仲悪かったよ。意地悪だし、乱暴だし、ロン毛だし」
「兄弟で仲が悪い……だと?」
「仲が悪いって兄弟結構普通にいるよ? むしろあっちゃんほどのブラコンのほうがそうそういねえんじゃねえかな~」

 まあ確かに飛鳥ほど弟を大事にしている兄を他に知らないが、仲が悪い兄弟というのも周りにはいなかった。だから信じられないような気持ちと同情するような気持ちを同時に抱きながら、隣に座った大空の肩を優しく叩いてやる。

「それは何というか、巡り合わせが悪かったな……」
「別にいいけどね。今はこうして別々に暮らしてるから気にならねえし。まあ仲のいい兄弟ってちょっと羨ましかったけど」
「だろう?」
「どや顔するんじゃねえ」

 こうして弟の話をしていると、本人に会って話をしたくなってくる。だけど家に戻ればきっとまた、悲しむ弟を眺めることしかできないことにもどかしさが募っていただろう。

(そういえば大空にまだ肝心なことを話してなかったな……)

 和室で泣いていた弟の姿を思い出すと同時に、ここに来て一番に話そうと思っていたことがすっかり忘れ去られていたことを思い出す。飛鳥は自分が滑落して死んでしまったこと、そして目を覚ましたらこの幽霊状態になっていたことを大空に話した。

「その歳で死んじゃうなんて、災難だったな」
「ホントだよ。まだまだいろんなところに翼を連れて行く予定だったのに……。ディズニーとかユニバーサルとか」
「え、そこ?」
「そこ大事だろ! 弟と遊園地デートめっちゃ楽しみにしてたんだぞ!」
「あー、うん。残念だったね」
「もっと気持ち込めて言えや……。翼に尽くして尽くして尽くしまくって、最終的にお兄ちゃんさえいれば他の男なんて要らないって言わせるのが俺の目標だったのに……」
「駄目だこのブラコン早く何とかしないと……」

 結局計画も半ばに達しない辺りでとん挫してしまった。油断して足を滑らせたことが本当に悔やまれる。

「弟くんのことはさて置いて」
「俺の可愛い弟をさて置くんじゃねえ」
「いちいち突っかかるなよ! あっちゃんはさ、何で山に入ってたの? 登山が趣味だったとか?」
「いや、ちげえよ。仕事で木を伐りに入ってたんだ。急な斜面だったけどすげえいい木があったから、どうしてもそれが欲しくて無理したんだ。その結果がこれ」
「木こりか何かだったの?」
「いや、俺はことの職人だったんだ」

 箏はマイナーな楽器ではあるが、飛鳥たちの暮らす地域には昔から製作所があったからか、箏を持っている家庭が多かった。飛鳥の家にもあったし、小中学生の頃は教室に習いにも行っていたからもはや身近な楽器だ。

「へえ、珍しいじゃん! 箏懐かしいな~。中学の音楽の授業で弾いたの憶えてるわ」
「俺んとこは兄弟そろって習いに行ってたぞ。高校でも箏曲部に入ってたし、家でも暇なときは弾いてた」
「顔に似合わねえことしてたんだな……」
「やかましいわ」

 確かにこの厳つい顔には似合わない楽器だが、才能は多少あったようで、あまり大きくはないがコンクールで賞を獲ったこともある。それでも演奏者ではなく箏の作り手として生きる道を選んだのは、そちらに対する興味のほうが大きく、かつ自分に向いていると思ったからだ。

「つーか木を伐るのも箏職人の仕事なんだな」
「いつもは業者にやってもらってる。あのときはどうしても自分で木を選んで、自分で伐りたかったんだ」
「なんで?」
「弟のために箏を作るつもりだったから」

 三年後の翼の誕生日に、自分の作った箏をプレゼントしようと計画していた。そのための伐採作業だった。

「自分で木を選んで、自分でそれを伐って、成型から装飾まで全部自分でやったものを翼にプレゼントしてやりたかった。そんでその箏で俺の好きな曲を演奏してもらうんだ」
「なるほどな~。夢叶えられなくて残念だったね……」
「まあな。でももうそこは悔やんだって仕方ねえ。死んじまったことはちゃんと受け入れて前に進まねえと……」

 翼の喜ぶ顔が見たかったけれど、それはもう妄想で補うしかない。

「前に進むっつったって、どこに向かって進んでくんだよ? つーか死んだら普通天国とか地獄に行くもんじゃねえのか?」
「それは俺も思った。けど実際はこれだよ。ちゃんと成仏できてないからこうなのか、それとも死んだらこうなるのが普通なのかは俺にもよくわからん」
「成仏できてないってことなら、この世に未練があるってことだよな?」
「未練ならいくらでもあるわ。さっきの箏のこととか遊園地デートもそうだし、あとは翼と温泉、翼と海外旅行、翼と添い寝……やり残したことがいくらでもある」
「全部弟絡みなんだな……」
「むしろそれ以外思いつかん」

 いつだって飛鳥の世界の中心は翼だった。自分の幸せなんかより、翼の幸せをいつも願っていた。

「でもそれ全部今のあっちゃんじゃ叶えられねえじゃん。なんなら俺が代わりに弟くんとデートして来よっか? あっちゃんもそばにいれば、一緒に行った気になれるんじゃね?」
「いや、たぶんそれ嫉妬に狂ってあんたを呪い殺してしまうと思う」
「駄目だこのブラコン早くなんとかしないと……」
「その台詞さっきも聞いたぞ? ボキャブラリーの少ないやつだな」
「あっちゃんが言わせてるんだよ!」

 自分が翼とデートしたいくらいなのに、他人とのデートを傍から見ているだけだなんてまっぴら御免だ。それに大空も翼と同じゲイ。万が一にも二人が意気投合して結び付くようなことになったりしたら、それこそ気が狂ってしまう。

「せめてお前の身体に乗り移れたらよかったんだけどな……」
「できねえのかな? ちょっと試してみる?」
「そうだな、やってみよう。とりあえずそこに立ってみてくれ」

 はいよ、と言って立ち上がった大空に背を向けさせ、その背中に飛鳥はピタリとくっついてみる。

「両手を広げてみてくれ。肩の高さくらいまで」
「こう?」

 飛鳥もそのポーズに重なるように両手を広げ、壁をすり抜けるときの要領で大空の身体に重なろうとしたが、やはり彼の背中より前に進むことはできなかった。

「ニー♪ ファー♪ ウェアエーバーユアー♪」
「タイタニックじゃねえよ!」

 歌い出した大空の背中を軽く小突いてから、飛鳥はソファーの元の位置にどかっと座る。

「やっぱ駄目か。あんたに乗り移れたらいろいろできるようになって便利だったんだが……」
「俺はあっちゃんに抱き締められて感無量です♡」
「抱き締めてはないだろ! うっとりするんじゃねえ!」

 弟でも飛鳥にベタベタ触られるのは喜ばないのに、どうやらこの男にはそれがご褒美になってしまうようだ。ゲイとはいえ、飛鳥のような厳つい顔つきの男を好きになるなんて変わっている。あるいは大空にかかわらず、ゲイ界隈ではこの顔はモテるのかもしれない。

(別にゲイからモテても嬉しくねえけど……いや、女からモテても何とも思わない。むしろ俺は翼からモテたい……)

 などとブラコンな思想を頭の中に流しつつ、一つ溜息をついた。

「あっ、いけね! 俺そろそろ仕事行かねえと」

 壁掛けの時計を見ながらそう言った大空に倣って、飛鳥もそちらに目を向ける。時刻は午後一時半。今日は土曜日だから、いつもの飛鳥なら家の掃除をしながら、翼が箏教室から帰って来るのを今か今かと待っている時間だ。

「こんな時間から仕事なのか? つーか土曜日も仕事?」
「交替勤務だからな。曜日は関係ないし、夕勤だと三時からなの」
「出勤前に公園でナンパとかどんだけアグレッシブだよ……」
「俺も別にナンパするつもりなんかなかったんだけどね。ハッテントイレっつってもあの時間じゃ基本人いねえし。昨日は朝方まで遊んでて、その帰りだったわけ」
「交替勤務っつーと夜勤もあるのか? 大変だな」
「慣れたらそうでもないけどね」

 奥の部屋から出てきた大空の肩には、さっき外で使っていたのとは違うトートバッグが掛かっている。

「テレビ点けとこうか? 何もしないでいるのも退屈だろうし」
「それは助かるが、電気代かかるから別にいいぞ」
「テレビの電気代くらい大したことないよ。あ、飯はどうする? 何か買って来る?」
「いや、俺食べ物にも触れねえし、そもそも腹減らないんだと思う」
「そういえばそうだったな……。じゃあとりあえずテレビだけ点けとくよ。チャンネルの希望はある?」
「どこでもいい。普段テレビ観ねえからどんな番組やってるか知らねえし」
「そっか」

 大空がテレビのスイッチを入れると、賑やかな声が聞こえてくる。この局ではバラエティー番組を放送しているようだ。

「じゃあ行って来るよ。急ぎ足になっちゃってごめんね」
「いや、俺のほうこそ時間取っちゃったな。頑張って来いよ」
「今の、旦那の見送りっぽくてちょっとドキドキしちゃった♡」
「旦那って言うんじゃねえ! さっさと行って来い!」

 行ってきます、と言って大空はリビングを出て行った。けれど五秒もしないうちにまたドアが開いて顔を覗かせる。

「帰って来たらあっちゃんいなくなってるとか、俺やだよ……」
「その辺うろついたりはするかもしれねえけど、何も言わずに出て行くつもりなんかねえよ。行く宛てもないしな」
「絶対だよ? いなくなってたら全力で捜しに行くからな」
「はいはい」

 じゃあ、と手を振って大空はドアの向こうに消えていく。玄関のドアが開閉する音がして、今度こそ仕事に行ったのだとわかった。

(出会ったばっかの男を必死に留めようとするなんて、変わったやつだな……)


 1-3


 飛鳥が死してなおこの世に留まっているのは、やっぱり未練があるからなのかもしれない。死んで飛鳥のような状況になるのが当たり前なら、今頃同じ境遇の人間に出会っていてもおかしくないし、そういった言い伝えのようなものがあってもいいはずだ。
 大空にも話したとおり、未練なんていくらでもある。果たせなかった約束、叶えられなかった夢……その中でも最も未練に感じているのは、翼に飛鳥の作った箏をプレゼントできなかったことだ。
 箏職人になるべくその道のプロに弟子入りして約四年半――幸いにも飛鳥には才能があったらしく、短期間のうちに一から完成までをすべて一人でこなせるようになったし、師匠には及ばないにしてもそれに近い、質のいい箏を作れるほどの腕前にまでなった。だからそろそろ翼のための箏を作ってもいい頃合いだと思い、それに使う木を選ぶために山に入って滑落――そして今に至るわけである。
 見た目も質も最高の箏を作るつもりでいた。今まで作ってきたそれとは一線を画す、特別なものを翼にプレゼントしてやるつもりだった。箏が大好きな翼はきっと喜んでくれただろう。そしてますます飛鳥のことを尊敬してくれていたに違いない。今となってはもう叶えることのできない夢だ。

(現世に留まってられても、この身体じゃ箏なんて作れないしな……)

 人からは見えなくてもせめて物に触れられたなら、夢を諦めずに済んだだろう。けれど残念ながら飛鳥の手はありとあらゆる物をすり抜けてしまう。さっきから賑やかな映像と音声を垂れ流しているテレビのチャンネルを変えようにもリモコンに触れられないし、飛鳥の背丈よりも小さな本棚に並べられた本を読みたくても手に取ることができない。

(それにしても、小説ばっかりとは意外だな)

 大空はどちらかというと漫画ばかり読んでいそうな雰囲気なのに、本棚に並んでいるのはどれも小説ばかりだ。飛鳥が知っている著者のものもあれば、全然聞いたことのないそれも並んでいる。
 この本棚もそうだが、テレビ台やローテーブルなど、部屋にある家具は洒落たものが多い。どれもちょっとした加飾が光っていて、選んだ大空のセンスのよさが窺える。

(結構ガサツそうな感じなのにな……。部屋もちゃんと掃除が行き届いてるし、話してるときの雰囲気から想像されるイメージとは全然違う)

 大空に関してはまだまだ知らないことだらけだ。何せまだ出逢ってからほんの数時間しか経っていない。知らなくて当然といえば当然である。けれどきっと、これから少しずつ彼のことを知っていくことになるのだろう。

(あいつが居候を許してくれるうちは、だけどな)

 大空には大空の人生がある。いくら大空にしか存在を認知してもらえないとはいえ、飛鳥が彼の人生の妨げになることは許されない。出て行けと言われれば素直に出て行くしかないだろう。
 もしも追い出されることになったら、自分はどうすればいいのだろう? そんな不安を心の片隅に抱きつつ、飛鳥は家主の帰りを大人しく部屋の中で待つことにした。



 ソファーでうたた寝していた飛鳥は、玄関のドアが開く音で目を覚ました。大空が帰って来たのだろう。時計を確認すると間もなく日付が替わろうとしている時間だった。

「あっちゃん、ただいま」
「お帰り。ずいぶん遅かったな」
「十一時に終わって、飯食って帰ったからね。あっちゃんが何か食えるんだったら、何か買って帰って一緒に食うんだけどな~」

 この身体になってから何も口にしていないが、やはり腹は減らないし喉も乾かない。何となく舌が寂しい気がしないでもなかったが、物に触れられない以上はどうしようもなかった。

「あっちゃん今日は結局何してたん?」
「ちょっとだけこの辺ぶらついたあとは部屋で大人しくしてたぞ。さっきまでうたた寝してた」
「人がせっせと働いている間に堕落した生活送りやがって……。羨ましいったらありゃしねえな」
「働きたくても働けねえよ……」

 こんな身体でも何かできることはないかと考えてはみたが、結局何も思いつかなかった。人から見えないだけならまだしも、やはり物に触れられないというのはなかなか痛い。

「あっちゃんって真面目なんだな。俺があっちゃんと同じ状態になったら、真っ先に近くの高校の野球部の部室とか覗きに行くのに。風呂とか着替えとか覗き放題じゃん」
「言われてみればそうだな……」

 生きている頃は透明人間に憧れたこともあったかもしれないが、実際にそれと同じような状態になった今はできないことの多さにうんざりしている。

「よしなら明日にでも……翼の風呂を覗きに行って来る!」
「なんで弟の風呂なんだよ!? ノンケなら女風呂を覗きたいんじゃないのか!?」
「いや、まあ確かに女風呂も覗きたいが、まずは愛する弟からだろ」
「引くわー。このブラコンマジ引くわー」
「褒めるなよ、照れる」
「誰も褒めてねえよ」

 大空が帰って来た途端に部屋の中が一気に賑やかになった気がする。テレビの音があっても俄かに感じていた寂しさのようなものが、今はどこかへ吹き飛んでいた。

「そういえば、大空って家具選びのセンスいいよな。本棚とかテーブルとか洒落たのばっかだし。こういうのってどこで売ってるんだ?」

 少なくとも近くのホームセンターや家具専門店では目にしたことがない。

「ああ、これ全部俺の手作りだよ。だから若干形悪いとこあるだろ?」
「なん……だと?」

 言われてみると確かに左右がやや対称じゃないものもあるが、気にならない程度の違いだし、それも味だと言われれば納得してしまう。

「このアパートってそういうDIY好きの人のために作業場が外に設置してあって、工具とか機械も一式そろってるんだよ。材料さえ買って来ればすぐにでも作業始められちゃうんだよね」
「この微妙なカーブとか段差も自分で加工したのか?」
「そうだよ。一応工業高校の出身だし、工作みたいなのって昔から得意だったんだ~」

 意外に器用なんだなと、また新たな一面を発見しつつ、彼の手作り家具の完成度の高さに改めて感心させられる。飛鳥も昔から器用で、箏作りにおいてもそれが役立っているが、家具作りにはまた違った難しさがありそうだ。

(あっ……もしかして大空になら、あれもできるんじゃないか?)

 大空の器用さに感心している中で、飛鳥はふと自分の叶えられなかった夢のことを思い出す。物に触れることのできない今の飛鳥には永遠に叶えられないと諦めていたが、大空の器用さがあればどうにかなるかもしれない。

「なあ大空、一生の頼みがあるんだが」
「幽霊が一生の頼みとは片腹痛い」
「やかましい。真剣な頼みだから真面目に聞いてくれ」

 飛鳥がそう言うと、大空はテレビを消して隣に座った。

「で、頼みって何?」
「大空が仕事に行ってる間に未練について考えてたんだが、もしも未練に優先順位を付けるなら、一番は弟のための箏を作ってやれなかったことなんだよな」
「そのための伐採作業で滑落しちゃったんだよね?」
「そう、それだ。まあ優先順位を付けたところで物に触れない俺にはもうどうしようもないわけだが……そこで、大空の器用さを見込んで頼みがある」

 飛鳥はソファーから立ち上がると、大空に向かって深々と頭を下げた。

「俺の代わりに箏を作ってくれないか?」
「ええっ!? いや、俺いくら器用っつったって箏はさすがに作れる自信ないよ!?」
「大丈夫、俺が手取り足取り教えてやるから」

 木を加工するという点においては、箏作りも家具作りも共通するものがあると言っていい。それにそこの本棚やテレビ台のような、手の込んだ造形のものを作れるなら、きっと箏を作るのにもそれほど難儀はしないだろう。

「そう言われてもな~……さすがに責任持てないっつーか、そういうのって何年も修行してやっと習得できる技術なんじゃねえの?」
「プロの職人と同じレベルの質を求めるなら難しいかもしれねえけど、その器用さならたぶん形にはなると思う」
「そうかな~……」

 大空は自信なさげに視線を落とした。

「頼むよ、大空。もしもそれが叶えられなくて成仏できてないんだとしたら、俺永遠にこのままだ。お前にも迷惑かけ続けることになるし、自分で何もできないってのは俺自身も結構辛い。だから俺の夢を大空が叶えてくれ」
「う~ん……そこまで言うならやってもいいけど」
「本当か!?」
「ただし一個だけ条件付けさせて」

 箏を作るとなると結構な時間と労力を消費させることになる。だから自分にできることなら何でもしてやるつもりでその条件を訊き返した。

「箏が無事に完成したら、ご褒美としてあっちゃんとセックスしたい」
「なん……だと?」

 予想もしていなかった内容に、飛鳥は思わず全身を強張らせてしまう。

「俺に、処女を捧げろって言うのか……?」
「いや、挿れられるのは俺のほうだから、あっちゃんの処女は一応守られることになるよ」
「なんだ、そうなのか……いや、挿れる側でも男とヤるのはさすがに抵抗あるぞ!?」

男と身体を重ねるなんて想像できない。というかしたくない。

「何か他にないのかよ? もっと難易度の低いやつ」
「悪いけどこれ以外の条件は飲めねえや。箏作るのなんて俺には何のメリットもないし、正直めんどい」

 確かにそのとおりだ。大空にとっては悪戯に時間を消費するだけになるだろうし、得るものもないだろう。

(だがしかし……男とセックスなんて、やっぱ無理だろっ)

 飛鳥はブラコンではあるものの、恋愛の対象は基本的に女性である。オナニーのときのオカズだってそうだし、性欲解消に風俗を利用したことだってある。ゲイに偏見がないのと男相手にセックスできるかどうかというのは別の話だ。

(けど箏は作りたい……せっかく現世に留まれてるんだから、意味もなく日々を過ごすんじゃなくて、それくらいのことは成し遂げたい……)

 それに永遠にこのままというのもやっぱり嫌だ。死んでしまったのなら天国なり地獄なり――いや、地獄はできることなら勘弁願いたいが、とにかくまともに生活できる世界に行くなり、無になるなりしたい。今の状態はあまりにも不便すぎてストレスが蓄積していく一方だ。それは居候させてくれている大空も同じだろう。

「……わかった。その条件を飲もう」

 ここは覚悟を決めるしかない。大変なことを押し付けようとしているのは飛鳥のほうなのだし、大空にも何か美味しい思いをさせてやらないと不公平だ。

「マジで!?」
「けど勃たなくても知らねえからな。俺はゲイじゃねえから、お前の裸を見ても興奮しない」
「まあそこは物理的な刺激でなんとかするよ」

 こればっかりは本当にやってみないとどうなるかわからないが、本番までに心の準備はしておこう。
 大空の次の休みは明々後日だというので、箏作りはその日から始めることに決めて話は終わった。あとは他愛もない話をしているうちに午前一時半になり、もう寝ようと大空が言い出してお開きになる。

「それにしても、幽霊になっても普通に眠くなるもんなんだな」
「自分でも少し驚いたわ。まあ夜通し起きとくのとか暇すぎてやべえから、寝れたほうがいいんだけどな」
「ソファーに座れるってことは、ベッドにも横になれんのかな?」
「たぶんなれる。この状態で初めて目を覚ましたとき、自分のベッドの上に横になってたから」

 今思えばどうして物には触れられないのにベンチやソファーに座れるのか、どうして地面や床に足を突けるのか、この身体に関して原理や仕組みがよくわからないこともまだまだありそうだ。

「予備の布団とかねえからベッドに一緒に寝ようぜ」
「俺はソファーでいいぞ」
「駄目駄目、お客さんなんだからあっちゃんはベッド、俺もベッド、二人で仲よく夜を過ごそ♡」
「何か嫌だっ」
「うるせえな。居候させてやってるんだから大人しく俺の言うこと聞けよ」

 大空に腕を掴まれたかと思うと、そのままグッと寝室まで引っ張って連れて行かれる。少しだけ抵抗しようと試みたが、飛鳥より小さな体格をしているくせに結構力が強い。最後には突き飛ばされ、飛鳥はベッドに倒れ込んだ。

「もうちょっと丁寧に扱えよ!」
「幽霊だからどうせ怪我とかしないっしょ」
「そうかもしれないが、突き飛ばされるのは心臓に悪いぞ」
「心臓動いてねえんだから大丈夫だろ。大袈裟だな~」
「てめえこの野郎……」

 何かやり返してやろうかと飛鳥はベッドから起き上がろうとするが、上体を起こしたところでその動きをピタリと止めた。なぜなら目の前の大空が着ていたTシャツをおもむろに脱ぎ出したからだ。

「な、何で脱いでんだよ!? ヤるのは箏が出来てからだろ!?」
「俺寝るときいつもパン一なんだよ。変なことはしねえから安心して」

 あっという間にビキニタイプのパンツ一枚になると、飛鳥の隣に入って来る。

「なあ、あっちゃんも脱げよ」
「何でだよ!?」
「どうせなら素肌同士で触れ合いたいじゃん? ほら、脱げ脱げ」
「脱がそうとするんじゃねえ!」

 着ているTシャツをたくし上げられそうになるのを、裾を抑えて何とか防ごうとするが、暴れているうちにいつの間にか脱がされ、続けて下も魔法のような鮮やかさでスポッと抜き取られてあっという間にトランクス一枚にされてしまう。

「あっちゃんやっぱエロい身体してるな」
「お、お前も意外とマッチョなんだな……」

 服の上からじゃわからなかったが、大空は現役のスポーツ選手のような引き締まった身体をしていた。どうりで力勝負で勝てないわけだと納得しつつ、飛鳥は諦めの溜息をつく。

「筋トレはゲイの嗜みだからな。そういうあっちゃんはどうして鍛えてんの?」
「弟が筋肉質な男が好きだと言ってたから」
「また弟かよ……。あ、もしかしてその髪型も?」
「ああ。弟が坊主好きって言ってたから」
「どんだけブラコンだよ」

 翼の好みの男になろうと飛鳥はいつも必死だった。飛鳥が理想の男になることで、翼の目が他の男のほうへ向かないようにしたかったのだ。

「あ、そうだ。枕はあっちゃんが使いなよ」

 大空が緑のカバーに包まれた枕を飛鳥のほうに寄せてくる。

「いいのか? 枕ないと辛いんじゃないのか?」
「俺はあっちゃんの腕枕で寝るから大丈夫♡」
「勝手に決めるんじゃねえ! 何で俺が腕枕しなきゃいけねえんだよ!?」
「家賃の代わり。金取れないんだから、それくらいしてくれてもいいだろ?」

 それを言われると飛鳥も諾々と従うしかない。迷惑をかけているのは事実だし、こういうこと以外で大空にしてやれることは皆無と言ってもよかった。仕方ないから枕を受け取り、代わりに大空が頭を乗せられるように左腕を出してやる。

「枕に頭乗せることもできるんだな」
「みたいだな。もう何ができて何ができねえのかさっぱりわからん」
「まあいいじゃん。それで寝やすくなっただろうし、俺はあっちゃんの腕枕を堪能できる」
「お前に腕枕しないほうがきっともっと寝やすいだろうよ」

 大空が飛鳥のほうに身体を寄せてくる。隙間もないくらいぴったりとくっつくと、飛鳥の腕に頭を乗せた。

「そんなにくっつくなよ」
「くっつかねえと腕枕にならねえじゃん」

 大空の腕が飛鳥の背中に回ってくる。

「あっちゃん、やっぱ心臓の音はしないね」

 飛鳥の胸に耳を押し当てながら、大空が静かにそう言った。

「そりゃ死んでるからな」
「でも肌は普通に温かいよ? 生きてる人間と変わらない」
「そうなのか?」
「うん。俺の肌はどんな感じ?」
「お前はなんか熱いな……」

 でも嫌じゃない。その一言は心の中で呟くに留めた。
 触れ合った人肌の柔らかさ、体温、そしてすぐ近くで聞こえる息遣い。そのどれもに飛鳥は安心感を覚えていた。大空の生の温もりと一緒くたになって、まるで自分も生きているように感じられる。弟以外の男と添い寝なんてさっきまで勘弁してくれとげんなりしかけていたのに、今は不思議なほど優しい気持ちになっている。
 電気を消すと大空は割とすぐに寝息を立て始めた。規則正しいそれを聞きながら、飛鳥は手を伸ばしてそっと大空の背中に触れてみる。ここもやっぱり熱い。生きている人間の体温だ。
 きっと飛鳥がこうして触れられる相手は、世界中どこを探しても大空しかいないのだろう。そんな予感がしていた。そんな相手にこの状態になって一日目で出逢えたなんてかなり運がよかったと言える。

(もしも大空に拾われてなかったら、今頃俺どうしてたんだろうな……)

 一人寂しく町を彷徨っていたのだろうか? あるいは自宅に戻って、弟のそばに寄り添っていただろうか? いずれにしても大空と出逢い、一緒に過ごしている今のほうがだいぶましだったことは間違いない。話しかければ返事が返ってくる。手を伸ばせばちゃんと触れられる。生きている頃は当たり前だったそれができなくなってしまった今、大空は飛鳥にとってなくてはならない存在に変わろうとしていた。
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