想ひ出のアヂサヰ亭

七海美桜

文字の大きさ
上 下
10 / 65
三膳目

華族の薬研家! 牛鍋をご一緒に・下

しおりを挟む
「よう来たなぁ。ま、座りなさい。お前たちも、さぁ」
 馬車に乗って連れて来られた店は、着古した着物姿の俺達兄妹が場違いな程現代的なロマン風な店だった。店にある時計は、十四時を指していた。この店に来ているのは、大半が洋装の男女ばかりだ。案内された個室にも、立派な髭を整えた洋装の男が座っていた。年の頃は、四十後半から五十前半に見えた。細身だが、しっかりとした体格の男だ。そよをにこにこと眺めて、俺らにもそう声をかけてくれた。
「お邪魔します――あんたたちも、行儀良く座りな。薬研様、今日は息子の為に有難うございます」
 先ほどの態度と違い、深々と頭を下げてからそよは男の向かいの椅子に腰を掛けた。俺としのもそれに倣ってから、そよの隣に座る。尊は、多分父である薬研と呼ばれた男の隣に座った。
「うちが悪い事で、しかも謝罪が遅うなったんや。すまなかったな、儂が名古屋に行ってる時に事故に遭ったみたいで。しかし、無事で安心した。すまんかったな、坊主」
 愛想が良いのは、商売人だからかもしれない。俺が頷くと、薬研は女中さんを呼んだ。
「エビスビールと、牛鍋を頼む――よひらも、飲むかい?」
「いえ、今日は子供もおりますので」
 よひらは、日本橋で芸者をしているそよの源氏名だ。花びらが四枚ある事から、紫陽花の事らしい。「かしこまりました」と、女中は奥に入って行った。俺はその後ろ姿を追いかけたくなった――当時の厨房を、見たかったからだ。しかし、ビール……しかも、もうエビスビールがあったのか。俺はビールの歴史には、詳しくなかった。

「薬研様、ビールは外国のものじゃないの?」
 俺は思わず、そう尋ねてしまった。そよが驚いた顔をしたのが、後で妙におかしかった。
「ん? 坊主は確か――恭介か。ビールを知ってるのか? 徳川将軍の時に阿蘭陀おらんだから仕入れていたんだが、明治になると我が国でも作り始めたんだよ。明治十年ごろに、開拓使麦酒醸造所がサッポロビールを作ってから色んな会社が作り始めたんだ」
 この頃から、もう札幌という地名が呼ばれていたのか。俺は興味深げに、うんうんと頷いた。サッポロビールに続いて明治二十一年にキリンビールが出来て、明治二十三年にはエビスが出来たそうだ。

「父さん、もうそれぐらいにしておきなよ」
「すまんすまん、恭介が真剣に聞くからつい話したくなってな。恭介は、ビールか商いに興味があるのか」
「いえ……その、料理が好きで……」
 確か昔は孟子の言葉から、『男子厨房に入らず』と言われていた気がする。俺は、声を小さくそう言った。
「恭介ならいい料理人になるよ、父さん。俺は、こいつが作ったコロッケを食べた。とても美味しかった」
「尊が食べたのか? そうか、料理人になりたいのか。いいな、良い夢だ。これからなら、コロッケの様な洋食を作るといい。いい息子をもったな、よひら」
 思ってもいない言葉を言われて、俺は少し驚いて薬研親子を見返した。確かに、料理人に男は多い筈だ、おかしな事ではないのかもしれない。

 俺がそう考えている間に、ビールが運ばれてそよが薬研に酌をしていた。そうして、良い匂いがして女中が揃って牛鍋を持って来た――じゅうじゅうという音に、辺りに漂う出汁と味噌と醤油の匂い。
 熱々の鉄鍋に牛脂を押し当てて溶かして油を塗った所に、葱と大きめに切った牛肉。割り下は、醤油が多めで味噌――多分赤味噌に砂糖。遠くにカツオ出汁を感じる。俺は運んできて下がろうとした女中を追いかけて、あとはみりんが入っている事を聞いた。
「ほらほら、作り方は何時でも聞いてあげるから食べなさい」
 熱心な俺に、薬研氏は笑って席に戻るように促した。クスクスと尊は笑ってる。そよとしのは俺の行動に、少し驚いているようだった。
 俺は「ごめんなさい」と言ってから、席に戻った。そうして、箸を手にする。熱々の鍋から漂う、空腹を刺激するいい香り。牛肉の匂いは、俺に少し現代を思い出させた。ふぅふぅと息を吹き、肉を口に入れる――肉の油が、美味い! 

 俺は、感激して咀嚼もほどほどに飲み込んでしまった。少し厚めの肉は、噛み応えがあり少し油も感じる。赤身と脂身あぶらみが良いバランスの部位だ。きっと薬研家の為に、良い所を使っているんだろう。味付けも、出汁を使っているのでしょっぱさを強く感じず肉に合ういい味付けだった。赤味噌が肉の臭みを消している。しかし俺なら少し酒で肉を揉んでから、使っていたかもしれない。俺の時代の肉より、肉を強く感じる強い味のものだからだ。葱も、僅かにシャキシャキ感が残っていてアクセントで美味しい。
「恭介、良かったら飯も食べないか?」
 必死に食べている俺に、尊がそう話しかけてきた。
「はい、食べたいです!」
 この強い味付けには、ご飯が合う。俺は条件反射で、そう返事をした。笑っている尊は女中さんに飯を頼んだ。出てきたのは、まさかの白米!
 俺は残っている肉と葱と汁をその飯の上に乗せて、即席の牛飯を作った。そして、ガツガツと腹に収める様に食べる。お昼が遅くなって、腹が減りすぎていた俺には我慢できなかったのだ。
「ははは、良い喰いっぷりだ。沢山食べなさい」
 薬研氏は笑い、赤くなっているそよが注いでくれたビールを一口飲んだ。


参考文献:日本ビアジャーナリスト協会 (www.jbja.jp/archives/33532)
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる

フルーツパフェ
大衆娯楽
 転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。  一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。  そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!  寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。 ――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです  そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。  大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。  相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。      

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

Husband's secret (夫の秘密)

設樂理沙
ライト文芸
果たして・・ 秘密などあったのだろうか! 夫のカノジョ / 垣谷 美雨 さま(著) を読んで  Another Storyを考えてみました。 むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ  10秒~30秒?  何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。 ❦ イラストはAI生成画像 自作

ロリっ子がおじさんに種付けされる話

オニオン太郎
大衆娯楽
なろうにも投稿した奴です

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

処理中です...