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アリアドネのカタストロフィ
衝撃・下
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その日、宮城から家族の事情聴取と現場である実家の捜索をしている、との報告を受けた。家族は恨まれる心当たりがなく、やはりこれは宮城に関係した事件であると思われた。それを裏付けたのは、洗濯の時に使用していた井戸と冷蔵庫の中の麦茶と牛乳から、シアン化合物が発見されたからだ。
「こっちでホテルを借りて、家族の警護ともう少し調べてから戻るか判断します。まだ、他に出ないか調べきれていないので……」
「そうね――大丈夫という確証がないから、それが良いと思うわ。そちらの科捜研にも協力をお願いしてるし、何なら鑑識も使っていいと思うわ。とにかく、全部調べて出たシアン化合物の遺伝子が同じかを、確かめたいわ」
「分かりました、有難うございます。警視の方も、十分気を付けて下さいね」
宮城からの電話を終えると、櫻子はスマホをデスクに置いて深くため息を零した。
「笹部君、もう17時を過ぎているから帰っていいわよ。帰れる時に帰って、休んで。向こうに何かあったら、呼び出すから」
「分かりました」
笹部はパソコンの電源を落とすと、ゆっくりデスクから立ち上がった。
「では、ボス。お先に失礼しますね」
静かに部屋を出ていく笹部を見送り、櫻子は自分も帰り支度を始める。そうして、ブランドバックの中にあるスポーツタオルをそっと撫でた。それは何かを包んでいるようで、丸められている。
曽根崎警察を出た櫻子は、真っ直ぐ自分のマンションに戻った。そのマンションの前に――見慣れた姿を見つけて足を止めた。
「お疲れさんです、姐さん」
「よう、お疲れ」
「――香田さん……池田君……」
桜海會若頭の香田と舎弟頭の池田が、櫻子を待っていたようにその場にいた。手には、池田に不似合いな風呂敷があった。以前の櫻子なら、食事は一緒にしても彼ら反社会者を自分のマンションに入れる事はなかっただろう。しかし共通の仇を持つ、信じられる数少ない『理解者』だ。櫻子は会釈する様に頷き、マンションの中に入った。香田と池田も、その後に続く。もうここから冷房が効いていて、夕方の暑さがすっと消える。
「お帰りなさいませ、一条様。今日は、荷物が届いています」
エントランスで、コンセルジュの須藤が小さな箱を手に彼女を迎えた。よく見る配達業者のラベルで、送り元が『同上』となっていた。櫻子は、自分でこんな荷物を送った覚えはない。それを承知で、「有難う」と受け取った。
「私の家、何もないわよ? 何か、食べるもの配達してもらう?」
30階までのエレベーターの中で、櫻子は二人にそう声をかけた。その言葉が来るのが分かっていたのか、池田がにっと笑って手にしていた風呂敷包みを掲げた。
「若のお母さんが、働き過ぎの姐さんの為に栄養のあるもん作ってくれたんですよ。緊急呼び出しの為に、ノンアルも用意してますって!」
「働きすぎやで、櫻子さん。宮城のおっさんみたいな、仕事虫はあかん。何事も、適度にせなあかんって。今の櫻子さんは、仕事のやりすぎや」
やりすぎ……?
香田の言葉が、ふと気になった。確か、何時か誰かが言っていた。「やりすぎた」と。その時は気にせず聞き流したが、どうしても何故か今、気になった。
なにを、やり過ぎた?
考え込む櫻子に続き、30階の3016号室の櫻子の部屋に入る。部屋の中は、綺麗というよりも汚す程の物が少ない。春に引っ越してきたのに、まだ開けられていない段ボールが部屋の隅に置かれていた。櫻子はまず先に、エアコンを付けた。
北欧風のベッドと、ドレッサー。服は、部屋に備え付けのクローゼットを使っている。夏用ラグの上に、低いテーブル。二人掛けのソファ。キッチンも物が少なく、なんとかグラスと割りばし、氷を櫻子は用意した。
「姐さん、ホント家事はしないんですね。テレビもないし」
使われた形跡がないIHコンロの綺麗さに、池田が笑った。そうしてソファには座らず、ラグの上にクッションを広げて、三人はテーブルを囲んだ。
「福光屋の、『零の雫』……お洒落ね。アルコール0%の日本酒は、初めてだわ」
池田が出したのは、透明の瓶に白いラベル、黒のロゴの綺麗なシックなデザインの日本酒だった。
「向こうでは、ワインばっかりか?」
「ええ。ワインばかりよ」
同じようなことを、前にも聞かれたことがあったような気がした。その時は愛想程度だったが、今は櫻子の事を知ろうと聞いているように感じる。
乾杯をしてから、池田は香田の母が作ったという弁当を広げた。
和風な、酒の肴にもなるものが重箱にあふれていた。確かに、野菜ジュースやサプリでおぎなっていた栄養素も多く、料理をしない櫻子には有り難い。煮物やサラダ、今の季節美味しい酢の物も並ぶそれは、本当に『母の手作り』を感じられた。
育ててくれた叔母は洋食が得意でその料理が多く、反対に和食が好きだった菫の事を思い出す。小さな頃、櫻子は母の漬けたぬか漬けのキュウリが大好きだった。
「そう言えば、さっきの荷物は何や?」
自分の部屋の様に寛いだ香田は、櫻子がソファの上に置きっぱなしの紙袋にチラリと視線を向けた。彼が口にするまで、櫻子はその紙袋の存在をすっかり忘れていた。
感覚が、麻痺しているのかもしれない。櫻子は慌てて袋を開けた。
中には、桜の押し花のしおりが三枚。それと、紙切れが一枚。
「『龍も義理は嫌うの』――何ですか、これ?」
櫻子はしおりに驚き、手の力が僅かに緩んだ。そうしてその紙切れがエアコンの風でふわりと舞って、池田の足元に落ちた。拾い上げた紙に書かれている文面を読み上げて、池田は不思議そうに櫻子に尋ねた。
「犯人からの、アナグラムよ……でも、三枚……宮城さんの家は、両親と兄夫婦と三人息子……数が合わない……」
櫻子の声は、僅かに震えていた。
これは、桜のしおり。桐生からのアナグラムではなく、彼を崇拝している『三人目』からのものに間違いなかった。
「こっちでホテルを借りて、家族の警護ともう少し調べてから戻るか判断します。まだ、他に出ないか調べきれていないので……」
「そうね――大丈夫という確証がないから、それが良いと思うわ。そちらの科捜研にも協力をお願いしてるし、何なら鑑識も使っていいと思うわ。とにかく、全部調べて出たシアン化合物の遺伝子が同じかを、確かめたいわ」
「分かりました、有難うございます。警視の方も、十分気を付けて下さいね」
宮城からの電話を終えると、櫻子はスマホをデスクに置いて深くため息を零した。
「笹部君、もう17時を過ぎているから帰っていいわよ。帰れる時に帰って、休んで。向こうに何かあったら、呼び出すから」
「分かりました」
笹部はパソコンの電源を落とすと、ゆっくりデスクから立ち上がった。
「では、ボス。お先に失礼しますね」
静かに部屋を出ていく笹部を見送り、櫻子は自分も帰り支度を始める。そうして、ブランドバックの中にあるスポーツタオルをそっと撫でた。それは何かを包んでいるようで、丸められている。
曽根崎警察を出た櫻子は、真っ直ぐ自分のマンションに戻った。そのマンションの前に――見慣れた姿を見つけて足を止めた。
「お疲れさんです、姐さん」
「よう、お疲れ」
「――香田さん……池田君……」
桜海會若頭の香田と舎弟頭の池田が、櫻子を待っていたようにその場にいた。手には、池田に不似合いな風呂敷があった。以前の櫻子なら、食事は一緒にしても彼ら反社会者を自分のマンションに入れる事はなかっただろう。しかし共通の仇を持つ、信じられる数少ない『理解者』だ。櫻子は会釈する様に頷き、マンションの中に入った。香田と池田も、その後に続く。もうここから冷房が効いていて、夕方の暑さがすっと消える。
「お帰りなさいませ、一条様。今日は、荷物が届いています」
エントランスで、コンセルジュの須藤が小さな箱を手に彼女を迎えた。よく見る配達業者のラベルで、送り元が『同上』となっていた。櫻子は、自分でこんな荷物を送った覚えはない。それを承知で、「有難う」と受け取った。
「私の家、何もないわよ? 何か、食べるもの配達してもらう?」
30階までのエレベーターの中で、櫻子は二人にそう声をかけた。その言葉が来るのが分かっていたのか、池田がにっと笑って手にしていた風呂敷包みを掲げた。
「若のお母さんが、働き過ぎの姐さんの為に栄養のあるもん作ってくれたんですよ。緊急呼び出しの為に、ノンアルも用意してますって!」
「働きすぎやで、櫻子さん。宮城のおっさんみたいな、仕事虫はあかん。何事も、適度にせなあかんって。今の櫻子さんは、仕事のやりすぎや」
やりすぎ……?
香田の言葉が、ふと気になった。確か、何時か誰かが言っていた。「やりすぎた」と。その時は気にせず聞き流したが、どうしても何故か今、気になった。
なにを、やり過ぎた?
考え込む櫻子に続き、30階の3016号室の櫻子の部屋に入る。部屋の中は、綺麗というよりも汚す程の物が少ない。春に引っ越してきたのに、まだ開けられていない段ボールが部屋の隅に置かれていた。櫻子はまず先に、エアコンを付けた。
北欧風のベッドと、ドレッサー。服は、部屋に備え付けのクローゼットを使っている。夏用ラグの上に、低いテーブル。二人掛けのソファ。キッチンも物が少なく、なんとかグラスと割りばし、氷を櫻子は用意した。
「姐さん、ホント家事はしないんですね。テレビもないし」
使われた形跡がないIHコンロの綺麗さに、池田が笑った。そうしてソファには座らず、ラグの上にクッションを広げて、三人はテーブルを囲んだ。
「福光屋の、『零の雫』……お洒落ね。アルコール0%の日本酒は、初めてだわ」
池田が出したのは、透明の瓶に白いラベル、黒のロゴの綺麗なシックなデザインの日本酒だった。
「向こうでは、ワインばっかりか?」
「ええ。ワインばかりよ」
同じようなことを、前にも聞かれたことがあったような気がした。その時は愛想程度だったが、今は櫻子の事を知ろうと聞いているように感じる。
乾杯をしてから、池田は香田の母が作ったという弁当を広げた。
和風な、酒の肴にもなるものが重箱にあふれていた。確かに、野菜ジュースやサプリでおぎなっていた栄養素も多く、料理をしない櫻子には有り難い。煮物やサラダ、今の季節美味しい酢の物も並ぶそれは、本当に『母の手作り』を感じられた。
育ててくれた叔母は洋食が得意でその料理が多く、反対に和食が好きだった菫の事を思い出す。小さな頃、櫻子は母の漬けたぬか漬けのキュウリが大好きだった。
「そう言えば、さっきの荷物は何や?」
自分の部屋の様に寛いだ香田は、櫻子がソファの上に置きっぱなしの紙袋にチラリと視線を向けた。彼が口にするまで、櫻子はその紙袋の存在をすっかり忘れていた。
感覚が、麻痺しているのかもしれない。櫻子は慌てて袋を開けた。
中には、桜の押し花のしおりが三枚。それと、紙切れが一枚。
「『龍も義理は嫌うの』――何ですか、これ?」
櫻子はしおりに驚き、手の力が僅かに緩んだ。そうしてその紙切れがエアコンの風でふわりと舞って、池田の足元に落ちた。拾い上げた紙に書かれている文面を読み上げて、池田は不思議そうに櫻子に尋ねた。
「犯人からの、アナグラムよ……でも、三枚……宮城さんの家は、両親と兄夫婦と三人息子……数が合わない……」
櫻子の声は、僅かに震えていた。
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