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序章
地獄とはままならないものですね。
しおりを挟む絶望の色を知っているだろうか。
世界から色が消える瞬間を見たことは無いだろうか。
自尊心をズタズタに引き裂かれ、立ち上がれなくなった事は無いだろうか。
人はそれをトラウマと呼ぶのだろう。
およそ10年以上、毎晩続いたこの悪夢は。
あの日を、あの時を、手を変え品を変え見るこの悪夢は。
今日の夢は、名前も知らない紅い髪の女の子が、目の前にいた。
どうしようもなく愛おしくて、まるで長年連れ添ったかのような。
自分の脳みそって奴は、どうやら俺を殺したがっているのかもしれない。
嗚呼、この続きは知っている。どうせ、元婚約者が現れて奪い去られるとか、殺人鬼が現れて目の前で惨殺されるとか、とにかくどうしようもない焦燥感と後悔を植え付ける内容が待って居るはず。
その悲惨なクライマックスで目を覚ませば、おおよそ目覚ましの5分前。仕事の準備を始める時間だ。
動かない体を諦め、夢の続きを待つ。
しかしその結末はいつまでたっても訪れない。
その女の子はいつまでも俺に微笑み続け、そして……………
「おはようございます。ご主人。」
瞼をうっすらと開けば、蒼、青、藍。嗚呼、本日は晴天なり。
30を過ぎてきつくなったドライアイのせいで目を開けて居られない。二度寝しない様に気を付けながら、再び目を閉じた。長年の経験で、目を閉じながらの朝の支度は、文字通り朝飯前だ。
朝日で目を覚ますのは何年ぶりだろうか。まだ眠いけど、どうせ目覚ましがもうすぐ鳴るはずだ。起きてしまうとしよう。遅刻などしようものなら、ネチネチと半日は嫌味を言われるのが目に見えている。
枕元に有るはずのスマホを探し、手を走らせる。
「あっ、あの、ご主人……?」
柔らかい何かが手に触れる。なんだっけこれ。
目を閉じたまま盲牌を切ろうと指先で形状を探る。
「ご、ご主人がお望みなら私はかっ、構いませんよ!!」
いや、こんな柔らかいもの家にあったっけかな……?
指先に感じる確かな温もりで一つの答えにたどり着いた。20年の大往生。
「ユッカか!」
「誰ですかその女!!!!!!!!!!!!」
弄る手を払いのけられ、驚いて声のした方を見上げれば、夢の中の女が自分の胸を抱きかかえ
真っ赤な顔でこちらを睨みつけていた。はて、二度寝した覚えは無いのだけれど。
「いや、自分は盲牌を切ろうと」
「猛パイ!?!?どういう事なんですかそれ!」
いや待て、何かがおかしい。というか場所がおかしい。
森の中、開けた場所の名前も知らない大木の根元で寝た覚えは無いのだけれど。
まだ夢を見ているなら目覚めなければ。
「夢じゃありませんよ。」「マジで!?!?」
「マジです。」
思い切り振り向いた首が「グキり」と鳴り、激痛が走る。歳には勝てない。なるほどこの尋常じゃない痛みは夢ではなさそうだ。首元を抑え震えるばかりの自分を優しく撫でるこの手は、不思議と知っている気がする。
痛みで急激に覚醒へと引き上げられながら、今の状況を思い出し、
「リリス・・・・・。」
目の前で微笑む彼女の名前を呼んだ。呼び馴染みの無いその名前を口にするのが、少し恥ずかしかった。
*†*:..。..。..:*†*:..。..。..:*†*:..。..。..:*†*
リリスに聞いたところ、どうやら無事に(?)地獄へと堕ちてきたらしい。ここは地獄の中でも神を信じず悪事をせず死んだ魂が暮らす、平穏な「辺獄」と呼ばれる地域である事。
辺獄を収める悪魔王を決める「魔王レース」と呼ばれるものがずっと行われていて、リリスはその最中幼馴染に騙され現世へ飛ばされたという事。
現世でリリスのような下位の悪魔は契約以外の力を仕えずすぐ消滅してしまうらしく、呪いの訪問販売で他人の寿命をもらう事で生きながらえていたが、そうそうもらえる訳では無く、常にギリギリの生活だった事。
地獄へと戻った事で消滅の心配が無くなり、心から俺に感謝している事を、
リリスは恥ずかしそうに語ってくれた。
ユッカの件も飼い猫だったという説明でなんとか納得してもらえた。
「私は猫ですかそうですか……」といじける姿がなんとも愛らしかった。
地獄へと戻った事で彼女の服装は営業スーツでは無く悪魔本来の少し露出が多い物となった様で、目のやり場に困る。
『朝起きたら彼女が居る生活』なんて願いは、あっさり適ってしまった様だ。問題はこの地獄という場所がどんな場所で、自分はどうやって過ごせばいいのか。家も無ければ土地勘も無い。必要かは分からないけれど、お金も無い。
あれ?これ一人だったら詰んでるんじゃね?
彼女が言葉通り一緒に来てくれて本当に良かった。こんな森の中で一人放置されたなら、きっともれなく猛獣の餌になるか運よく生き延びたとしても餓死する自信がある。電子レンジとか無いもの。
だけども、思って居た地獄とは違う様で心底ホッとした。
あの時はまさか本当に地獄に来るとは思ってなかったけれど、改めて思うと阿鼻地獄とか灼熱地獄とか、普通はそういう所が地獄と言うのだろう。もしくはクリスト教でいうハデスやゲヘナ、そのあたりだろうか。
辺獄というものがどういった所なのかいまいち分からないけれど、こうしてみる限りはとても穏やかな所に思える。
「後悔……、していますか?」
指を絡めてきながら、心配そうに顔を覗き込む彼女の頭が近い。
「どうだろう。まだ実感が無いけど、リリスが居てくれる事が嬉……し…い。」
目を合わせていると顔から火が出そうだ。
一目惚れだったなんて、とてもじゃないけど言えない。
「そうですか……それなら良かったです。ご主人が望むものを、望む生活を、このリリス、精いっぱいお力添えさせて頂きます!」
表情をコロコロと変えながら、ガッツポーズを決める彼女に、悪い気はしなかった。……ただ、
「ご主人ってのは、やっぱり恥ずかしい。」
「ご主人はご主人です!!!それとも……お名前でお呼びすればよろしいですか?」
「出来ればそうして欲しい。敬語も出来れば無しで……」
「ですが、ここ地獄に置いて本名を明かすことは自殺行為です。あと敬語以外は無理です。そういう契約なので。」
「そうなの!?」
「はい。ご主人はエクソシストの話をご存じではありませんか?」
「あ、それなら知ってる」
彼女曰く、どうやら地獄において本名を明かすという事は相手に全権を明け渡すことと同義らしい。本名を知られた悪魔は相手にその全てを支配されてしまうとか。
しれっと契約内容を端折られてるのはこの際触れない方向で行こう。
知らないほうが良かった事とか、世の中には沢山あると思うんだ。
「でも、それって悪魔だけなんじゃ?」
「ご主人は、契約の履行で今は悪魔ですよ?」
「マジデ!?」
「マジです。」
日本名で三十路を超えた悪魔とか誰得過ぎる。名刺とか作った方良いのかな。
イメージの中の悪魔といえばもしかすると空とか飛べちゃうんだろうか。夢が広がる。一回で良いから空のデートとかしてみたかったんだよね。主に飛行機的な意味で。
「もしかして今なら飛べたりする?」
「それは無理です。」
残念。空飛ぶ日本男児とか、モテの気配がビンビンだったのに。空も飛べないアジア顔の悪魔とかマジで誰得なんだろう。リリスお願いだから見捨てないでおくれ。
「……なんでそんなに悲しそうなんですか。空は飛べませんが、しっかり悪魔の力は使えますよ。」
「うぅ……リリスゥ……え!?なんて!?」
「悪魔の力はしっかり使えますよ。」
「そこんとこもう少し詳しく。」
どうしよう。空は飛べないらしいけど悪魔の力。それはそれでワクワクする。ファイヤーボールを所望する。
ファイヤーが無理ならアイスボールでもいい。とにかく何か打ち出す魔法的な力欲しい。男だもの。
「今回の契約で、ご主人には私の力の一部が結合しています。なので私の力をご主人も使えます。」
「なるほど。」
「という訳で、本日からご主人は辺獄のサキュバスとなりました。」
「さきゅばす」
「はい!魂を捧げたご主人は、それはもう誰もが恐れおののくサキュバスになっています。」
「え……?サキュバスって、あの?」
「はい。サキュバスです。」
どうしようサキュバスがゲシュタルト崩壊してきた。なんだっけそれ。
「どんな男もイチコロってコト……?」
「ご主人が望むならそれでも良いのですが……。勿論イチコロです。」
リリスが一瞬ものすごい顔をしたのは置いといて、一旦状況を整理しよう。どんな時でも平常心、それが出来る男ってもんだろ。
日本名で、バリバリのアジア顔で、空の飛べない、誰もが恐れおののくサキュバス。だがしかし、男。
「終わった……」
「終わってませんよ!?どうしたんですか!?私に至らない所があったのならどうぞ仰ってください!!」
「リリスも男の娘ってコト……?」
「なっ!?私は女ですッ!」
よかった。同性愛を否定するつもりは無いけど自分はあくまでその気は無い。これでリリスにモノが付いていたら三日程寝込んだ後にそれでも甲斐甲斐しく介抱する彼女(?)に思わずトキメイたりなんかしてなんかもう付いててもいいか。みたいな感じになってもおかしくなかった。まさに悪魔的。
「いや、ごめん。何でもないんだ。」
「そうですか?」
「この力は、使わない事にするよ。」
異世界に来て異性では無く同性ばかりのハーレムを作る訳にはいかない。リリスさえ良ければ、世界の片隅でひっそりと二人の時間を過ごしたいと思う。そういう穏やかな生活、かなり憧れるじゃんね。
「ご主人……!」
「リリスが居てくれれば、他には何にも要らないかな。」
我ながらくさい台詞だ。これで自分がイケメンだったなら、と思わないでもない。必死さがにじみ出てキモいかもしれない。でもリリス可愛い。他の誰にも渡したくない。必死上等。
「私もご主人さえいればそれで構わないのですが、恐らく周りが放っておかないでしょうね。」
「どういう事?!」
しれっとずっと一緒宣言は反則だと思う。それはそうと、周りが放っておかないってどういう事なんだろう。
「死後の魂が集まるここ辺獄において、生者であるご主人の魂は別格の力を持ちます。恐らく周りの悪魔達と同等か、それ以上の力をもって居ると思います。」
「……つまり?」
「悪魔は力ある存在に惹かれます。必ずお互いに出会う様に動く世界なんです。」
「二人で逃げ出して隠れる事は?」
「恐らく不可能でしょう。近くに力が有る者が現れれば、感じてしまう物なんです。今もずっと、ご主人の気配が強く胸に伝わってきています。」
どうしよう。リリスの言っている事が分からない。自分の存在だけが伝わってリリスを感じられないとかなんか自分が臭いみたいで嫌だな。体臭って、自分じゃ分からないって言うし。
「ごめん。リリスを感じ取る事が出来てないや……。」
「恐らくこちらに来たばかりで感覚が鈍っているだけでしょう。私が居ればそれは共有できますので、気になさらないでください。ですが今言った通り、悪魔同士は必ず出会う物なんです。だからこそ、名前は隠蔽しなくてはいけません。」
という事は、自分の存在がリリスにビンビンに伝わっているという事なんだろうか。それはそれでちょっと恥ずかしいやら嬉しいやら。どんな時でも以心伝心とかだったらどうしよう。内心で力一杯恋を叫んでみる。
「いざとなっては困りますので、今、名前を決めてしまいましょう。なるべく自身のお名前から遠い方が良いですね。」
どうやら以心伝心という訳ではないようだ。
「他の悪魔に対しては……リコリウス。―――リコにしよう。リリスと同じ花の名前だ。リリスの呼びたい方で呼んで良いよ。」
言ってて結構恥ずかしいけど、仕方ない。ゲームのハンドルネームみたいなものだ。
次第に慣れると思う。
「はい!ご主人!」
「変わってなくない?」
「ご主人の源氏名を私だけが知っている……。これが意外と快感だと今気が付きました。」
「誰かと関わる時には、使ってもいいかな・・・?」
「それは勿論ですよ。」
「ありがとう。少し恥ずかしいけど、気を付けてみようと思うよ。」
ひとまず急ぎの問題は解決だろうか。こちらに来て早々名前バレして家畜endとかにならなくて良かった。
だけど自分の名前を知ってる人が居ないというのは少し寂しい気がする。リリスには本名を伝えた方が良いのだろうか。
「リリスには本名を伝えておこうと思うのだけど。」
「ご主人、子供を作りましょう。今すぐ。」
「なぜにこのタイミングで!?」
ごめんちょっと君のツボが分からない。どうして名前と小作りが繋がるんだろう。
「悪魔的に真名を教え合うのは結婚を意味します。私の真名はお伝えしておりますので。」
「結婚イコール子供では無いと思うのだけれど。」
「それは人間的な考えです。悪魔的にはイコールなんですよ。」
「いやでも一応これでも元人間だし「ご主人の気持ちに私が気が付いてないと思いますか?私サキュバスなんですよ?」
どうしようぶっちゃけ今すぐいたしてしまいたいけれども。初めてはせめてふかふかのベッドの上がいいというのは過ぎた願いなんだろうか。いやきっと大丈夫。リリスもきっとわかってくれる。
「外!ここ外だから!!!」
「それがどうかしましたか?」
マジのキョトン顔だよ!!価値観の不一致だよ!これは二人の未来が危ぶまれる。離婚の一番の原因は金銭に次いで価値観の不一致が大きいって聞いた事あるぞ。これは離婚の危機だよリリス。
でもどうしよう、結婚だなんて。自宅に春が来るだけでも胸いっぱいだったというのに、結婚。交際をすっとばしての電撃結婚。出来ちゃった婚で金銭がキツイと言っていたP君、元気かな。
あの時は同情したものだけど、後になってそれは自己責任じゃね?と思ってイラついたんだよな。ただの自慢じゃねーかと飲み明かしたあの日が懐かしい。
そんな自分が、結婚。どうか末永くよろしくお願いします。
「リリス、お願いだから聞いて欲しい。気持ちは本当に嬉しいのだけれど、やっぱり初めては落ち着いた所が良いです。」
「ご主人。」
「はい、なんでしょう。」
どうしたの。急に真顔じゃんね。
「近いうち、ご主人の力が発現した時、それはもうきっとものすごいハーレムが出来上がるはずです。」
「そんなに?」
「そんなにです。今のご主人の魂の力はそれだけ強いんです。」
「でも、この力は使わないってさっき」
「使うか使わないかの意識は関係ありません。そういう力なんです。」
「なにそれ怖い。」
「人間の女などいくら抱いて頂いても構いません。ご主人が望むなら男でも構いません。」
「いや男は嫌だよ?」
「そうなんですか?先ほど男がイチコロかどうか気にしてましたのでてっきり。」
「誤解だと思う。」
「まあそれは良いです。ご主人がどちらを好きでも。」
「誤解だと思う。」
「人間をいくら抱いて頂いても構いません。それでも、悪魔は、悪魔だけは。真名を教え合った私を一番に抱いて頂けないでしょうか。」
「ごか‥‥。分かったよ。」
「約束頂けるんですか……?」
「逆。逆だよリリス。」
「……?」
「君が良いんだ。」
人生の全てが報われた気がした死の間際。あの時の温もりを与えてくれたのは君じゃないかリリス。あの時、もし本当に地獄に堕ちるとしても、ずっと一緒にいたいと、そう願ったんだよ。
よくもまあこう臭い台詞がポンポンでてくると思う。これでリリスの言動が全部契約によるもので、気持ちなんて無かった場合目も当てられないぞ。どうかそんな事が無いように願うばかりだ。
思いついたら急に怖くなってきた。
「契約のせいで君が縛られているというのなら、ごめん……」
聞かずには居られない。もし本当に契約での言動だというのなら自分は大人しくこの場を去ろう。人知れずこの世界から退場するのもいいかもしれない。リリスを助ける事が出来た。それだけで十分だ。
返事が怖くて前を向けない弱い自分が情けない。
「んむっ!?」
いつの間にか目前に迫っていた彼女に唇を奪われた。
「んぅ…。……契約にこんな内容はありませんよ。」
「……。」
「ご主人が今、どれ程の我慢をしてそう仰っていたのか、私には分かります。」
「なにそれ恥ずかしい。」
「サキュバスですから。」
そう言いながら離れた彼女のはにかんだ顔が、本当に綺麗で。
「ですから、その言葉を信じます。」
不安に駆られていた自分が、どうしようもなく情けなくて。
「ですからどうか、ご主人も私を信じて下さい。」
「……分かった。」
裏切られて、裏切られて。もう誰も信じられないと思っていたのに。
彼女の言葉に、すんなりと頷いてしまった。
『この子になら騙されてもいいか』なんて考えてしまう、でもこれはきっと物凄く失礼な事なんだろう。待っててくれリリス。今すぐは難しいかもしれないけれど、時間がかかるかもしれないけれど。
物凄く怖いけれど、君を信じたい。
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