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アリアドネのカタストロフィ
告白・上
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電車に揺られる櫻子のスマホが、小さく鳴った。電車の中だったので、櫻子は相手を確認すると受信拒否を押してメールを送った。
病院から出た櫻子は、しばらく近くのファストフード店でアイス珈琲を頼んでぼんやりと時間を過ごしていた。そして十五時を過ぎた頃、いつも使っているスマホで桐生の実家があった位置を調べた。豊中で、今はビルが建っているらしい。
『今は電車の中です。何かありました?』
『一人やったら危険やろ。どこに行く気や?』
香田からだった。病院にいる時も、桜海會の組員らしき姿が自分の背後に居るのが分かっていた。その尾行を、櫻子は撒いたのだ。
櫻子は電車に揺られながら、返事の内容に困った様に首を僅かに傾げた。それから、迷いながらスマホに指を走らせた。
『大丈夫。私は、一人でも負けない』
そう返すと、櫻子はスマホの電源を落としてカバンに直した。向かうのは、櫻子の祖父が入所している施設がある池田市だ。安藤百福という後に日本に帰化した台湾人が作った『チキンラーメン』発祥の地という事で、最近は外国人観光客が多い。阪急宝塚線で急行も止まる駅なのだが、櫻子はゆっくり向かう為に普通に乗っていた。
カバンの中には、朝マンションを出る時に「お届け物です」と女性コンセルジュの牧から受け取った箱に入っていた、桜の押し花のしおりが一枚――この意味を、櫻子は理解していた。
池田駅を降りると、改札口の少し離れた所にあるコーヒーショップに入り、珈琲と紅茶をそれぞれ一個買った。そうして、祖父の施設へと向かった。夏の暑い陽が傾き始める時間。そろそろ色付き始める空を見上げて、櫻子は大きく息を吐いた。
「あら、ご面会の方ですか?」
施設の中に入ると、受付にいた若い女性がにこやかに声をかけてきた。その脇にいた、もう一人の女性がパソコンから顔を上げた。ダークシルバーの髪はピンクやパープルのメッシュが入っており、後頭部で無造作に一つに括られている。長めの前髪は、ピンで留められていた。まだ年若く見えるのに、何故か随分大人びた雰囲気だ。
「十号室の、佐久間馨さんのお孫さんですね? 今、馨さんはお昼寝されていますよ?」
低めの、ハスキーボイスだ。彼女も、にこやかに櫻子に笑いかけた。
「そうですか。では、屋上で休ませて貰っても構いませんか?」
「暑いので、応接室でも……」
「構いませんよ、どうぞごゆっくりしてください。起きられたら、お呼びしますね」
受付の女性の提案を遮るように、ハスキーボイスの女性が承諾して「エレベーターはあちらです」と、奥を指差した。
「有難う」
櫻子は軽くお辞儀をして、エレベーターに向かった。珈琲と紅茶が入った紙袋が、ガサガサと小さく鳴った。
自由に外を散歩できない利用者の為に、ここの屋上は広く木々や花で溢れていてストレスを軽減している。もう夏の盛りになるこの時期は、あまり出る人はおらず冷房の効いた室内から眺める事が多いようだ。しかし今は夕食まであと少しの時間だ。屋上の前も中も、誰も居ない。
利用者が事故に遭わないように、屋上とは名ばかりでこの広場は三階にある。建物自体は、五階建てだ。
櫻子は、屋上に入る為ドアのノブを回して屋上に足を踏み入れた。そうしてそのドアを閉めると、何故かガチャリと自動的に鍵がかかる。しかし、櫻子は驚いた風でもなく足を進めた。
「こんばんは――お久しぶりです」
屋上の中央辺りに来た時、ベンチに座っていた男が立ち上がり櫻子に体を向けた。夏の夕日の逆光に照らされているのは、もう懐かしい――だが、新しい男の姿だった。
猫背気味だった背中は自信にあふれたように伸ばされ、鬱陶しいほど伸ばされた前髪は左側をかき上げる様に撫で上げていた。
黒いサマーニットを着た、細くとも筋肉がしっかりついた若い――あの水槽の檻にいる男にどこか似た男。
「あなたの本当の名前は――何?」
櫻子は、静かに尋ねた。もうこの世にはいない男を、何処か懐かしむように。
「静馬――桐生静馬です。桐生蒼馬の息子で、あなたのHomme fatal。貴女を『光』側に留まらせているお爺さんを安らかに眠らせて、僕と桐生の方へ来てくれますよね?」
笹部だった皮を脱ぎ捨てた男は、美しい顔で満面の笑みを浮かべて櫻子に腕を伸ばした。
病院から出た櫻子は、しばらく近くのファストフード店でアイス珈琲を頼んでぼんやりと時間を過ごしていた。そして十五時を過ぎた頃、いつも使っているスマホで桐生の実家があった位置を調べた。豊中で、今はビルが建っているらしい。
『今は電車の中です。何かありました?』
『一人やったら危険やろ。どこに行く気や?』
香田からだった。病院にいる時も、桜海會の組員らしき姿が自分の背後に居るのが分かっていた。その尾行を、櫻子は撒いたのだ。
櫻子は電車に揺られながら、返事の内容に困った様に首を僅かに傾げた。それから、迷いながらスマホに指を走らせた。
『大丈夫。私は、一人でも負けない』
そう返すと、櫻子はスマホの電源を落としてカバンに直した。向かうのは、櫻子の祖父が入所している施設がある池田市だ。安藤百福という後に日本に帰化した台湾人が作った『チキンラーメン』発祥の地という事で、最近は外国人観光客が多い。阪急宝塚線で急行も止まる駅なのだが、櫻子はゆっくり向かう為に普通に乗っていた。
カバンの中には、朝マンションを出る時に「お届け物です」と女性コンセルジュの牧から受け取った箱に入っていた、桜の押し花のしおりが一枚――この意味を、櫻子は理解していた。
池田駅を降りると、改札口の少し離れた所にあるコーヒーショップに入り、珈琲と紅茶をそれぞれ一個買った。そうして、祖父の施設へと向かった。夏の暑い陽が傾き始める時間。そろそろ色付き始める空を見上げて、櫻子は大きく息を吐いた。
「あら、ご面会の方ですか?」
施設の中に入ると、受付にいた若い女性がにこやかに声をかけてきた。その脇にいた、もう一人の女性がパソコンから顔を上げた。ダークシルバーの髪はピンクやパープルのメッシュが入っており、後頭部で無造作に一つに括られている。長めの前髪は、ピンで留められていた。まだ年若く見えるのに、何故か随分大人びた雰囲気だ。
「十号室の、佐久間馨さんのお孫さんですね? 今、馨さんはお昼寝されていますよ?」
低めの、ハスキーボイスだ。彼女も、にこやかに櫻子に笑いかけた。
「そうですか。では、屋上で休ませて貰っても構いませんか?」
「暑いので、応接室でも……」
「構いませんよ、どうぞごゆっくりしてください。起きられたら、お呼びしますね」
受付の女性の提案を遮るように、ハスキーボイスの女性が承諾して「エレベーターはあちらです」と、奥を指差した。
「有難う」
櫻子は軽くお辞儀をして、エレベーターに向かった。珈琲と紅茶が入った紙袋が、ガサガサと小さく鳴った。
自由に外を散歩できない利用者の為に、ここの屋上は広く木々や花で溢れていてストレスを軽減している。もう夏の盛りになるこの時期は、あまり出る人はおらず冷房の効いた室内から眺める事が多いようだ。しかし今は夕食まであと少しの時間だ。屋上の前も中も、誰も居ない。
利用者が事故に遭わないように、屋上とは名ばかりでこの広場は三階にある。建物自体は、五階建てだ。
櫻子は、屋上に入る為ドアのノブを回して屋上に足を踏み入れた。そうしてそのドアを閉めると、何故かガチャリと自動的に鍵がかかる。しかし、櫻子は驚いた風でもなく足を進めた。
「こんばんは――お久しぶりです」
屋上の中央辺りに来た時、ベンチに座っていた男が立ち上がり櫻子に体を向けた。夏の夕日の逆光に照らされているのは、もう懐かしい――だが、新しい男の姿だった。
猫背気味だった背中は自信にあふれたように伸ばされ、鬱陶しいほど伸ばされた前髪は左側をかき上げる様に撫で上げていた。
黒いサマーニットを着た、細くとも筋肉がしっかりついた若い――あの水槽の檻にいる男にどこか似た男。
「あなたの本当の名前は――何?」
櫻子は、静かに尋ねた。もうこの世にはいない男を、何処か懐かしむように。
「静馬――桐生静馬です。桐生蒼馬の息子で、あなたのHomme fatal。貴女を『光』側に留まらせているお爺さんを安らかに眠らせて、僕と桐生の方へ来てくれますよね?」
笹部だった皮を脱ぎ捨てた男は、美しい顔で満面の笑みを浮かべて櫻子に腕を伸ばした。
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