58 / 64
十九皿目
お帰りなさいと冬瓜の葛かけ・下
しおりを挟む
俺が渡した手紙をじっくり読んだ尊さんの表情は、変わらなかった。ただ、二度目に読み直したときは少し唇の端が上がっていた。
「お前が、俺にこんな手の込んだ冗談をするとは思えない。本当なんだろうな?」
「はい、少し待っていて貰えますか?」
俺は尊さんにそう頷くと、しのに視線を移す。しのは俺に向かって頷くと、ゆっくりと立ち上がった。俺もそれに続くように立ち上がる。
「分かった」
尊さんはそう俺に返すと、陸奥さんに読み終わった手紙を渡す。それを横目に見ながら、俺たちは長屋の自分の家に向かった。
そろそろ起きて仕事まで三味線を鳴らしているおっかさんに気づかれないように、俺たちは床下に隠している財宝の入っている壺を掘り返した。壺に付いている土を丁寧に拭い、風呂敷に包んで急いで蕗谷亭に戻った。
「これが、その財宝です」
俺たちは尊さんの前に二つの壺を置くと、包んでいた風呂敷を開けた。中からは、神社で見つけた時と同じ――たくさんの小判と珊瑚が壺いっぱいに入っている。尊さんは表情を変えず、陸奥さんは驚いた顔になったが言葉は飲み込んだようだ。
「これだけのものがどこかの家から盗まれたなら、必ず噂になる。だから、これは不正に手入れたものではないだろう。それにこの手紙の通りに恭介――お前は時間を旅している者、で間違いないのか? 本当のお前は誰で、どこから来たんだ?」
壺の中の珊瑚と小判をハンカチで持って軽く眺めてから、尊さんが真っすぐに俺を見る。多分、しのも、だ。ずっと気になっていたに違いない。俺が誰なのかを、知りたがっているはずだ。
「俺は、今の時代から約百年後の日本で生きている、平塚恭志といいます。車に跳ねられて、気が付いたらこの時代の――蕗谷恭介になっていました」
「百年後、だと?」
突拍子もない話だろう。俺なら、いくら可愛がっている後輩から突然こんな話をされても、絶対に信じることは出来ない。尊さんは、わずかに困惑した表情になっていた。
「信じられないかもしれませんが――本当なんです。俺が十の時に軍馬に蹴られた瞬間、俺はこの時代に来たみたい……です」
尊さんは意見を求めるように陸奥さんに視線を向けたが、彼は困った顔をして首を傾げた。俺は、怖くてしのの顔は見れなかった。
「では……お前は、この時代に何が起こるか知っているということだな? これから起きることを言ってくれ。それが正しかったら、一応信じよう」
しばらくの沈黙の後に、尊さんはそう言った。
「でも――歴史を変えることはしてはいけないんです。過去の人に歴史を教えて、本来起こるはずの未来を変えてしまったら、大変なことになります!」
俺は、慌てて少し高めの声を上げてしまった。世界情勢が変わることは勿論だが、俺が生まれる未来もなくなってしまうかもしれない。
「――約束しよう。お前が話した未来がどんなことでも、変えるようなことはしない。お前も、絶対に話してはいけないことは話さなくていい。俺を信じて、話してくれ。でなければ、お前の話を信じることは出来ない」
尊さんは、興奮した俺に静かにそう話しかけた。尊さんの言葉は、間違っていない。俺の話が正しいと信じてもらうためには、確かに未来の事を話さないといけない。
今は、明治四十二年の夏……何があったんだろう? 歴史が特別得意ではない俺は、必死に日本史の授業を思い出した。
「伊藤博文と、元号が変わる!」
「何?」
俺は、テストで出たことを思い出した。思わず口に出したその言葉に、尊さんが珍しくきょとんとした顔になった。
「この秋か冬に、伊藤博文……様が暗殺されます。あと、明治四十五年の夏に新しい年が始まります」
伊藤博文は、確か四回も内閣総理大臣になった人だ。この時代の庶民の俺は、彼を呼び捨てなんて出来ないな。元号が大正に変わる前に、確か清国で暗殺されるってテストに出た。今証明しやすい出来事は、この二つしか思い浮かばなかった。時期がいつかまでは、情けないが覚えていない。
「それは……大変な出来事だな」
陸奥さんがメモ帳に書こうとしたが、尊さんはその手を止めさせた。
「恭介……いや、恭志と呼んだ方がいいのか?」
「恭介! 兄ちゃんは、恭介だよ!」
横から、涙声のしのの声が上がった。驚いて横を見たら、顔を真っ赤にして泣くのを耐えているしのの顔があった。
「兄ちゃんは、ずっとあたしとおっかさんを守ってくれてる。恭志じゃない、恭介!」
「分かった、すまない――泣くな」
尊さんが困った顔でしのの頭を撫でながら、俺に視線を向けた。俺は、そんなしのがいじらしくて尊さんに笑みを浮かべながら頷いた。この時代にいる俺は、恭介であるべきだ、と。
「恭介、それが証明されたならお前の話を信じよう。それで、俺にお願いとはなんだ? もしかして、この財宝の事か?」
相変わらず、尊さんは聡明だ。俺は、尊さんの父親から言われた事を彼に話した。薬研製薬のまかない作りがなくなり、ここを買い取るしかない事を。
「この財宝を換金して、俺は食堂を作りたいんです。洋食屋を、しのと一緒に作りたいんです! 俺では、これを換金できるあてがないので……」
こんなに大量の小判や宝石を持ち込んだら、きっと怪しまれる。それに、盗んだと疑われるだろう。俺にとって、こんなことを頼めるのは尊さんしかいなかった。
「分かった。お前の話が正しかったと確認したら、換金しよう。それまで、大事に預かっておく――ここに置いていては、不用心だからな」
その言葉に、しのが風呂敷で二つの壺を包み直した。俺はほっとしてから、尊さんに頭を下げた。
「よろしくお願いします――あ! そうだ」
「なんだ? 忙しい奴だな」
俺が慌てて台所に向かうのを、尊さんは少しおかしそうに笑った――よかった、いつもの尊さんだ。俺は、小鉢を取ると冬瓜の葛かけをよそった。箸と一緒に戻ると、それを尊さんと陸奥さんの前に置いた。
「お帰りなさい。日本の味――俺の料理の味、三年ぶりにどうぞ!」
もう、味は染みているはずだ。独逸から帰ってきて慌ただしくしていたみたいだから、和食を口にしていないかもしれない。それに、何よりも俺が作った料理も!
「懐かしい……カツオの出汁、美味しいですね。よく母が作ってくれました。その味を思い出します。母の味は、もっと濃い味でしたが」
先に一口食べた陸奥さんが、ほっとした顔になってしみじみと呟いた。その言葉に、尊さんも冬瓜を口に入れた。
「うん、美味い。恭介の料理は、出汁が本当にいい。濃すぎず、心地よい味だ――ああ、確かに日本の味がする。瓜は味が染みにくく、炊きすぎると形が崩れると聞いたが、これは形もいい。今日の夕飯は、これか。みんなも、きっと満足するだろう――お前の洋食屋の道が、見えてきたな」
「はい!」
俺はそう返事をして、しのに顔を向けた。しのは少し赤い目をしていたが、にっこりと嬉しそうに笑って俺の手を握ってくれた。
尊さんの箸が摘まむ冬瓜の葛かけが、夏の午後に光にきらりと光った。
「お前が、俺にこんな手の込んだ冗談をするとは思えない。本当なんだろうな?」
「はい、少し待っていて貰えますか?」
俺は尊さんにそう頷くと、しのに視線を移す。しのは俺に向かって頷くと、ゆっくりと立ち上がった。俺もそれに続くように立ち上がる。
「分かった」
尊さんはそう俺に返すと、陸奥さんに読み終わった手紙を渡す。それを横目に見ながら、俺たちは長屋の自分の家に向かった。
そろそろ起きて仕事まで三味線を鳴らしているおっかさんに気づかれないように、俺たちは床下に隠している財宝の入っている壺を掘り返した。壺に付いている土を丁寧に拭い、風呂敷に包んで急いで蕗谷亭に戻った。
「これが、その財宝です」
俺たちは尊さんの前に二つの壺を置くと、包んでいた風呂敷を開けた。中からは、神社で見つけた時と同じ――たくさんの小判と珊瑚が壺いっぱいに入っている。尊さんは表情を変えず、陸奥さんは驚いた顔になったが言葉は飲み込んだようだ。
「これだけのものがどこかの家から盗まれたなら、必ず噂になる。だから、これは不正に手入れたものではないだろう。それにこの手紙の通りに恭介――お前は時間を旅している者、で間違いないのか? 本当のお前は誰で、どこから来たんだ?」
壺の中の珊瑚と小判をハンカチで持って軽く眺めてから、尊さんが真っすぐに俺を見る。多分、しのも、だ。ずっと気になっていたに違いない。俺が誰なのかを、知りたがっているはずだ。
「俺は、今の時代から約百年後の日本で生きている、平塚恭志といいます。車に跳ねられて、気が付いたらこの時代の――蕗谷恭介になっていました」
「百年後、だと?」
突拍子もない話だろう。俺なら、いくら可愛がっている後輩から突然こんな話をされても、絶対に信じることは出来ない。尊さんは、わずかに困惑した表情になっていた。
「信じられないかもしれませんが――本当なんです。俺が十の時に軍馬に蹴られた瞬間、俺はこの時代に来たみたい……です」
尊さんは意見を求めるように陸奥さんに視線を向けたが、彼は困った顔をして首を傾げた。俺は、怖くてしのの顔は見れなかった。
「では……お前は、この時代に何が起こるか知っているということだな? これから起きることを言ってくれ。それが正しかったら、一応信じよう」
しばらくの沈黙の後に、尊さんはそう言った。
「でも――歴史を変えることはしてはいけないんです。過去の人に歴史を教えて、本来起こるはずの未来を変えてしまったら、大変なことになります!」
俺は、慌てて少し高めの声を上げてしまった。世界情勢が変わることは勿論だが、俺が生まれる未来もなくなってしまうかもしれない。
「――約束しよう。お前が話した未来がどんなことでも、変えるようなことはしない。お前も、絶対に話してはいけないことは話さなくていい。俺を信じて、話してくれ。でなければ、お前の話を信じることは出来ない」
尊さんは、興奮した俺に静かにそう話しかけた。尊さんの言葉は、間違っていない。俺の話が正しいと信じてもらうためには、確かに未来の事を話さないといけない。
今は、明治四十二年の夏……何があったんだろう? 歴史が特別得意ではない俺は、必死に日本史の授業を思い出した。
「伊藤博文と、元号が変わる!」
「何?」
俺は、テストで出たことを思い出した。思わず口に出したその言葉に、尊さんが珍しくきょとんとした顔になった。
「この秋か冬に、伊藤博文……様が暗殺されます。あと、明治四十五年の夏に新しい年が始まります」
伊藤博文は、確か四回も内閣総理大臣になった人だ。この時代の庶民の俺は、彼を呼び捨てなんて出来ないな。元号が大正に変わる前に、確か清国で暗殺されるってテストに出た。今証明しやすい出来事は、この二つしか思い浮かばなかった。時期がいつかまでは、情けないが覚えていない。
「それは……大変な出来事だな」
陸奥さんがメモ帳に書こうとしたが、尊さんはその手を止めさせた。
「恭介……いや、恭志と呼んだ方がいいのか?」
「恭介! 兄ちゃんは、恭介だよ!」
横から、涙声のしのの声が上がった。驚いて横を見たら、顔を真っ赤にして泣くのを耐えているしのの顔があった。
「兄ちゃんは、ずっとあたしとおっかさんを守ってくれてる。恭志じゃない、恭介!」
「分かった、すまない――泣くな」
尊さんが困った顔でしのの頭を撫でながら、俺に視線を向けた。俺は、そんなしのがいじらしくて尊さんに笑みを浮かべながら頷いた。この時代にいる俺は、恭介であるべきだ、と。
「恭介、それが証明されたならお前の話を信じよう。それで、俺にお願いとはなんだ? もしかして、この財宝の事か?」
相変わらず、尊さんは聡明だ。俺は、尊さんの父親から言われた事を彼に話した。薬研製薬のまかない作りがなくなり、ここを買い取るしかない事を。
「この財宝を換金して、俺は食堂を作りたいんです。洋食屋を、しのと一緒に作りたいんです! 俺では、これを換金できるあてがないので……」
こんなに大量の小判や宝石を持ち込んだら、きっと怪しまれる。それに、盗んだと疑われるだろう。俺にとって、こんなことを頼めるのは尊さんしかいなかった。
「分かった。お前の話が正しかったと確認したら、換金しよう。それまで、大事に預かっておく――ここに置いていては、不用心だからな」
その言葉に、しのが風呂敷で二つの壺を包み直した。俺はほっとしてから、尊さんに頭を下げた。
「よろしくお願いします――あ! そうだ」
「なんだ? 忙しい奴だな」
俺が慌てて台所に向かうのを、尊さんは少しおかしそうに笑った――よかった、いつもの尊さんだ。俺は、小鉢を取ると冬瓜の葛かけをよそった。箸と一緒に戻ると、それを尊さんと陸奥さんの前に置いた。
「お帰りなさい。日本の味――俺の料理の味、三年ぶりにどうぞ!」
もう、味は染みているはずだ。独逸から帰ってきて慌ただしくしていたみたいだから、和食を口にしていないかもしれない。それに、何よりも俺が作った料理も!
「懐かしい……カツオの出汁、美味しいですね。よく母が作ってくれました。その味を思い出します。母の味は、もっと濃い味でしたが」
先に一口食べた陸奥さんが、ほっとした顔になってしみじみと呟いた。その言葉に、尊さんも冬瓜を口に入れた。
「うん、美味い。恭介の料理は、出汁が本当にいい。濃すぎず、心地よい味だ――ああ、確かに日本の味がする。瓜は味が染みにくく、炊きすぎると形が崩れると聞いたが、これは形もいい。今日の夕飯は、これか。みんなも、きっと満足するだろう――お前の洋食屋の道が、見えてきたな」
「はい!」
俺はそう返事をして、しのに顔を向けた。しのは少し赤い目をしていたが、にっこりと嬉しそうに笑って俺の手を握ってくれた。
尊さんの箸が摘まむ冬瓜の葛かけが、夏の午後に光にきらりと光った。
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
王妃から夜伽を命じられたメイドのささやかな復讐
当麻月菜
恋愛
没落した貴族令嬢という過去を隠して、ロッタは王宮でメイドとして日々業務に勤しむ毎日。
でもある日、子宝に恵まれない王妃のマルガリータから国王との夜伽を命じられてしまう。
その理由は、ロッタとマルガリータの髪と目の色が同じという至極単純なもの。
ただし、夜伽を務めてもらうが側室として召し上げることは無い。所謂、使い捨ての世継ぎ製造機になれと言われたのだ。
馬鹿馬鹿しい話であるが、これは王命─── 断れば即、極刑。逃げても、極刑。
途方に暮れたロッタだけれど、そこに友人のアサギが現れて、この危機を切り抜けるとんでもない策を教えてくれるのだが……。
愚かな父にサヨナラと《完結》
アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」
父の言葉は最後の一線を越えてしまった。
その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・
悲劇の本当の始まりはもっと昔から。
言えることはただひとつ
私の幸せに貴方はいりません
✈他社にも同時公開
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と叫んだら長年の婚約者だった新妻に「気持ち悪い」と言われた上に父にも予想外の事を言われた男とその浮気女の話
ラララキヲ
恋愛
長年の婚約者を欺いて平民女と浮気していた侯爵家長男。3年後の白い結婚での離婚を浮気女に約束して、新妻の寝室へと向かう。
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と愛する夫から宣言された無様な女を嘲笑う為だけに。
しかし寝室に居た妻は……
希望通りの白い結婚と愛人との未来輝く生活の筈が……全てを周りに知られていた上に自分の父親である侯爵家当主から言われた言葉は──
一人の女性を蹴落として掴んだ彼らの未来は……──
<【ざまぁ編】【イリーナ編】【コザック第二の人生編(ザマァ有)】となりました>
◇テンプレ浮気クソ男女。
◇軽い触れ合い表現があるのでR15に
◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。
◇ご都合展開。矛盾は察して下さい…
◇なろうにも上げてます。
※HOTランキング入り(1位)!?[恋愛::3位]ありがとうございます!恐縮です!期待に添えればよいのですがッ!!(;><)
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
【完】あの、……どなたでしょうか?
桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー
爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」
見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は………
「あの、……どなたのことでしょうか?」
まさかの意味不明発言!!
今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!!
結末やいかに!!
*******************
執筆終了済みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる