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七海美桜

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アリアドネのカタストロフィ

イデア・中

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 豪華な部屋だった。調度品も装飾も、有名な海外のものだ。先ほど頼んだルームサービスも、とても味わい深く美味かった。特に、血が感じられるようなレアのステーキは絶品だった。

 有名ホテルの、スイートルーム。そこで桐生蒼馬は、食後に思い立ってチェロを弾いていた。楽器は、ホテルに言うとすぐに用意してくれた。窓は閉めているが、大きなその窓には少し欠けた月が綺麗に映っていた。月明りを浴びながら、蒼馬は優雅に演奏している。
 曲名は、フォーレの「夢のあとに」だ。物悲しい旋律が、部屋に響いていた。静馬はその音を聞きながら、ナイフを研いでいる。過去もそうだった、と静馬は自分の幼い時を思い出していた。幼い静馬がナイフを操る横で、静馬はバイオリンかチェロを弾いていた。

「静馬――一条櫻子は、佐久間菫の魂……本来あるべき彼女の記憶を遺伝として残している。そう表現すると、佐久間菫という女性は君にとっても、どんなに大切であるか、分かるね?」
 演奏する手は止めずに、蒼馬は静馬に言った。静馬はナイフを手に振り返ると、自分の父であり兄であり、『殺しの師匠』の問いに頷いた。
「僕は、佐久間菫を知りません。ですが、菫と櫻子が同じ魂を持つのなら、櫻子は菫のイデアです。僕の運命」

 桐生親子の『佐久間菫』とは、彼らの求めるものの象徴的な概念になっていた。菫も櫻子も、人々が呼ぶ『悪』を纏うに相応しい。その『悪』に身を捧げる方が菫と櫻子はより美しく、醜いこの世に華が存在したという痕跡を残すのだ、と。彼女たちの殺人作品は、きっと桐生親子が感動するものになる筈だ。悪と善は裏表。誰かにとっての善なら、誰かにとっての悪。その呼び名を、誰が判断するのか。

「本当に、菫さんにはこちらに来て欲しかった――櫻子さんと、一緒にね。僕は、彼女たちの作品を見たい。ただそれだけなのに、どうして邪魔なものが次から次へと現れるんだろう。世界に、僕たちだけいればいいのに」
「獲物がいなければ、殺しは出来ませんよ――邪魔をするなら殺して、すべて排除して櫻子さんが保とうとしている『善の心』を折ればいい……その方が、櫻子さんの今まで封じていた感情をさらけ出した作品を作ってくれるでしょう。僕は、櫻子さんの為に産まれたんですから――絶対に、彼女を手に入れます」
 演奏を終えた蒼馬は、弓をベッドに丁寧に置いた。随分久しぶりに楽器を弾いたので、思うように指が動かず少し不愉快なのが心残りだった。

「それは、残る。残しておきたいのか?」
 蒼馬は、静馬の左の目の下の弾倉痕に視線を向けた。特に手当はせず、血を拭っただけだ。
「はい。これは、彼女が僕に初めて向けた『殺意』……大きな記念です。殺意を抱いた彼女は、とても美しかったです」
「そうか、それは残念だった。僕に対して見せる『殺意』と、同じか見比べたかったよ」

「……」

 その言葉に、静馬は僅かにナイフを研ぐ動きを止めた。しかし、すぐに規則正しくナイフを研ぎ始めた。


「次の舞台を用意するまで、僕たちは少し休んだ方がいいね。警察内部もゴタゴタしているし、手を出しても相手にしてくれそうにない。それに、今の君は動きにくいし僕も『外』の感覚がまだ正常に戻っていない」
 蒼馬はそう言うと、軽い足取りでシャワールームに向かう。

「女の子は――」

 その背に、静馬は顔を上げずに言葉をかけた。蒼馬の足取りが止まった。
「繭が産んだ女の子は――生きているんですか?」
 何故か、櫻子の駒という女を思い出して、静馬はずっと聞けなかった言葉を蒼馬に向けた。自分と腹違いの兄妹――一度も彼女の話は聞いた事が無く、調べても分からなかった。自分と時期が違うが、誰かに攫われて行方不明のままの妹……まさか、と思っていた。

「あの子は死んだよ」

 蒼馬はそう言って、バスルームへと姿を消した。静馬はぐっとナイフの柄を持ち、瞳を伏せた。



「――櫻子さん、僕は……」


 静馬の小さな声は、そこで月夜の闇に消えた。
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