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アリアドネのカタストロフィ
模倣・下
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曽根崎警察署に戻ると、笹部と篠原に帰るように櫻子は伝えた。笹部は何事か考えているようで、篠原に「先に帰るね」と言うと手早くデスクを片付けて一人駅に向かった。篠原がコップや電気ケトルの片付けをしている時、櫻子はスマホで何かを見ていた。
「一条課長」
篠原は、櫻子に声をかけた。櫻子は顔を上げて篠原を見返す。ここ数日で随分やつれたようだが、篠原には櫻子の美しさが陰ることなく眩しく見えた。
「あの……良ければ、今日はうちに泊まりませんか?」
それは、意外な言葉だった。突然の言葉に櫻子は、瞳を丸くした。
「私が、篠原君の、家に?」
確認するかのような言葉に、篠原は頷いた。
「――今日、カレーらしいんです。母に頼んで、『じゃがいもゴロゴロカレー』を作って貰いました。唯菜も手伝ったみたいです……母なら、一条課長にカレーの作り方教えられると思います」
篠原は、時折スマホを覗いている櫻子の姿を見かけていた。櫻子は料理動画で、カレーの作り方を見ていた。今も、その動画を見ているのだろう。知っていて、あえて今日まで何も言えずにいた。だが、櫻子の為に篠原は勇気を出して声をかけたのだ。彼女がなぜそれを覚えようとしているのかは分からなかったが、彼女の為になるなら力になりたかった。
「一条課長のマンションとは逆ですし、泊ってくだされば唯菜も喜ぶんで……」
今の櫻子を一人にしておくのは、精神的な所で心配だった。自分では頼りになるかは分からないが、家族の温かさで彼女を守りたかった。気丈に振舞う彼女が、本当は繊細で弱いと知っている。
櫻子は黙ったまま、しばらく篠原を見つめた。どこか、遠くを見ているような切なげな瞳だった。
「――有難う。お言葉に甘えて、お邪魔するわ」
しかし櫻子は小さく笑みを浮かべると、スマホを閉じて着替えの入った紙袋とバックを手に、帰る支度を始めた。篠原はほっとした表情になり、彼女と共に阪急電車に乗り宝塚の家に向かった。
篠原の家に着くと、彼の両親も姪の唯菜も櫻子を歓迎してくれた。特に唯菜は、櫻子の姿が玄関から見えた途端、飛び上がって喜んだ。
食卓には、家庭的なカレーにサラダ。篠原の父がビールを用意してくれて、唯菜は櫻子の隣に座り始終ニコニコとしていた。食事が終われば、母のやよいが「今夜のカレーと混ぜるから、一緒にカレーを作りましょうよ」と言い、唯菜も混じり女三人で別の鍋でカレーを最初から作り始めた。櫻子が慣れない包丁を握ると、やよいと唯菜がハラハラとしながら手伝っていた。
「……唯さんが戻って来たみたいやな」
篠原と父の仁雅が、その光景を横目にビールを口にした。向かいに座って台所の様子を眺めていた篠原は、義姉であり唯菜の母である唯を思い出した。彼女も料理が苦手で、やよいに手伝って貰い毎日台所で悪戦苦闘していた。
ある日「土鍋で炊いたご飯が食べたい」と、やよいが起きる前に朝から張り切って米を炊いた。だが、底は炭になり上の米は芯が残った、何とも形容しがたいものが出来上がった。父も母も、兄も篠原も大笑いしてその日はそれで雑炊を食べた。唯は、「次は絶対に成功させるから!」と笑っていた。
しかし、その後突然この世からいなくなった。無差別通り魔事件の犯人に、無残に殺された。
毎日、世界のどこかで誰かが死んでいる。病死、事故死、自殺、それに――誰かに殺されて。新聞の片隅の記事でしか見ないその死んだ人たちにも、こんな平凡な毎日があった筈だ。唯菜の周りに、母と唯と櫻子がいたのかもしれない。
「兄弟そろって、好みが似てるわ」
「は? 何言って……違うわ! 親父の勘違いや!」
父の言葉に、篠原はビールを吹きそうになり慌てて父に抗議したが、彼は笑って新聞を広げて息子を無視した。
その日、唯菜は櫻子と一緒に風呂に入って、布団を並べて眠りについた。やよいがどうしても捨てられなかった、唯のパジャマを櫻子は身に着けた。
すやすやと眠る唯菜の寝息が何故か心地よく、櫻子もぐっすりと眠る事が出来た。本当に、夢を見ることもなく穏やかに。
「一条課長」
篠原は、櫻子に声をかけた。櫻子は顔を上げて篠原を見返す。ここ数日で随分やつれたようだが、篠原には櫻子の美しさが陰ることなく眩しく見えた。
「あの……良ければ、今日はうちに泊まりませんか?」
それは、意外な言葉だった。突然の言葉に櫻子は、瞳を丸くした。
「私が、篠原君の、家に?」
確認するかのような言葉に、篠原は頷いた。
「――今日、カレーらしいんです。母に頼んで、『じゃがいもゴロゴロカレー』を作って貰いました。唯菜も手伝ったみたいです……母なら、一条課長にカレーの作り方教えられると思います」
篠原は、時折スマホを覗いている櫻子の姿を見かけていた。櫻子は料理動画で、カレーの作り方を見ていた。今も、その動画を見ているのだろう。知っていて、あえて今日まで何も言えずにいた。だが、櫻子の為に篠原は勇気を出して声をかけたのだ。彼女がなぜそれを覚えようとしているのかは分からなかったが、彼女の為になるなら力になりたかった。
「一条課長のマンションとは逆ですし、泊ってくだされば唯菜も喜ぶんで……」
今の櫻子を一人にしておくのは、精神的な所で心配だった。自分では頼りになるかは分からないが、家族の温かさで彼女を守りたかった。気丈に振舞う彼女が、本当は繊細で弱いと知っている。
櫻子は黙ったまま、しばらく篠原を見つめた。どこか、遠くを見ているような切なげな瞳だった。
「――有難う。お言葉に甘えて、お邪魔するわ」
しかし櫻子は小さく笑みを浮かべると、スマホを閉じて着替えの入った紙袋とバックを手に、帰る支度を始めた。篠原はほっとした表情になり、彼女と共に阪急電車に乗り宝塚の家に向かった。
篠原の家に着くと、彼の両親も姪の唯菜も櫻子を歓迎してくれた。特に唯菜は、櫻子の姿が玄関から見えた途端、飛び上がって喜んだ。
食卓には、家庭的なカレーにサラダ。篠原の父がビールを用意してくれて、唯菜は櫻子の隣に座り始終ニコニコとしていた。食事が終われば、母のやよいが「今夜のカレーと混ぜるから、一緒にカレーを作りましょうよ」と言い、唯菜も混じり女三人で別の鍋でカレーを最初から作り始めた。櫻子が慣れない包丁を握ると、やよいと唯菜がハラハラとしながら手伝っていた。
「……唯さんが戻って来たみたいやな」
篠原と父の仁雅が、その光景を横目にビールを口にした。向かいに座って台所の様子を眺めていた篠原は、義姉であり唯菜の母である唯を思い出した。彼女も料理が苦手で、やよいに手伝って貰い毎日台所で悪戦苦闘していた。
ある日「土鍋で炊いたご飯が食べたい」と、やよいが起きる前に朝から張り切って米を炊いた。だが、底は炭になり上の米は芯が残った、何とも形容しがたいものが出来上がった。父も母も、兄も篠原も大笑いしてその日はそれで雑炊を食べた。唯は、「次は絶対に成功させるから!」と笑っていた。
しかし、その後突然この世からいなくなった。無差別通り魔事件の犯人に、無残に殺された。
毎日、世界のどこかで誰かが死んでいる。病死、事故死、自殺、それに――誰かに殺されて。新聞の片隅の記事でしか見ないその死んだ人たちにも、こんな平凡な毎日があった筈だ。唯菜の周りに、母と唯と櫻子がいたのかもしれない。
「兄弟そろって、好みが似てるわ」
「は? 何言って……違うわ! 親父の勘違いや!」
父の言葉に、篠原はビールを吹きそうになり慌てて父に抗議したが、彼は笑って新聞を広げて息子を無視した。
その日、唯菜は櫻子と一緒に風呂に入って、布団を並べて眠りについた。やよいがどうしても捨てられなかった、唯のパジャマを櫻子は身に着けた。
すやすやと眠る唯菜の寝息が何故か心地よく、櫻子もぐっすりと眠る事が出来た。本当に、夢を見ることもなく穏やかに。
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