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七膳目
鰯のつみれ汁と大事件!・上
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「おかえり」
「お帰りなさい」
石油ランプを手に夜道を帰って来たおっかさんと、隣の家に住むまつさん夫婦を俺としのは迎え入れた。長火鉢の部屋では、まつさんの子供の清と治郎が腹一杯になって寝ている。親たちが帰って来たのは思っていたより遅くて、もう壁掛け時計は十九時を少し過ぎていた。だが、俺は竈の火を消していなかったのでこの家の玄関と台所は明るかった筈だ。
今日は、六軒長屋の住人は大家に呼び出されたのだ。長屋の住人の仕事の時間を調節して、更に夜に働くおっかさんが休みの日の今日、十七時に決まった。夕飯時だったので、清と治郎は俺達が預かって用意した飯を食べさせた。今日は厚焼き玉子を焼いて、高野豆腐と椎茸の煮物を作った。それに、大根の味噌汁と麦飯と漬物。厚焼き玉子は少し甘めに焼いたので、清も治郎も喜んで食べてくれた。
「有難うね、ちび達は大人しくしてたかい?」
まつさんが気持ちよさそうに寝ている息子二人を眺めてから、申し訳なさそうにそう言ってくれた。俺は、高野豆腐と椎茸をくれたまつさんに「大丈夫! 二人ともたくさん食べて大人しくしていたよ」と、お礼を込めて丁寧に頭を下げた。それから竈に向かいながら「少し待って」とまつさん夫婦に声をかける。
「こんなに長い話し合いになるとは思わなかったよ、まったく」
おっかさんは機嫌が悪そうにそう呟くと、清たちが寝ている横にあるちゃぶ台を挟んだ正面に座って、さっそく煙管を取り出して口に咥えた。
「本当にねぇ。でもこればっかりは、あたし達の生活もかかってるし負けられないね」
まつさんがそう言うと、夫の松吉さんも頷いた。俺もしのもその話を聞きたかったが、今はそんな雰囲気じゃなさそうだ。仕方なく黙ったまま俺は大きめの椀に湯がいた蕎麦を入れて、その上に葱の青い部分と刻んだ薄揚げを乗せた。そうして、温めていた一番出汁に醤油などで味を調えた出汁を注いだ。昆布とカツオのいい出汁の香りと湯気が家に漂う。
「おっかさんとまつさん達の夕飯だよ――まつさん達は、ゆっくり家で食べる?」
葱や薄揚げを切ってくれていたしのが、大人たちにそう声をかけた。そこで、お腹が空いている事を思い出したのか松吉さんの腹が鳴った。松吉さんは、恥ずかしそうに頭を掻く。
「おやまあ、あたし達の分の夕飯まで用意しててくれたのかい? 有難うねぇ。そうだね、この子たちもちゃんと寝かせたいから、家で頂くよ」
寝ている清を松吉さんが、治郎をまつさんが抱える。おっかさんはすっと立ち上がると部屋を出て、石油ランプを手に二人の為夜道を案内してくれる。俺はお盆に乗せた椀と煮物の残りを、しのは塵取りに火のついた薪を乗せて、大人たちの後に続きながら零さないように慎重に運んだ。
「助かったよ。椀は、洗って明日返すな。寒いから蕎麦と煮物は、身体に有難い」
子供二人を布団に寝かせると、俺達が持って来た盆を受け取って松吉さんが小さく笑った。「有難うねぇ」と、奥でまつさんの声もした。しのは、火鉢に火のついた灰を乗せた。今から火を点ける作業をしなくてもいいから、寒々しい部屋がすぐ暖かくなるだろう。
「気にしないでおくれ。あたし達も、いつも世話になってんだから」
おっかさんがそう言って、「じゃあね」とまつさん達の家を出た。俺達は慌てて頭を下げて、おっかさんの後に続いた。
「家の事と、まつさんの子供の面倒見てくれて有難うよ。寒いし腹が立つし、辛いものでも食べたいね。恭介、唐辛子おくれ」
おっかさんは煙管を火鉢に置くと、自分の前にある湯気が上がる椀に目を落としてまだ不機嫌そうにそう言った。俺は、ほぼおっかさん専用になっている一味唐辛子が入った小さな瓢箪を取ると、おっかさんに渡した。
その瓢箪からかけられた唐辛子で真っ赤な椀になった蕎麦を、おっかさんは躊躇わずにずずっとすすった。しのは自分は食べていないのに、辛そうなものを食べた顔になっていたのがおかしい。
「ねぇ、おっかさん。何の話し合いだったの?」
我慢しきれなかったしのが、蕎麦を半分ほど食べたおっかさんに話しかけた。さっきまで清と治郎が寝ていた所に俺としのは座って、気になって仕方ないという顔でおっかさんを見た。
「でぱあと、だよ」
おっかさんの口から出たのは、意外な言葉だった。――デパート?
「ここにでぱあとを建てるから、長屋の皆に出て行けっていう話さ。遅くとも、二月中に出て行けっていう無茶苦茶な話だよ」
立ち退き?
確かに、ここは人通りも多くてデパートを建てれば賑やかになるだろう。けど、そうなったら?
「俺たち、春から何処で住むの?」
「自分たちで探せ、ってさ。全く、勝手な話だよ」
怒った声音のおっかさんは、残りの蕎麦を食べ干して煙管を咥えた。しのが、お茶の用意をする為立ち上がる。
俺は、ぽかんとした顔で怒った顔の綺麗なおっかさんを見つめていた。
幸せだった誕生日から、途端難題が俺達に降りかかってきた。
「お帰りなさい」
石油ランプを手に夜道を帰って来たおっかさんと、隣の家に住むまつさん夫婦を俺としのは迎え入れた。長火鉢の部屋では、まつさんの子供の清と治郎が腹一杯になって寝ている。親たちが帰って来たのは思っていたより遅くて、もう壁掛け時計は十九時を少し過ぎていた。だが、俺は竈の火を消していなかったのでこの家の玄関と台所は明るかった筈だ。
今日は、六軒長屋の住人は大家に呼び出されたのだ。長屋の住人の仕事の時間を調節して、更に夜に働くおっかさんが休みの日の今日、十七時に決まった。夕飯時だったので、清と治郎は俺達が預かって用意した飯を食べさせた。今日は厚焼き玉子を焼いて、高野豆腐と椎茸の煮物を作った。それに、大根の味噌汁と麦飯と漬物。厚焼き玉子は少し甘めに焼いたので、清も治郎も喜んで食べてくれた。
「有難うね、ちび達は大人しくしてたかい?」
まつさんが気持ちよさそうに寝ている息子二人を眺めてから、申し訳なさそうにそう言ってくれた。俺は、高野豆腐と椎茸をくれたまつさんに「大丈夫! 二人ともたくさん食べて大人しくしていたよ」と、お礼を込めて丁寧に頭を下げた。それから竈に向かいながら「少し待って」とまつさん夫婦に声をかける。
「こんなに長い話し合いになるとは思わなかったよ、まったく」
おっかさんは機嫌が悪そうにそう呟くと、清たちが寝ている横にあるちゃぶ台を挟んだ正面に座って、さっそく煙管を取り出して口に咥えた。
「本当にねぇ。でもこればっかりは、あたし達の生活もかかってるし負けられないね」
まつさんがそう言うと、夫の松吉さんも頷いた。俺もしのもその話を聞きたかったが、今はそんな雰囲気じゃなさそうだ。仕方なく黙ったまま俺は大きめの椀に湯がいた蕎麦を入れて、その上に葱の青い部分と刻んだ薄揚げを乗せた。そうして、温めていた一番出汁に醤油などで味を調えた出汁を注いだ。昆布とカツオのいい出汁の香りと湯気が家に漂う。
「おっかさんとまつさん達の夕飯だよ――まつさん達は、ゆっくり家で食べる?」
葱や薄揚げを切ってくれていたしのが、大人たちにそう声をかけた。そこで、お腹が空いている事を思い出したのか松吉さんの腹が鳴った。松吉さんは、恥ずかしそうに頭を掻く。
「おやまあ、あたし達の分の夕飯まで用意しててくれたのかい? 有難うねぇ。そうだね、この子たちもちゃんと寝かせたいから、家で頂くよ」
寝ている清を松吉さんが、治郎をまつさんが抱える。おっかさんはすっと立ち上がると部屋を出て、石油ランプを手に二人の為夜道を案内してくれる。俺はお盆に乗せた椀と煮物の残りを、しのは塵取りに火のついた薪を乗せて、大人たちの後に続きながら零さないように慎重に運んだ。
「助かったよ。椀は、洗って明日返すな。寒いから蕎麦と煮物は、身体に有難い」
子供二人を布団に寝かせると、俺達が持って来た盆を受け取って松吉さんが小さく笑った。「有難うねぇ」と、奥でまつさんの声もした。しのは、火鉢に火のついた灰を乗せた。今から火を点ける作業をしなくてもいいから、寒々しい部屋がすぐ暖かくなるだろう。
「気にしないでおくれ。あたし達も、いつも世話になってんだから」
おっかさんがそう言って、「じゃあね」とまつさん達の家を出た。俺達は慌てて頭を下げて、おっかさんの後に続いた。
「家の事と、まつさんの子供の面倒見てくれて有難うよ。寒いし腹が立つし、辛いものでも食べたいね。恭介、唐辛子おくれ」
おっかさんは煙管を火鉢に置くと、自分の前にある湯気が上がる椀に目を落としてまだ不機嫌そうにそう言った。俺は、ほぼおっかさん専用になっている一味唐辛子が入った小さな瓢箪を取ると、おっかさんに渡した。
その瓢箪からかけられた唐辛子で真っ赤な椀になった蕎麦を、おっかさんは躊躇わずにずずっとすすった。しのは自分は食べていないのに、辛そうなものを食べた顔になっていたのがおかしい。
「ねぇ、おっかさん。何の話し合いだったの?」
我慢しきれなかったしのが、蕎麦を半分ほど食べたおっかさんに話しかけた。さっきまで清と治郎が寝ていた所に俺としのは座って、気になって仕方ないという顔でおっかさんを見た。
「でぱあと、だよ」
おっかさんの口から出たのは、意外な言葉だった。――デパート?
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立ち退き?
確かに、ここは人通りも多くてデパートを建てれば賑やかになるだろう。けど、そうなったら?
「俺たち、春から何処で住むの?」
「自分たちで探せ、ってさ。全く、勝手な話だよ」
怒った声音のおっかさんは、残りの蕎麦を食べ干して煙管を咥えた。しのが、お茶の用意をする為立ち上がる。
俺は、ぽかんとした顔で怒った顔の綺麗なおっかさんを見つめていた。
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