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アリアドネのカタストロフィ
犯人像・上
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「すみません、無理を言いました」
「いいえ、私は大丈夫です。どうぞ、頭を上げて下さい」
病院の個室の前で、一組の夫婦と若い青年が櫻子に頭を下げていた。櫻子は慌てて、彼らに頭を上げる様に促す。病室の中から、楽し気に絵本を読む声が聞こえていた。それは間違えるはずがない、流星の声だった。
「息子が大変迷惑をおかけしました――それに、助けて下さり本当に有難うございました」
夫婦は、流星の親だった。兵庫県の宍粟市と呼ばれる播州地方の、岡山に近い山が多い所に住んでいる。両親と流星――悠聖の弟の春実が、彼に会いに来たのだ。
三人共来るまでは信じていないようだったが、病室で悠聖に会った時に事実だと分かり随分ショックを受けていた。曽根崎警察署の捜査課から事情を改めて聞かされ、櫻子に会いたいと連絡してきたのだ。
「だから、こんな危ない仕事するなって言ったんだ……」
父親は、古臭いデザインの眼鏡をかけた神経質そうな男だった。母親は、反対におっとりとした性格の様で、隣で機嫌が悪そうな夫を宥めている。
「じいちゃんの畑護る為やろ。兄ちゃんは悪くない――兄ちゃんがお金出してくれたから、じいちゃんの畑売らんで良くなったん忘れたんか?」
春実は、そんな父親に吐き捨てるように言った。それから櫻子に視線を向けて、真剣な表情で尋ねた。
「刑事さん……兄ちゃんは、確かにホストやってたけど、悪い奴やった?」
悠聖によく似た顔立ちで、確か農協で働いて祖父の畑仕事も手伝っていると聞いていた。まだ二十三歳だという。
「水商売は、確かに一般的には良い印象がない仕事だと思われます。ですが、司悠聖さんは、真面目にお仕事をされて、恥ずかしくない振る舞いをされていました。それは――本当に、信じて下さい。彼の接客したお客様が不幸になったことはない、そう聞いています」
今度は、櫻子が頭を下げた。それを見た悠聖の家族から、剣呑な雰囲気が消えた。
「すいません、刑事さん。心配のあまり、余計な事言ってしまいました」
父親も、根は悪い人物ではないようだ。慌てて櫻子に声をかける。それを聞いて、櫻子は頭を上げた。
「いいえ。悠聖さんは頑張って、真面目に仕事をされていました。それなのにこんな結果になり、私共も非常に残念です」
「いつか治るかもしれないって、先生から聞きました。それを私たちは信じようと思います。今警察の書類に代理人サインしていて、犯罪被害者救済……援助金? の手続きをして貰っています。ゆうくんの部屋も、今片付けてます――ゆうくんの荷物の整理が出来たら、宍粟の実家に連れて帰ります。何かありましたら、大阪には私たちがこちらに来るようにします。本当にお世話になりました」
犯罪被害者給付金の事だろう。母親がそう言って、もう一度頭を下げた。櫻子は何かを言いかけて――しかし口を噤んで軽く頷いた。
「これは、私の名刺です。何かありましたら、遠慮なくいつでも連絡ください」
名刺ケースから取り出した名刺に自分の携帯番号を書くと、櫻子はそれを差し出した。腕を伸ばしてそれを受け取ったのは、春実だった。名刺の名前を確認して、僅かに微笑んだ。
「刑事さんの話は、兄ちゃんから聞いた事あります。ホンマに、こんな遠い所で独りやった兄ちゃんを助けてくれて、有難うございました」
「じいちゃん、じいちゃんどこ?」
病室から、絵本を読む声が途切れてふと不安そうな声が上がった。
「じいちゃんは年なんで、家で待って貰ってます。早く、じいちゃんに会わせようと思ってるんです」
春実はそう言うと、もう一度頭を下げて病室へと入って行った。両親も慌てて頭を下げて、息子の後に続いた。
櫻子も同じように病室に向かおうとして――足を止めた。そして、瞳を伏せて掌をぐっと握り締めると、踵を返して病院を出て行った。
もう、これ以上彼を傷つけてはいけない。会うべきではない。櫻子は乗り込んだタクシーの窓から、ふと病院を見上げた。
そこには、春実に支えられた悠聖の姿があった。タクシーの中にも関わらず、櫻子に笑いかけて手を振っていた。
「運転手さん――曽根崎警察署まで、急いで……」
涙をこらえる櫻子には、それを口にするだけが精いっぱいだった。
「いいえ、私は大丈夫です。どうぞ、頭を上げて下さい」
病院の個室の前で、一組の夫婦と若い青年が櫻子に頭を下げていた。櫻子は慌てて、彼らに頭を上げる様に促す。病室の中から、楽し気に絵本を読む声が聞こえていた。それは間違えるはずがない、流星の声だった。
「息子が大変迷惑をおかけしました――それに、助けて下さり本当に有難うございました」
夫婦は、流星の親だった。兵庫県の宍粟市と呼ばれる播州地方の、岡山に近い山が多い所に住んでいる。両親と流星――悠聖の弟の春実が、彼に会いに来たのだ。
三人共来るまでは信じていないようだったが、病室で悠聖に会った時に事実だと分かり随分ショックを受けていた。曽根崎警察署の捜査課から事情を改めて聞かされ、櫻子に会いたいと連絡してきたのだ。
「だから、こんな危ない仕事するなって言ったんだ……」
父親は、古臭いデザインの眼鏡をかけた神経質そうな男だった。母親は、反対におっとりとした性格の様で、隣で機嫌が悪そうな夫を宥めている。
「じいちゃんの畑護る為やろ。兄ちゃんは悪くない――兄ちゃんがお金出してくれたから、じいちゃんの畑売らんで良くなったん忘れたんか?」
春実は、そんな父親に吐き捨てるように言った。それから櫻子に視線を向けて、真剣な表情で尋ねた。
「刑事さん……兄ちゃんは、確かにホストやってたけど、悪い奴やった?」
悠聖によく似た顔立ちで、確か農協で働いて祖父の畑仕事も手伝っていると聞いていた。まだ二十三歳だという。
「水商売は、確かに一般的には良い印象がない仕事だと思われます。ですが、司悠聖さんは、真面目にお仕事をされて、恥ずかしくない振る舞いをされていました。それは――本当に、信じて下さい。彼の接客したお客様が不幸になったことはない、そう聞いています」
今度は、櫻子が頭を下げた。それを見た悠聖の家族から、剣呑な雰囲気が消えた。
「すいません、刑事さん。心配のあまり、余計な事言ってしまいました」
父親も、根は悪い人物ではないようだ。慌てて櫻子に声をかける。それを聞いて、櫻子は頭を上げた。
「いいえ。悠聖さんは頑張って、真面目に仕事をされていました。それなのにこんな結果になり、私共も非常に残念です」
「いつか治るかもしれないって、先生から聞きました。それを私たちは信じようと思います。今警察の書類に代理人サインしていて、犯罪被害者救済……援助金? の手続きをして貰っています。ゆうくんの部屋も、今片付けてます――ゆうくんの荷物の整理が出来たら、宍粟の実家に連れて帰ります。何かありましたら、大阪には私たちがこちらに来るようにします。本当にお世話になりました」
犯罪被害者給付金の事だろう。母親がそう言って、もう一度頭を下げた。櫻子は何かを言いかけて――しかし口を噤んで軽く頷いた。
「これは、私の名刺です。何かありましたら、遠慮なくいつでも連絡ください」
名刺ケースから取り出した名刺に自分の携帯番号を書くと、櫻子はそれを差し出した。腕を伸ばしてそれを受け取ったのは、春実だった。名刺の名前を確認して、僅かに微笑んだ。
「刑事さんの話は、兄ちゃんから聞いた事あります。ホンマに、こんな遠い所で独りやった兄ちゃんを助けてくれて、有難うございました」
「じいちゃん、じいちゃんどこ?」
病室から、絵本を読む声が途切れてふと不安そうな声が上がった。
「じいちゃんは年なんで、家で待って貰ってます。早く、じいちゃんに会わせようと思ってるんです」
春実はそう言うと、もう一度頭を下げて病室へと入って行った。両親も慌てて頭を下げて、息子の後に続いた。
櫻子も同じように病室に向かおうとして――足を止めた。そして、瞳を伏せて掌をぐっと握り締めると、踵を返して病院を出て行った。
もう、これ以上彼を傷つけてはいけない。会うべきではない。櫻子は乗り込んだタクシーの窓から、ふと病院を見上げた。
そこには、春実に支えられた悠聖の姿があった。タクシーの中にも関わらず、櫻子に笑いかけて手を振っていた。
「運転手さん――曽根崎警察署まで、急いで……」
涙をこらえる櫻子には、それを口にするだけが精いっぱいだった。
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