想ひ出のアヂサヰ亭

七海美桜

文字の大きさ
上 下
20 / 65
七膳目

鰯のつみれ汁と大事件!・上

しおりを挟む
「おかえり」
「お帰りなさい」
 石油ランプを手に夜道を帰って来たおっかさんと、隣の家に住むまつさん夫婦を俺としのは迎え入れた。長火鉢の部屋では、まつさんの子供の清と治郎が腹一杯になって寝ている。親たちが帰って来たのは思っていたより遅くて、もう壁掛け時計は十九時を少し過ぎていた。だが、俺は竈の火を消していなかったのでこの家の玄関と台所は明るかった筈だ。

 今日は、六軒長屋の住人は大家に呼び出されたのだ。長屋の住人の仕事の時間を調節して、更に夜に働くおっかさんが休みの日の今日、十七時に決まった。夕飯時だったので、清と治郎は俺達が預かって用意した飯を食べさせた。今日は厚焼き玉子を焼いて、高野豆腐と椎茸の煮物を作った。それに、大根の味噌汁と麦飯と漬物。厚焼き玉子は少し甘めに焼いたので、清も治郎も喜んで食べてくれた。
「有難うね、ちび達は大人しくしてたかい?」
 まつさんが気持ちよさそうに寝ている息子二人を眺めてから、申し訳なさそうにそう言ってくれた。俺は、高野豆腐と椎茸をくれたまつさんに「大丈夫! 二人ともたくさん食べて大人しくしていたよ」と、お礼を込めて丁寧に頭を下げた。それから竈に向かいながら「少し待って」とまつさん夫婦に声をかける。
「こんなに長い話し合いになるとは思わなかったよ、まったく」
 おっかさんは機嫌が悪そうにそう呟くと、清たちが寝ている横にあるちゃぶ台を挟んだ正面に座って、さっそく煙管を取り出して口に咥えた。
「本当にねぇ。でもこればっかりは、あたし達の生活もかかってるし負けられないね」
 まつさんがそう言うと、夫の松吉さんも頷いた。俺もしのもその話を聞きたかったが、今はそんな雰囲気じゃなさそうだ。仕方なく黙ったまま俺は大きめの椀に湯がいた蕎麦を入れて、その上に葱の青い部分と刻んだ薄揚げを乗せた。そうして、温めていた一番出汁に醤油などで味を調えた出汁を注いだ。昆布とカツオのいい出汁の香りと湯気が家に漂う。
「おっかさんとまつさん達の夕飯だよ――まつさん達は、ゆっくり家で食べる?」
 葱や薄揚げを切ってくれていたしのが、大人たちにそう声をかけた。そこで、お腹が空いている事を思い出したのか松吉さんの腹が鳴った。松吉さんは、恥ずかしそうに頭を掻く。
「おやまあ、あたし達の分の夕飯まで用意しててくれたのかい? 有難うねぇ。そうだね、この子たちもちゃんと寝かせたいから、家で頂くよ」

 寝ている清を松吉さんが、治郎をまつさんが抱える。おっかさんはすっと立ち上がると部屋を出て、石油ランプを手に二人の為夜道を案内してくれる。俺はお盆に乗せた椀と煮物の残りを、しのは塵取りに火のついた薪を乗せて、大人たちの後に続きながら零さないように慎重に運んだ。

「助かったよ。椀は、洗って明日返すな。寒いから蕎麦と煮物は、身体に有難い」
 子供二人を布団に寝かせると、俺達が持って来た盆を受け取って松吉さんが小さく笑った。「有難うねぇ」と、奥でまつさんの声もした。しのは、火鉢に火のついた灰を乗せた。今から火を点ける作業をしなくてもいいから、寒々しい部屋がすぐ暖かくなるだろう。
「気にしないでおくれ。あたし達も、いつも世話になってんだから」
 おっかさんがそう言って、「じゃあね」とまつさん達の家を出た。俺達は慌てて頭を下げて、おっかさんの後に続いた。
「家の事と、まつさんの子供の面倒見てくれて有難うよ。寒いし腹が立つし、辛いものでも食べたいね。恭介、唐辛子とんがらしおくれ」
 おっかさんは煙管を火鉢に置くと、自分の前にある湯気が上がる椀に目を落としてまだ不機嫌そうにそう言った。俺は、ほぼおっかさん専用になっている一味唐辛子が入った小さな瓢箪ひょうたんを取ると、おっかさんに渡した。
 その瓢箪からかけられた唐辛子で真っ赤な椀になった蕎麦を、おっかさんは躊躇わずにずずっとすすった。しのは自分は食べていないのに、辛そうなものを食べた顔になっていたのがおかしい。
「ねぇ、おっかさん。何の話し合いだったの?」
 我慢しきれなかったしのが、蕎麦を半分ほど食べたおっかさんに話しかけた。さっきまで清と治郎が寝ていた所に俺としのは座って、気になって仕方ないという顔でおっかさんを見た。
「でぱあと、だよ」
 おっかさんの口から出たのは、意外な言葉だった。――デパート?
「ここにでぱあとを建てるから、長屋の皆に出て行けっていう話さ。遅くとも、二月中に出て行けっていう無茶苦茶な話だよ」

 立ち退き?

 確かに、ここは人通りも多くてデパートを建てれば賑やかになるだろう。けど、そうなったら?
「俺たち、春から何処で住むの?」
「自分たちで探せ、ってさ。全く、勝手な話だよ」
 怒った声音のおっかさんは、残りの蕎麦を食べ干して煙管を咥えた。しのが、お茶の用意をする為立ち上がる。
 俺は、ぽかんとした顔で怒った顔の綺麗なおっかさんを見つめていた。


 幸せだった誕生日から、途端難題が俺達に降りかかってきた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

大工スキルを授かった貧乏貴族の養子の四男だけど、どうやら大工スキルは伝説の全能スキルだったようです

飼猫タマ
ファンタジー
田舎貴族の四男のヨナン・グラスホッパーは、貧乏貴族の養子。義理の兄弟達は、全員戦闘系のレアスキル持ちなのに、ヨナンだけ貴族では有り得ない生産スキルの大工スキル。まあ、養子だから仕方が無いんだけど。 だがしかし、タダの生産スキルだと思ってた大工スキルは、じつは超絶物凄いスキルだったのだ。その物凄スキルで、生産しまくって超絶金持ちに。そして、婚約者も出来て幸せ絶頂の時に嵌められて、人生ドン底に。だが、ヨナンは、有り得ない逆転の一手を持っていたのだ。しかも、その有り得ない一手を、本人が全く覚えてなかったのはお約束。 勿論、ヨナンを嵌めた奴らは、全員、ザマー百裂拳で100倍返し! そんなお話です。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

処理中です...