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アリアドネのカタストロフィ
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七月二十九日の水曜日、朝十一時前。
「残念やけど、あれはもうスクラップやわ。一番大事な基盤がやられとる――修復は、不可能」
電話口の女は、ハスキーボイスでそう言った。それを聞いた櫻子は、頭を抱えて大きなため息を零した。
「そう、残念だわ」
「特別心理犯罪課は、何時から再開なん?」
「篠原君の精神鑑定とメンタルケアが終わってからよ。幸い、桐生は動きがない。だから――篠原君が戻るまでに、私が『三人目』」を始末するわ」
櫻子の言葉に、今度は電話口の女が深いため息をついた。
「あんたの本丸は、桐生や。雑魚に手を煩わせたらあかん――こっちに帰ってきて、うちはまだ会えてないねんで?櫻子ねぇが、許してくれへんから」
「大丈夫よ、そっちの仕事を任せる人は、もう探してるから」
そう櫻子が言うと、後ろで櫻子を呼ぶ声が聞こえた。
「ごめんさない、もう行かないと」
「分かった、用心してや」
電話を終えるとスマホを直して、櫻子は声の方に向かった。流星こと、司悠聖の退院の日だった。
入院していても、何時治るか分からない。それなら、自宅療養をさせたい――家族がそう願った。何より本人が、祖父に会いたがっていた。不思議な事に、精神年齢は五歳ほどに戻っているが、少し年を取った両親や弟が成人していても人物を理解していた。勿論、櫻子の事も。
「やはり、車にしたんですね」
弟の春実が一度家に戻り、自家用車で戻って来ていた。悠聖の必要そうなもの以外は処分して、他の荷物は少なかったので実家に先に送ったそうだ。
「ええ、人が多いとパニックになるかもしれませんし、人の目もあり不憫な思いをさせるかもしれないので…悠聖の勤めてたお店のオーナーさんが、退職金と見舞いって少し多めのお金を下さったので、ゆっくり療養させます」
父親はそう言うと、櫻子に深々と頭を下げた。春実も、それに倣って頭を下げた。その時、病院の玄関口から母親に連れられた悠聖が姿を見せた。
「あ、さくらこちゃん!」
櫻子を見つけた悠聖は、母親の手を解くと櫻子に駆け寄り彼女に抱き着いた。嬉しそうに、満面の笑みだ。
「悠聖くん、今日は元気なのね」
櫻子が抱き返すと、彼は大きく頷いた。
「うん!だって、家に帰れるんだよ、じいちゃんが待ってるって!」
「そう、良かったわね…早く、おじいちゃんに会わないと…」
「さくらこちゃんは?さくらこちゃんも行くんだよね?」
悠聖は、不安そうに櫻子に尋ねた。櫻子は思わず泣きそうになる自分を収める為一度深呼吸して、安心させるように息を整えた。
「私はね、一緒に行けないの。お母さんのお仕事のお手伝いをしないといけないから――でも、また会えるから…きっと、会えるから…」
「そうなんだ…すごくさみしい…」
さっきまで元気だった悠聖の瞳から、涙が零れた。櫻子はハンカチを出すと、その涙を拭ってやる。
「お兄ちゃん、また会えるよ。だから、先に家に帰ろう?」
春実が気を利かせて、そう悠聖に話しかけた。悠聖はまだぐずっていたが、仕方なく頷くと小指を出した。
「ゆびきりしよ」
「――ええ、ゆびきりね」
櫻子は、細い小指を悠聖の小指に絡めて、懐かしい「ゆびきりげんまん」を一緒に歌った――きっと、果たされる約束ではないのに。
「ハンカチ、あげるから持って行って」
櫻子は、端に桜の刺繡が入ったハンカチをそのまま悠聖に握らせて身を引いた。すると母親がそっと悠聖の体を支えて、一緒に車の後部座席に乗り込んだ。父親は、助手席に座る。
「一条さん、本当にお世話になりました――これ、掃除してる時見つけたんです。どうしようか迷いましたが、お渡しします。兄ちゃんの、最後のプレゼントなんで」
春実は手にしていた小さな紙袋を、櫻子に差し出した。櫻子は少し戸惑ったが、「有難う」とそれを受け取る。
「先生から聞いたような症状が出たら、必ず病院に行きます。本当に、お世話になりました」
人間の血肉を食べさせられたので、クール―病の心配があるからだろう。もし発症しても、潜伏期間があるので今は分からない。その症状は、医師からしっかり教えられたようだ。ほっとして櫻子は頷いた。
「では――お元気で」
春実が運転席に座り、エンジンをかけた。大阪から兵庫県の宍粟市まで、車なら九十分ほどだ。
「さくらこちゃん、またね――絶対に、またね!」
窓を開けた悠聖が、走り出した車の中から必死にそう言って手を振った。櫻子も、大きく手を振った。その車が、見えなくなるまで。
しばらくぼんやりと立ち尽くしていたが、櫻子は手にしていた紙袋を思い出した。開けてみると、カードと小さなアクセサリーボックスが入っていた。
まさか――そう思いながら、震える指先でカードを開いた。
櫻子さんへ。愛しています、結婚してください――司悠聖
アクセサリーボックスには、『杢目金屋』というブランドの桜の花がモチーフの婚約指輪と思しきピンクゴールドのリングが入っていた。
アクセサリーの説明を読むと、『紅桜』と呼ばれるシリーズで、中央のダイヤモンドに桜の花が描かれている。そしてその脇石には、櫻子の誕生石のムーンストーンが添えられていた。
櫻子の為を想い、櫻子の為の桜の花の指輪――
「悠聖さん、少し大きいわよ――本当に、少しドジなんだから…」
指輪を左の薬指にはめたが、少し大きかった。涙を浮かべながら櫻子は小さく笑うと、中指にはめ直してみた。中指に、丁度いいくらいのサイズだ。
きっと叶う事はないけれど――もしかしたら、悠聖と一緒になり家庭を持っていた可能性の未来の名残。その指輪を右手で抱き締めるように包むと、櫻子は顔を上げた。
もう、涙はなかった。桐生と対峙する決意を、櫻子はこの指輪に改めて誓った。
「残念やけど、あれはもうスクラップやわ。一番大事な基盤がやられとる――修復は、不可能」
電話口の女は、ハスキーボイスでそう言った。それを聞いた櫻子は、頭を抱えて大きなため息を零した。
「そう、残念だわ」
「特別心理犯罪課は、何時から再開なん?」
「篠原君の精神鑑定とメンタルケアが終わってからよ。幸い、桐生は動きがない。だから――篠原君が戻るまでに、私が『三人目』」を始末するわ」
櫻子の言葉に、今度は電話口の女が深いため息をついた。
「あんたの本丸は、桐生や。雑魚に手を煩わせたらあかん――こっちに帰ってきて、うちはまだ会えてないねんで?櫻子ねぇが、許してくれへんから」
「大丈夫よ、そっちの仕事を任せる人は、もう探してるから」
そう櫻子が言うと、後ろで櫻子を呼ぶ声が聞こえた。
「ごめんさない、もう行かないと」
「分かった、用心してや」
電話を終えるとスマホを直して、櫻子は声の方に向かった。流星こと、司悠聖の退院の日だった。
入院していても、何時治るか分からない。それなら、自宅療養をさせたい――家族がそう願った。何より本人が、祖父に会いたがっていた。不思議な事に、精神年齢は五歳ほどに戻っているが、少し年を取った両親や弟が成人していても人物を理解していた。勿論、櫻子の事も。
「やはり、車にしたんですね」
弟の春実が一度家に戻り、自家用車で戻って来ていた。悠聖の必要そうなもの以外は処分して、他の荷物は少なかったので実家に先に送ったそうだ。
「ええ、人が多いとパニックになるかもしれませんし、人の目もあり不憫な思いをさせるかもしれないので…悠聖の勤めてたお店のオーナーさんが、退職金と見舞いって少し多めのお金を下さったので、ゆっくり療養させます」
父親はそう言うと、櫻子に深々と頭を下げた。春実も、それに倣って頭を下げた。その時、病院の玄関口から母親に連れられた悠聖が姿を見せた。
「あ、さくらこちゃん!」
櫻子を見つけた悠聖は、母親の手を解くと櫻子に駆け寄り彼女に抱き着いた。嬉しそうに、満面の笑みだ。
「悠聖くん、今日は元気なのね」
櫻子が抱き返すと、彼は大きく頷いた。
「うん!だって、家に帰れるんだよ、じいちゃんが待ってるって!」
「そう、良かったわね…早く、おじいちゃんに会わないと…」
「さくらこちゃんは?さくらこちゃんも行くんだよね?」
悠聖は、不安そうに櫻子に尋ねた。櫻子は思わず泣きそうになる自分を収める為一度深呼吸して、安心させるように息を整えた。
「私はね、一緒に行けないの。お母さんのお仕事のお手伝いをしないといけないから――でも、また会えるから…きっと、会えるから…」
「そうなんだ…すごくさみしい…」
さっきまで元気だった悠聖の瞳から、涙が零れた。櫻子はハンカチを出すと、その涙を拭ってやる。
「お兄ちゃん、また会えるよ。だから、先に家に帰ろう?」
春実が気を利かせて、そう悠聖に話しかけた。悠聖はまだぐずっていたが、仕方なく頷くと小指を出した。
「ゆびきりしよ」
「――ええ、ゆびきりね」
櫻子は、細い小指を悠聖の小指に絡めて、懐かしい「ゆびきりげんまん」を一緒に歌った――きっと、果たされる約束ではないのに。
「ハンカチ、あげるから持って行って」
櫻子は、端に桜の刺繡が入ったハンカチをそのまま悠聖に握らせて身を引いた。すると母親がそっと悠聖の体を支えて、一緒に車の後部座席に乗り込んだ。父親は、助手席に座る。
「一条さん、本当にお世話になりました――これ、掃除してる時見つけたんです。どうしようか迷いましたが、お渡しします。兄ちゃんの、最後のプレゼントなんで」
春実は手にしていた小さな紙袋を、櫻子に差し出した。櫻子は少し戸惑ったが、「有難う」とそれを受け取る。
「先生から聞いたような症状が出たら、必ず病院に行きます。本当に、お世話になりました」
人間の血肉を食べさせられたので、クール―病の心配があるからだろう。もし発症しても、潜伏期間があるので今は分からない。その症状は、医師からしっかり教えられたようだ。ほっとして櫻子は頷いた。
「では――お元気で」
春実が運転席に座り、エンジンをかけた。大阪から兵庫県の宍粟市まで、車なら九十分ほどだ。
「さくらこちゃん、またね――絶対に、またね!」
窓を開けた悠聖が、走り出した車の中から必死にそう言って手を振った。櫻子も、大きく手を振った。その車が、見えなくなるまで。
しばらくぼんやりと立ち尽くしていたが、櫻子は手にしていた紙袋を思い出した。開けてみると、カードと小さなアクセサリーボックスが入っていた。
まさか――そう思いながら、震える指先でカードを開いた。
櫻子さんへ。愛しています、結婚してください――司悠聖
アクセサリーボックスには、『杢目金屋』というブランドの桜の花がモチーフの婚約指輪と思しきピンクゴールドのリングが入っていた。
アクセサリーの説明を読むと、『紅桜』と呼ばれるシリーズで、中央のダイヤモンドに桜の花が描かれている。そしてその脇石には、櫻子の誕生石のムーンストーンが添えられていた。
櫻子の為を想い、櫻子の為の桜の花の指輪――
「悠聖さん、少し大きいわよ――本当に、少しドジなんだから…」
指輪を左の薬指にはめたが、少し大きかった。涙を浮かべながら櫻子は小さく笑うと、中指にはめ直してみた。中指に、丁度いいくらいのサイズだ。
きっと叶う事はないけれど――もしかしたら、悠聖と一緒になり家庭を持っていた可能性の未来の名残。その指輪を右手で抱き締めるように包むと、櫻子は顔を上げた。
もう、涙はなかった。桐生と対峙する決意を、櫻子はこの指輪に改めて誓った。
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