黄金の海を目指して

益巣ハリ

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22. 黄金の海を目指して

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「どうかお元気で」  
   
 すれ違いざまに、聞き慣れた声がした。  
 輝石家を絶対見捨てなかった、忠臣の声が。  
   
 振り返った時、そこにはもう彼の姿はなかった。  
   
 粗末な包みの中には札束や宝石が詰め込まれていた。きっと守背はあの記事が出てから、手持ちの金をかき集めて助けに来てくれたのだろう。彼にすら財宝のありかを隠し、挙句にだまし取られた恩知らずのわたしのために。 
   
 罪悪感で震える指先で、一番上に置かれていた紙切れをつまみ上げる。  
 “拘置場の裏。港、緑の看板を立てた酒場、ブラッドハウンド、密航”  
   
 相当急いでいたのか、達筆な彼からは信じられないほどの乱雑な文字で単語が羅列されていた。理解できないまま拘置所の裏に回ってみると、背の高い草のなかでグレサム号がじっと待っていて、こちらに気づくと顔をあげて嬉しそうに鼻を鳴らした。 
   
 紙切れには、次に「港」と書かれていた。わたしはこれからこの国を捨て、密航するのだ。グレサム号に跨り、いつの間にかあふれ出していた涙を拭った。  
    
 胸の中で感謝と憎悪がぐちゃぐちゃに渦巻いて、手綱が掌に食い込む。  
 こんなに憎いのに、心だけが彼の元へ駆けて行く。このままあの人に何もやり返せずただ逃げるなんて、自分が許せない。思いっきりなじって、蔑んで、殴ってやりたい。でもその後、抱きしめてしまうかも。  
    
 いくら威勢よく喚こうと、わたしができる復讐なんてたかが知れている。  
 もう一度顔を合わせてしまえば、知らぬ間に丸め込まれてまた良いようにされるだけだ。  
 やられっぱなしは悔しいけど、わたしは結局、世間知らずのただのお嬢様なのだ。  
   
 木蓮の蕾が膨らみかけていた。厳しかった冬の空気に、いつの間にか春の気配が混じっている。煙の臭いが混じる空気を切るように、ただひたすらにグレサム号を走らせた。  
    
 グレサム号は賢い馬だったが、今日はいつにも増して利口だった。既に目的地がわかっているかのように迷いなく駆けていき、あっという間に港に到着した。降りてから彼をぎゅっと抱きしめると、これが永遠の別れになることがわかっているのかいないのか、悲し気な声で鳴いて顔を摺り寄せてきた。彼はふくよかな草の匂いがした。 
   
「あなたも自由よ。好きなところに駆けていきなさい」 
   
 尻を軽く叩いたが、彼は動かなかった。長い脚を折って座ると、艶やかに輝く瞳でこちらをじっと見上げている。 
   
 この馬は、わたしを見送るつもりなのだ。 
   
 風で乾いた頬が、涙でまた濡れた。 
 バァが巻いてくれたスカーフをしっかりと締め直し、グレサム号に背を向ける。 
   
 足を進めるごとに、彼の穏やかな呼吸は風の音にかき消されて小さくなっていく。思わず振り返ると、まだグレサム号はこちらを見ていた。 
   
 置いていく、置いていくのだ。わたしの何もかもを、ここに。 
 たまらなくなって、港へと走った。甘えたくなる心を振り払うように、ひたすら走った。 
 息が上がり、呼吸が苦しくなって涙目になる。苦しさで悲しみを塗りつぶし、港を走り抜けた。 
   
 かなり奥まった場所まで来たところで、ぼやけた視界の端に緑色のものが映った。それは酒の絵が描かれた看板だった。 
   
 緑の看板を立てた酒場。守背が示した場所だ。 
   
 割れた酒瓶やゴミが散乱しており、お世辞にも素敵な店とは言えないたたずまいのその店は、港の中でも異様な雰囲気を放っていた。緊張で心が張り詰める。念のため、宝石を下着や靴の中に隠してから重いドアを開けた。 
   
 入った途端、店の男がこちらをじろりと睨んだ。まだ息の整わないわたしを怪訝そうに眺めると、頭からつま先まで何度も視線を往復させた。煙草と安い酒の臭いで充満したそこで、若いわたしは明らかに場違いだった。頭を振って、紙切れに書かれていたことを思い出す。 
   
「ブラッドハウンドを」 
「座りな」男はうなずき、カウンターに水を出した。 
「ありがとうございます」油でべたついた汚いコップだったが、構わずに一気に飲み干した。乾ききった身体に水が沁みていき、また涙が出そうになる。 
「どこまで?」男が聞いてきた。 どうやらさっきの言葉が密航の合図らしい。

 どこまで…?
 自分がまだ行き先すら決めていなかったことに、ここでやっと気づいた。
 わたしはこれから、どこに行くんだろう? 
   
 お母様もいる洗朱だと、氷冠がすぐ嗅ぎつけて探しに来るだろう。他の国だと… 
   
 男がじれったそうに頭を振った。 
   
「海松茶です」気が焦ってしまい、思い浮かんだ国名をそのまま口に出してしまった。 
「あそこは高くつくぜ」

 男の提案した金額は高額で、手持ちの現金では少し足りないようだった。宝石を別の場所に移しておいてよかったと思いながら、わたしは懐から出した包みをそのままカウンターに置き、男の前で札を数えて見せた。 
「すみません。今手持ちはこれしかなくて」男はニヤニヤした笑いを浮かべながら金を掴んだ。 

「お嬢さん、あんたどこの華族様かは知らねぇが、こういう時は値段交渉をするもんだぜ。有り金全部出して数えるなんてありえねぇ。今あんた、相場の2倍を払ったぜ」

 ちゃっかり懐に金をしまってから、男が説教してきた。顔がかあっと赤くなるのが自分でもわかった。またこうだ。出し抜いた気でいて、出し抜かれている。 

「おっと、そんな顔しても返さねえぜ。勉強代って思うんだな。ま、いきなり素寒貧にしちゃ可哀想か」男は札を数枚抜き取って目の前に落とした。そしてカウンターから出てわたしの横を通り過ぎると、顎で奥の扉を示した。 
  
 軋んで嫌な音が鳴る扉を開けると、その先には暗い海が広がっていた。汚く泡立った海の上に、粗末な漁船が止まっていた。年季の入ったその船は、波に弄ばれるがままにゆらゆらと揺れ、転覆しないでいるのが精いっぱいのようだった。これでは海松茶どころか、国内の離島にだってたどり着けないだろう。 
  
「そんな顔すんなよ。うちが出せる船はこれしかねぇんだ」落胆を顔に出してしまっていたのか、男はこちらを嘲笑うような表情を浮かべた。 
  
「これで本当に海松茶まで行けるのでしょうか」 
「さあな。あんたの運次第だろ」男は突き放すように答え、力任せにロープを引いて船を岸まで寄せ、なかなか勇気の出ないわたしの背を押して無理やり船に乗せた。 
  
「幸運を祈るぜ、お姫様」ロープを外してタバコに火をつけながら、男はこちらを見もせず呟いた。 
  
 お姫様。彼がわたしの正体を知っているはずがないとはいえ、そう呼ばれるのは久しぶりで変に胸が疼く。 
  
 漁船には小さな操舵室しかなく、中には中年の女が1人で座っているようだった。感傷に浸る間もなく、女はわたしが腰を下ろし終わらないうちからエンジンをかけ、船はぐるぐると獣のような声を上げて動き始めた。 
  
「わっ…!」 
  
 足元がぐらぐらと揺れる。女は操舵室にこちらを入れる気はさらさらないようで、船首には薄汚れた布と少しの水が置かれていた。ここで夜を明かせ、ということか。
 見るからに不衛生なそこに横たわる勇気はなく、他より幾分赤さびがましな場所を探し、ようやく腰を下ろせた。 
  
 そうこうするうちに、陸はすっかり遠くなっていた。呂色国の海岸線がぼやけ、夕焼けが港を朱く染めている。塩とさび、腐った魚の臭いがする。

 前この光景を見たとき__隣にはお父様がいた。輝石家がまだ存在していた。私たちの帰国のために作らせた、数百人がゆうに乗れる船に乗っていた。船はいつも薔薇と石鹸の清潔な香りで溢れていた。
 月日にすれば数年なのに、もうはるか遠い昔のように感じる。

 かつて期待で胸をいっぱいにして眺めた呂色国の大地が、だんだんとうすぼけて消えていく。もう2度と戻れないかもしれない。

 頼る当てもない海松茶に行って、どうすればいいのだろう。わたしを雇ってくれる場所などあるのだろうか。

 これ以上ないくらい転落しきった自分がなんだかおかしくて、不思議と笑いがこみ上げてきた。向こうでどんな職に就こうが、自分の力で生きていければそれでいい。
 投げやりで、それでいてどこか楽しい不思議な気持ちに包まれたまま暗くなっていく空を眺めていると、次第にまぶたが重くなってきた。単調な波の音が子守歌のように響き、わたしはいつしか眠り込んでいた。



 カモメが鳴く声で、はっと目が覚めた。
 不自然な姿勢で眠り込んでいたせいか、関節が固まっていて嫌な音を立てた。軋む痛みに思わず顔をしかめたが、次の瞬間、わたしは目の前の光景に目を奪われた。

 暗い鈍色の海がだんだんとぼやけた朱色に変わっていく。やがて水平線の向こうから、赤く燃え立つ太陽が顔を出した。
 目に映る全ての色を圧倒して輝く太陽は、瞬きごとに明るさを増していき、あっという間に円い姿を世界に晒した。目がくらみそうなほどの光を受けて、海はまるで黄金のようにまばゆく輝き始めた。

 黄金だ。これは黄金の海だ。

 わたしが__輝石家の血と力を受け継ぐこのわたしが海松茶で何をすべきか、今この瞬間、全てわかった。

 恋と復讐は呂色国に捨ててきた。
 この黄金の海の上を、わたしは迷いなく進んでいた。
 太陽は、世界すべてを照らしていた。


―――――――――
 まだ続きます!あと一話です!
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