80 / 99
夢見る蛇の都
その34
しおりを挟む
ラピータ宮殿の前で死に瀕したシュナン少年に付き添っていたはずのラーナ・メデューサは突然その身を瞬間移動させられ一瞬後には彼女は見た事もないへんぴな農村のただ中に一人ぽつんと立っていました。
彼女は村へと向かう埃っぽいあぜ道の上に立っており周りには田んぼや家畜小屋それを取り巻く林や山などどこの田舎でも見られるのどかな田園風景が広がっていました。
メデューサが空を見ると渡り鳥が数羽くるくると旋回しているのが見えました。
どこからどう見てもただの、ど田舎の景色です。
どうしてシュナン少年たちと共にラピータ宮殿前にいたはずの自分がこんな場所に飛ばされたのかメデューサには理解出来ませんでした。
しかも実体を持たない幽霊のような姿となってー。
それは先ほど村の子供たちが自分の姿に全く気付かずしかもメデューサの身体をまるでそこに何も無いかのように通り抜け走り去って行った事を見ても明らかでした。
彼女の革製の靴を履いた両足はあぜ道の上に立っているように見えて実はその足裏は少し地面から離れ宙に浮いていました。
つまりメデューサはまさしく幽霊のように空中に浮遊していたのです。
おそらくメデューサの本体は今だにラピータ宮殿の門前で倒れ伏したシュナン少年に付き添い魂の無い抜け殻のような状態となって彼の傍に座っているのでしょう。
瀕死の状態のシュナン少年が心配でたまらないメデューサは何故よりによってこんな時に自分が彼の元を離れこんな場所に瞬間的に移動させられたのか訳がわからず、いらただしげに周りの景色を見回します。
そしてこんな場所に立ち止まっていてもしょうがないと思いとりあえず何かの手がかりが掴めるのではないかと考えたメデューサは先ほど子供たちが走り去った方角にあると思われる人間の住む村落を目指して歩き始めます。
まるで幽霊みたいに地面から足裏が少し離れた状態で道なりに移動する彼女の前にやがて木の柵でぐるりと囲われた人間の村の姿が徐々に見えてきました。
なにやら大勢の人々が上げる賑やかな声も風に乗って聴こえてきます。
やがてその村の木の柵で出来た出入り口にたどり着いたメデューサは一瞬、柵の手前で立ち止まりましたがゴクリと息を飲むと思い切って木の柵の間のスペースをくぐり村の中へと足を一歩踏み入れました。
木の柵で出来た出入り口を通過して村内に足を踏み入れたメデューサの目の前にその村落の全景が一望の元に広がりました。
その村落はメデューサの予想通りの寒村でした。
百軒足らずの木造の小さな家屋が点々と立ち並びそれぞれに小さな畑と家畜小屋が隣接しています。
おそらく村人の人口は数百人にも満たなかった事でしょう。
家と家の間を縫うように細い道が走っておりその道は村の中央に設けられた大きな広場につながっていました。
そこには集会所として使われているらしい大きな建物や井戸の周りに作られた共用の水場がありそれに野外で食事をする為の木のテーブルなども置かれておりどうやら村人たちが共同で使っているスペースのようです。
村の中に入り込んだメデューサにとって予想外だったのはそんな寒村だったにも関わらずその日は村全体が華やかな雰囲気に包まれていた事です。
粗末な木造の家屋には様々な意匠や飾りがほどこされ見違えるように明るい雰囲気をかもし出しています。
村人たちもその多くが一部の引きこもりを除いては外に出ており農閑期だからか畑仕事をしている者は一人もおらずみんな普段の作業着とは違う綺麗な服を身にまとい明るい笑顔で立ち話をしたり一緒に歩いたりしています。
(お祭りかー)
メデューサの頭にその言葉が浮かんだ通りその日はこの村にとって年に一度の収穫祭つまりはお祭りの日でした。
その年は近年稀に見る豊作の年であり村人たちは収穫の恵みを神に感謝しその証として大がかりなお祭りを開き豊かな年であった事を皆で喜び合っていたのです。
幽体となったメデューサが大勢の村人たちが行き交う村の小道を誰にも気づかれる事なく歩んで行くとやがて収穫祭のメイン会場である村の中央に位置する大きな広場に出ました。
そこではやはり老若男女を問わず大勢の村人たちがひしめいており互いの顔に笑顔を浮かべながらつらい労働の日々が報われた証である一年に一度訪れるこの良き日を共に祝っていました。
村の中心的な場所であるそこは今日は祝祭の場と化し大勢の人々が広い敷地内のあちこちでそれぞれお祭りを楽しんでいるのが見て取れます。
広場の真ん中に建てられた神を祀る祠には花や食べ物など多くの貢物が捧げられその前の広いスペースでは精一杯着飾った若い男女が輪になって楽しそうに踊っています。
またどこかで祭りの噂を聞きつけたのか旅芸人や行商人も村にやって来ており広場のあちこちで手品や曲芸を披露したりまた出店を開いて珍しい食べ物をぼったくり価格で売っていました。
子供たちも元気に広場の中を走り回り周りに立つ大人たちはそれを談笑しながらうれしそうに見ています。
一方、幽霊みたいな状態となってその中に入り込んだ我らがヒロイン、ラーナ・メデューサは周囲にいる誰にも気づかれる事なく群衆で混雑した広場内に立ち尽くしていました。
彼女はそこで開催されている楽しげなお祭りの様子を蛇の前髪の下からまぶしげに見つめながら今まで感じた事の無い激しい羨望のような気持ちが胸にこみ上げるのを覚え少し驚きます。
それほどまでに周囲の村人たちの様子は楽しげで幸せそうでした。
まるで神の国の住人のようにー。
しかしこの貧しいながらも精一杯盛大にお祭りが行われた年のわずか数年後にこの地方を襲った大飢饉によりメデューサが今いる村を含め多くの村々が大打撃を受け多くの餓死者を出すと共に人心も果てしなく荒廃していく事になるのです。
無論そんな事は神ならぬメデューサには知りようも無い事でした。
そんな風に村の広場内で行われている祭りの様子を棒立ちになって見つめていたメデューサですがやがて背後から自分に近づく人の気配に気付き思わず後ろを振り向きます。
するとメデューサがやって来た村の正面出入り口のある方角からあぜ道を歩き広場内に入ろうとする男女の姿が目に入ります。
それは若い男女の二人連れで女性の方は胸に白い布で包まれた赤子を抱いておりどうやら夫婦のようでした。
男性は黒髪でやや小柄でしたが精悍な体つきと顔をしており澄んだ青い瞳が特徴的な青年でした。
女性の方は青灰色のちょっと変わった髪の色をしておりとても美しく優しい顔立ちの人でした。
実は二人は最近村はずれの家に引っ越して来た貧しい夫婦であり呪い師をその生業(なりわい)としていました。
二人は今日が村の収穫祭である事を知ると精一杯に着飾って生まれたばかりの赤子と一緒にお祭りの会場であるこの広場まではるばるやって来たのです。
その若夫婦は柵で作られた村の出入り口の方につながっている小道から大勢の村人たちで賑わっている中央の広場の中に足を踏み入れるとそこで繰り広げられているお祭りの華やかな様子や大声で笑ったり叫んだりしている見知らぬ人々の姿に気後れしたのか二人してあたりをキョロキョロ見回します。
しかし二人でヒソヒソ話した後で何やら目標を見定めたのか互いにうなずき合うと人混みの中を肩を並べて歩き出します。
彼らは人混みで誰かとぶつからないように注意しながら肩を並べて慎重に歩き赤子を抱えた妻に歩調を合わせるようにゆっくりと広場の混雑の中を移動して行きます。
その若夫婦は何故か彼らの事が気になって二人の姿が広場に現れた時からずっと注視していたラーナ・メデューサの近くにまで歩み寄って来ましたが当然ながら幽体である彼女の存在には全く気づかず蛇娘の傍をそのまま通り過ぎて行きます。
そしてメデューサの側を通り過ぎたその若夫婦は広場の真ん中あたりにまで移動するとそこに居並んでいる行商人が食べ物などを売っている屋台の一つの前で足を揃えて立ち止まりました。
夫婦が立ち止まったのは甘いパンケーキをぼったくり価格で売っている中年の男が一人で取り仕切る小さな屋台で実は夫婦のうち夫である青年の方は以前この中年男の作った屋台のパンケーキを別の場所で食べた事がありその美味しさは記憶に残っていました。
本日、青年は妻と生まれたての息子と一緒にこの村で行われている収穫祭に初めて参加しており貧しいながらもこのお祭りを家族と共に楽しもうと心に決めていました。
そこで以前食べた事のある美味しいパンケーキ屋がこの村のお祭りにも屋台を出しているのを見かけた青年は家族にもあの美味しいパンケーキを味あわせたいと考え妻とも相談して乏しい手持ちのお金の中からそのパンケーキを買うことにしたのでした。
そのパンケーキはお祭り用のぼったくり価格で普段より何倍も高かったので懐具合の乏しい青年は一個だけ買ってそれを家族全員で分ける事にしました。
屋台店の主人は青年が貧しいのを察したのかそれとも彼が以前にも友人たちと一緒にお客として来てくれたのを思い出したのか小皿にパンケーキをごっそりと山盛りにしてサービスしてくれました。
青年はその小皿にごっそりと盛られたパンケーキを店の主人から受け取ると妻である赤子を抱いた女性と共に広場の外れに設けられた休憩スペースまで移動しました。
そこは村人たちの憩いの場として普段から広場の隅に設けられている休憩スペースで木の廃材などを用いたテーブルや椅子が置かれていて今も何人かの村人が集まっており休憩しながら談笑しています。
件の若夫婦は休憩スペースで休む他の村人からは少し距離を取るようにポツンと離れた場所にある大きな切り株に並んで腰を下ろすとそこからお祭りの賑やかな様子を眺めつつ屋台で買ったパンケーキを仲良く二人で分けながら食べ始めました。
互いの顔に笑顔を浮かべながら幸せそうに一皿のパンケーキを分け合って食べる若夫婦。
妻である青灰色の髪の女性は白い布に包まれた赤子を胸にかき抱きながら夫の手の中にある小皿に乗ったパンケーキを細い指で少しずつちぎり自分の口元に運んでいます。
夫である黒髪の青年はそんな美味しそうにパンケーキを食べる妻の様子を目を細めて見ながら自分も少しずつ小皿の上に乗ったパンケーキをちぎって口の中に頬張り味わって食べています。
そして妻である女性がパンケーキを細かくちぎったかけらを指でつまんで胸に抱いた赤子の口にそっと含ませるとその子はあまりの甘さにびっくりしたのか父親譲りの青い目を大きく見開きながらキャッキャッと笑います。
それを見た若夫婦もまた互いの顔を見つめると楽しそうに笑い合います。
やがてそんな風に切り株の上で並んで座りパンケーキを分け合って食べる若夫婦の周りに他の村人たちが集まって来ました。
若夫婦の知り合いの村人はもちろん二人の事を知らない村人たちも彼らの側に寄ってきてあれこれ親しげに話しかけて来ます。
それは村にとっては新参者である若夫婦に対する好奇心ももちろんあったのですが何と言ってもその主な理由は妻である女性が胸に抱えているシーツに包まれた赤子のそのあまりの愛らしさが村人たちの目を強く惹きつけたからでした。
村人たちは切り株に座った二人に親しげに話しかけ赤ん坊の愛らしさを誉めたたえます。
若夫婦は大勢の村人たちに囲まれながら何だか照れ臭そうにしています。
若夫婦のために屋台で買った食べ物を親切に差し入れてくれる人も何人もいました。
二人はそれをおずおずと受け取ると恥ずかしそうにお礼を言いました。
そして幽霊のような状態になったメデューサはその一部始終を少し離れた場所からじっと見つめていました。
切り株に仲良く座る幼子を抱えたまだ若い夫婦と彼らの周りを取り巻く親切で優しげな村人たちそして収穫祭で賑わう暖かな雰囲気に包まれた村内の様子をー。
貧しい村でした。
貧しい人々でした。
貧しい夫婦でした。
しかし王侯貴族が持つどんな金銀財宝にもまさる価値を持つ大切な何かがこの場所には確かにありました。
メデューサは意を決したように前を向くとたくさんの人々で賑わう祭りの会場である広場を横断するみたいに歩き始めます。
もちろん周囲には大勢の村人たちがいましたが精神体だけの状態となったメデューサを見たり触ったり出来る者は一人もおらず彼女は群衆で混雑する村広場のただ中を誰にも気付かれる事無くすり抜けるように移動して行きます。
まるで幽霊みたいにー。
地面から少し浮いた彼女の足は広場の隅の方にある休憩スペースで切り株の上に座る親子連れの方へと真っ直ぐに向かいます。
うら若く美しい母親に抱かれた青灰色の髪と澄みきった青い瞳を持つその天使のような赤子ー。
そう、まだ生まれたばかりのシュナン少年の元へー。
[続く]
彼女は村へと向かう埃っぽいあぜ道の上に立っており周りには田んぼや家畜小屋それを取り巻く林や山などどこの田舎でも見られるのどかな田園風景が広がっていました。
メデューサが空を見ると渡り鳥が数羽くるくると旋回しているのが見えました。
どこからどう見てもただの、ど田舎の景色です。
どうしてシュナン少年たちと共にラピータ宮殿前にいたはずの自分がこんな場所に飛ばされたのかメデューサには理解出来ませんでした。
しかも実体を持たない幽霊のような姿となってー。
それは先ほど村の子供たちが自分の姿に全く気付かずしかもメデューサの身体をまるでそこに何も無いかのように通り抜け走り去って行った事を見ても明らかでした。
彼女の革製の靴を履いた両足はあぜ道の上に立っているように見えて実はその足裏は少し地面から離れ宙に浮いていました。
つまりメデューサはまさしく幽霊のように空中に浮遊していたのです。
おそらくメデューサの本体は今だにラピータ宮殿の門前で倒れ伏したシュナン少年に付き添い魂の無い抜け殻のような状態となって彼の傍に座っているのでしょう。
瀕死の状態のシュナン少年が心配でたまらないメデューサは何故よりによってこんな時に自分が彼の元を離れこんな場所に瞬間的に移動させられたのか訳がわからず、いらただしげに周りの景色を見回します。
そしてこんな場所に立ち止まっていてもしょうがないと思いとりあえず何かの手がかりが掴めるのではないかと考えたメデューサは先ほど子供たちが走り去った方角にあると思われる人間の住む村落を目指して歩き始めます。
まるで幽霊みたいに地面から足裏が少し離れた状態で道なりに移動する彼女の前にやがて木の柵でぐるりと囲われた人間の村の姿が徐々に見えてきました。
なにやら大勢の人々が上げる賑やかな声も風に乗って聴こえてきます。
やがてその村の木の柵で出来た出入り口にたどり着いたメデューサは一瞬、柵の手前で立ち止まりましたがゴクリと息を飲むと思い切って木の柵の間のスペースをくぐり村の中へと足を一歩踏み入れました。
木の柵で出来た出入り口を通過して村内に足を踏み入れたメデューサの目の前にその村落の全景が一望の元に広がりました。
その村落はメデューサの予想通りの寒村でした。
百軒足らずの木造の小さな家屋が点々と立ち並びそれぞれに小さな畑と家畜小屋が隣接しています。
おそらく村人の人口は数百人にも満たなかった事でしょう。
家と家の間を縫うように細い道が走っておりその道は村の中央に設けられた大きな広場につながっていました。
そこには集会所として使われているらしい大きな建物や井戸の周りに作られた共用の水場がありそれに野外で食事をする為の木のテーブルなども置かれておりどうやら村人たちが共同で使っているスペースのようです。
村の中に入り込んだメデューサにとって予想外だったのはそんな寒村だったにも関わらずその日は村全体が華やかな雰囲気に包まれていた事です。
粗末な木造の家屋には様々な意匠や飾りがほどこされ見違えるように明るい雰囲気をかもし出しています。
村人たちもその多くが一部の引きこもりを除いては外に出ており農閑期だからか畑仕事をしている者は一人もおらずみんな普段の作業着とは違う綺麗な服を身にまとい明るい笑顔で立ち話をしたり一緒に歩いたりしています。
(お祭りかー)
メデューサの頭にその言葉が浮かんだ通りその日はこの村にとって年に一度の収穫祭つまりはお祭りの日でした。
その年は近年稀に見る豊作の年であり村人たちは収穫の恵みを神に感謝しその証として大がかりなお祭りを開き豊かな年であった事を皆で喜び合っていたのです。
幽体となったメデューサが大勢の村人たちが行き交う村の小道を誰にも気づかれる事なく歩んで行くとやがて収穫祭のメイン会場である村の中央に位置する大きな広場に出ました。
そこではやはり老若男女を問わず大勢の村人たちがひしめいており互いの顔に笑顔を浮かべながらつらい労働の日々が報われた証である一年に一度訪れるこの良き日を共に祝っていました。
村の中心的な場所であるそこは今日は祝祭の場と化し大勢の人々が広い敷地内のあちこちでそれぞれお祭りを楽しんでいるのが見て取れます。
広場の真ん中に建てられた神を祀る祠には花や食べ物など多くの貢物が捧げられその前の広いスペースでは精一杯着飾った若い男女が輪になって楽しそうに踊っています。
またどこかで祭りの噂を聞きつけたのか旅芸人や行商人も村にやって来ており広場のあちこちで手品や曲芸を披露したりまた出店を開いて珍しい食べ物をぼったくり価格で売っていました。
子供たちも元気に広場の中を走り回り周りに立つ大人たちはそれを談笑しながらうれしそうに見ています。
一方、幽霊みたいな状態となってその中に入り込んだ我らがヒロイン、ラーナ・メデューサは周囲にいる誰にも気づかれる事なく群衆で混雑した広場内に立ち尽くしていました。
彼女はそこで開催されている楽しげなお祭りの様子を蛇の前髪の下からまぶしげに見つめながら今まで感じた事の無い激しい羨望のような気持ちが胸にこみ上げるのを覚え少し驚きます。
それほどまでに周囲の村人たちの様子は楽しげで幸せそうでした。
まるで神の国の住人のようにー。
しかしこの貧しいながらも精一杯盛大にお祭りが行われた年のわずか数年後にこの地方を襲った大飢饉によりメデューサが今いる村を含め多くの村々が大打撃を受け多くの餓死者を出すと共に人心も果てしなく荒廃していく事になるのです。
無論そんな事は神ならぬメデューサには知りようも無い事でした。
そんな風に村の広場内で行われている祭りの様子を棒立ちになって見つめていたメデューサですがやがて背後から自分に近づく人の気配に気付き思わず後ろを振り向きます。
するとメデューサがやって来た村の正面出入り口のある方角からあぜ道を歩き広場内に入ろうとする男女の姿が目に入ります。
それは若い男女の二人連れで女性の方は胸に白い布で包まれた赤子を抱いておりどうやら夫婦のようでした。
男性は黒髪でやや小柄でしたが精悍な体つきと顔をしており澄んだ青い瞳が特徴的な青年でした。
女性の方は青灰色のちょっと変わった髪の色をしておりとても美しく優しい顔立ちの人でした。
実は二人は最近村はずれの家に引っ越して来た貧しい夫婦であり呪い師をその生業(なりわい)としていました。
二人は今日が村の収穫祭である事を知ると精一杯に着飾って生まれたばかりの赤子と一緒にお祭りの会場であるこの広場まではるばるやって来たのです。
その若夫婦は柵で作られた村の出入り口の方につながっている小道から大勢の村人たちで賑わっている中央の広場の中に足を踏み入れるとそこで繰り広げられているお祭りの華やかな様子や大声で笑ったり叫んだりしている見知らぬ人々の姿に気後れしたのか二人してあたりをキョロキョロ見回します。
しかし二人でヒソヒソ話した後で何やら目標を見定めたのか互いにうなずき合うと人混みの中を肩を並べて歩き出します。
彼らは人混みで誰かとぶつからないように注意しながら肩を並べて慎重に歩き赤子を抱えた妻に歩調を合わせるようにゆっくりと広場の混雑の中を移動して行きます。
その若夫婦は何故か彼らの事が気になって二人の姿が広場に現れた時からずっと注視していたラーナ・メデューサの近くにまで歩み寄って来ましたが当然ながら幽体である彼女の存在には全く気づかず蛇娘の傍をそのまま通り過ぎて行きます。
そしてメデューサの側を通り過ぎたその若夫婦は広場の真ん中あたりにまで移動するとそこに居並んでいる行商人が食べ物などを売っている屋台の一つの前で足を揃えて立ち止まりました。
夫婦が立ち止まったのは甘いパンケーキをぼったくり価格で売っている中年の男が一人で取り仕切る小さな屋台で実は夫婦のうち夫である青年の方は以前この中年男の作った屋台のパンケーキを別の場所で食べた事がありその美味しさは記憶に残っていました。
本日、青年は妻と生まれたての息子と一緒にこの村で行われている収穫祭に初めて参加しており貧しいながらもこのお祭りを家族と共に楽しもうと心に決めていました。
そこで以前食べた事のある美味しいパンケーキ屋がこの村のお祭りにも屋台を出しているのを見かけた青年は家族にもあの美味しいパンケーキを味あわせたいと考え妻とも相談して乏しい手持ちのお金の中からそのパンケーキを買うことにしたのでした。
そのパンケーキはお祭り用のぼったくり価格で普段より何倍も高かったので懐具合の乏しい青年は一個だけ買ってそれを家族全員で分ける事にしました。
屋台店の主人は青年が貧しいのを察したのかそれとも彼が以前にも友人たちと一緒にお客として来てくれたのを思い出したのか小皿にパンケーキをごっそりと山盛りにしてサービスしてくれました。
青年はその小皿にごっそりと盛られたパンケーキを店の主人から受け取ると妻である赤子を抱いた女性と共に広場の外れに設けられた休憩スペースまで移動しました。
そこは村人たちの憩いの場として普段から広場の隅に設けられている休憩スペースで木の廃材などを用いたテーブルや椅子が置かれていて今も何人かの村人が集まっており休憩しながら談笑しています。
件の若夫婦は休憩スペースで休む他の村人からは少し距離を取るようにポツンと離れた場所にある大きな切り株に並んで腰を下ろすとそこからお祭りの賑やかな様子を眺めつつ屋台で買ったパンケーキを仲良く二人で分けながら食べ始めました。
互いの顔に笑顔を浮かべながら幸せそうに一皿のパンケーキを分け合って食べる若夫婦。
妻である青灰色の髪の女性は白い布に包まれた赤子を胸にかき抱きながら夫の手の中にある小皿に乗ったパンケーキを細い指で少しずつちぎり自分の口元に運んでいます。
夫である黒髪の青年はそんな美味しそうにパンケーキを食べる妻の様子を目を細めて見ながら自分も少しずつ小皿の上に乗ったパンケーキをちぎって口の中に頬張り味わって食べています。
そして妻である女性がパンケーキを細かくちぎったかけらを指でつまんで胸に抱いた赤子の口にそっと含ませるとその子はあまりの甘さにびっくりしたのか父親譲りの青い目を大きく見開きながらキャッキャッと笑います。
それを見た若夫婦もまた互いの顔を見つめると楽しそうに笑い合います。
やがてそんな風に切り株の上で並んで座りパンケーキを分け合って食べる若夫婦の周りに他の村人たちが集まって来ました。
若夫婦の知り合いの村人はもちろん二人の事を知らない村人たちも彼らの側に寄ってきてあれこれ親しげに話しかけて来ます。
それは村にとっては新参者である若夫婦に対する好奇心ももちろんあったのですが何と言ってもその主な理由は妻である女性が胸に抱えているシーツに包まれた赤子のそのあまりの愛らしさが村人たちの目を強く惹きつけたからでした。
村人たちは切り株に座った二人に親しげに話しかけ赤ん坊の愛らしさを誉めたたえます。
若夫婦は大勢の村人たちに囲まれながら何だか照れ臭そうにしています。
若夫婦のために屋台で買った食べ物を親切に差し入れてくれる人も何人もいました。
二人はそれをおずおずと受け取ると恥ずかしそうにお礼を言いました。
そして幽霊のような状態になったメデューサはその一部始終を少し離れた場所からじっと見つめていました。
切り株に仲良く座る幼子を抱えたまだ若い夫婦と彼らの周りを取り巻く親切で優しげな村人たちそして収穫祭で賑わう暖かな雰囲気に包まれた村内の様子をー。
貧しい村でした。
貧しい人々でした。
貧しい夫婦でした。
しかし王侯貴族が持つどんな金銀財宝にもまさる価値を持つ大切な何かがこの場所には確かにありました。
メデューサは意を決したように前を向くとたくさんの人々で賑わう祭りの会場である広場を横断するみたいに歩き始めます。
もちろん周囲には大勢の村人たちがいましたが精神体だけの状態となったメデューサを見たり触ったり出来る者は一人もおらず彼女は群衆で混雑する村広場のただ中を誰にも気付かれる事無くすり抜けるように移動して行きます。
まるで幽霊みたいにー。
地面から少し浮いた彼女の足は広場の隅の方にある休憩スペースで切り株の上に座る親子連れの方へと真っ直ぐに向かいます。
うら若く美しい母親に抱かれた青灰色の髪と澄みきった青い瞳を持つその天使のような赤子ー。
そう、まだ生まれたばかりのシュナン少年の元へー。
[続く]
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説

もう死んでしまった私へ
ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。
幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか?
今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。


メデューサの旅
きーぼー
ファンタジー
ギリシャ神話をモチーフにしたハイファンタジー。遥か昔、ギリシャ神話の時代。蛇の髪と相手を石に変える魔眼を持つ伝説の怪物、メデューサ族の生き残りの女の子ラーナ・メデューサは都から来た不思議な魔法使いの少年シュナンと共に人々を救うという「黄金の種子」を求めて長い旅に出ます。果たして彼らの旅は人類再生の端緒となるのでしょうか。こちらは2部作の前半部分になります。もし気に入って頂けたのなら後半部分(激闘編)も是非御一読下さい


百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
(完結)貴方から解放してくださいー私はもう疲れました(全4話)
青空一夏
恋愛
私はローワン伯爵家の一人娘クララ。私には大好きな男性がいるの。それはイーサン・ドミニク。侯爵家の子息である彼と私は相思相愛だと信じていた。
だって、私のお誕生日には私の瞳色のジャボ(今のネクタイのようなもの)をして参加してくれて、別れ際にキスまでしてくれたから。
けれど、翌日「僕の手紙を君の親友ダーシィに渡してくれないか?」と、唐突に言われた。意味がわからない。愛されていると信じていたからだ。
「なぜですか?」
「うん、実のところ私が本当に愛しているのはダーシィなんだ」
イーサン様は私の心をかき乱す。なぜ、私はこれほどにふりまわすの?
これは大好きな男性に心をかき乱された女性が悩んで・・・・・・結果、幸せになったお話しです。(元さやではない)
因果応報的ざまぁ。主人公がなにかを仕掛けるわけではありません。中世ヨーロッパ風世界で、現代的表現や機器がでてくるかもしれない異世界のお話しです。ご都合主義です。タグ修正、追加の可能性あり。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる