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七海美桜

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アリアドネのカタストロフィ

告白・下

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「どうしてここに!?」
 櫻子の祖父の事を、篠原に教えた事はない。まして、静馬がその祖父の命を狙っているとは、篠原に分からないはずだ。

「スマホにメールが来たんです、位置情報付きで今すぐここに来いって! 開けて下さい、くそ、なんで開かないんだ……? 一条課長……笹部さん!」
「笹部はもうこの世に居ませんよ、篠原さん……」
 静馬は櫻子に伸ばしていた手を自分のズボンのポケットに入れて、表示された画面を押したらしい。すると、ガチャリと音が鳴りドアが開いて篠原が前のめりに屋上に入って来た。それに続くように、池田と香田も屋上に入って来た。静馬は、再びスマホをズボンのポケットに直した。
「本当にあなたは、変わらないんですね。僕は、桐生の息子であり兄弟の静馬……あなたの両親を殺した男ですよ。どうして、僕に殺意を抱いていないんですか?」
 静馬は、どこか懐かしげな瞳で篠原を見た。篠原も何かを感じたようで、姿勢を正すと彼と櫻子の間に入り真っ直ぐに静馬を見返した。

「前に、サイコパスの話をしましたよね? その時の事を思い出して――俺、ささ……静馬さんが、今までの犯人たちと同じで『桐生に作られた殺人者』なんじゃないかって思ったんです。本当なら桐生があなたに接触しなかったら、静馬さんは普通に生活していた筈だって。あなたは、サイコパスじゃない……だって、俺の両親を苦しませずに殺した! それは、俺の親があなたに優しくしたのを覚えていたから! 全部が、桐生のせいだって思うんです!」

 今にして思えば、静馬が普通に家庭では常識的な事を知らなかったのは、それを教える人がいなかったからだろう。家族で食卓を囲む事もなく――そんな笹部に『母親』らしく接して可愛がったのは、篠原の母親のやよいが初めてだったのかもしれない。だから、竜崎の家族の様な遺体を『飾る』行為が出来なかった、と篠原は思っている。

 確かに、彼のせいで自分の両親は死んだ。その事について、篠原は許せないと思っている。だが、桐生によって殺人者になるように育てられて、指示されて篠原の親を殺害した。それについては、篠原は静馬を『可哀想』だと思っていた。

「……ははっ……」
 静馬は、乾いた笑いを零した。篠原が自分静馬を哀れんでいると分かったからだろう。この半年同じように櫻子の下で働いていた二人。同じ人間の筈なのに、どこで『善と悪』にたがってしまったのか――それは……

『静馬、そこにいる全ての者を殺して櫻子さんを連れて来るんだ』

 ポケットの中の静馬のスマホから、不意に桐生の声がした。全員が、一瞬動きを止めた。
『篠原君だけならまだいいが、桜海會の蠅まで櫻子さんに近づきすぎている――邪魔だよ、とても不愉快だ。だが、櫻子さんが信頼している彼らを消せば、櫻子さんの心は折れて僕たちの許に来やすくなる……僕たちの傍にいる方が、心地よいと思えるようになる』
 桐生の声は、僅かに笑っているようにさえ感じた。

「どんなに苦しめようとしても、櫻子は俺の女や。俺が護るから、絶対にお前には渡さん。殺されるんは、お前の方や――だから安心して、あの世に逝けや!」
 香田がそう声高に言うと、前にいる篠原を後ろに下がらせて前に出た。

『静馬、殺しなさい。不愉快なその男を』
 静馬は手にしていた紅茶のカップを、香田に向けて投げつけた。蓋が外れて、中にまだたくさん残っていた紅茶の飛沫しぶきが香田の視界を鈍らせる。そして、ズボンの尻側から第二次世界大戦中に米軍が使用していた先端両刃の、ランドールMファイティングというコンバットナイフを取り出した。

 しかし、静馬がその動きをしていた時。櫻子も同じく香田の後ろで動いてた。

 香田の背後から出ると、同じく口にしていなかった珈琲カップを静馬に向けて投げつけた。そうして、いつも身に着けているカバンに手を入れて何かを取り出すと、それを左手に持ち静馬に向けた。

 セルフティを親指で解除して細い指で引き金を引くと、重い金属音が辺りに響き弾丸が静馬の左目の下をかすめて、暑い空気を鋭く切り裂いた。

「その銃は……まさか、あの女が櫻子さんの秘密の駒……!」
 櫻子が握り締めているのは、S&WシリーズのM&P9のシールド。静馬が一人で特別心理犯罪課にいた時に、早業で忍び込んで静馬のパソコンをハッキングした女。その女が、静馬に向けていた銃と同じだ。
 左目の下を銃弾が皮膚を裂き流れた血を拭いもせず、静馬はナイフを握ったまま唖然と櫻子を見ていた。

「ここ三年程、全国警察拳銃射撃競技大会で優勝しているのは私よ――今度こそ、外さないわ」
 静馬が警察の内情を調べている時に、どうしても分からなかった事がある。それが、今櫻子が言った全国警察拳銃射撃競技大会の優勝者だ。『優勝者は匿名』としか発表されていなかった。

「私も、両利きなの――特に、左手の射撃には自信があるわ」

 その言葉に、篠原は櫻子と初めて会った時の違和感を思い出した。わざわざ左手に荷物を持ち直して、左利きの篠原に右手を差し出した櫻子。その違和感。きっと、左手は銃を持ち続けて、掌が固くなっている。それを知らせないために、右利きを装っていたのだ。

「この人数と銃があるなら、分が悪い――ここは引きます。さようなら」
 困った様な笑みを浮かべた笹部は、屋上の端の柵に走るとそこから飛び降りた。
「あ!」
 篠原は驚いたような声を上げるが、どうやら細いロープを柵に最初から仕込んでいたようだ。それを伝い、夕焼けに向かい走っていくその姿がすぐに消えた。

「若、大丈夫ですか?」
 紅茶を浴びせられた香田に、池田がハンカチで慌ててその雫を拭いていた。だが、紅茶の為クリーニングに出さなければ、色は落ちそうにないだろう。
「一条課長……ゆっくり、指を離してください……」
 篠原にそう言われるまで、櫻子はまだ銃を握り締めていた。そして我に返ると、セイフティを戻してカバンにしまった。

「今回も、約束は守れんかったみたいやな」
 香田が、櫻子の散らばったカバンの中を見て呟いた。そこには、押し花の桜のしおり。


「いいえ……殺されたわ。『笹部亮樹』が完全に……それより、紹介したい人がいるの」
 櫻子は小さく呟くと、全員を見渡した。
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