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七海美桜

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アリアドネのカタストロフィ

過去・上

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 曽根崎警察署に戻ると、時刻は八時を少し過ぎたくらいだ。朝の涼しさは雨が降っていたせいで湿度が高くあまり感じず、建物に入ると涼しさでほっとする。

「一条警視、篠原を少し休ませてやってください。昼過ぎに、一度落ち合って話しましょう」
 宮城は一緒に玄関に向かう櫻子に向かって、自分たちの後に続く篠原に視線をチラリと向けてそう提言した。彼も、篠原の体調を心配していたのだ。

「そうね、宮城さんも少し休んだ方がいいんじゃない? 私だけ休ませて貰ってたんだし、ある程度の書類整理はしておくわ」
「いや、俺は大丈夫ですよ!」
 篠原は慌てて声を上げるが、櫻子は立ち止まると腕を伸ばして彼の肩を優しく叩いた。
「思っている以上に、身体も思考も疲れていると思うわ。それに、これから何が起こるか分からない――今は、大人しく宮城さんと一緒に休んで頂戴。笹部君が病院からこっちに戻っているはずだから、私は大丈夫よ」
「お前はこの春から、初めての刑事仕事や。こんだけ事件が続いたら、気力だけでは、身体が持たん。これから、俺と一緒に一緒に仮眠室に向かうで」
 櫻子と宮城にそう言われると、篠原は仕方なく黙って頷いた。
「ほな、牧瀬。取り敢えず景光容疑者関係の報告は、俺が寝てる間一条警視に渡してくれ。じゃあ警視、後ほど」
「了解です!」
「ゆっくり休んで、お疲れ様」

 宮城と篠原は仮眠室に向かい、牧瀬と山本は捜査課に向かった。櫻子は、自分の城である特別心理犯罪課へと戻って来た。鍵は開いている。

「お疲れ様、ボス」
 ディスプレイに向かっていた笹部が、相変わらず表情の読めない顔で櫻子に声をかけた。櫻子は軽く手を振り、笹部に小さく笑いかけた。
「お疲れ様。笹部君は、休まないの? 少し、篠原君達と一緒に寝てきたら?」
「いえ、僕も病院で少し休ませて貰ったんで大丈夫です。景光容疑者の個人情報割り出したんで、調べて貰う為に捜査課の方に連絡しておきました」
 笹部のデスクには、珍しくレモンの入ったドリンクのペットボトルが置かれていた。
「そう、有難う。助かるわ」
 櫻子は何げなくそのペットボトルを見ていたが、それで自分も喉が渇いていると感じた。
「何か飲み物買ってくるわ。笹部君は、何かいる?」
 櫻子はバックを抱えたまま、休憩室の自動販売機に向かう事にした。笹部にそう声をかけると、彼は少し悩んだのか黙り込んでから首を横に振った。
「いえ、大丈夫です。篠原君は、仮眠室ですか?」
「ええ、かなり無理させている事に気付かなかったわ。宮城さんと一緒に、休んで貰ったの。笹部君も、疲れたら遠慮なく休んでね。昼過ぎに、捜査一課と景光容疑者の件の話し合いをする予定よ」
 笹部は櫻子の言葉に、壁に掛かっている時計を見た。それから、頷く。

「病院の先生からの報告です。司悠聖さんは、未だ精神錯乱が見られるために麻酔で眠らされています。それから、桜海會の池田って人が『司さんの親と弟さんに連絡取れた』って言ってました――僕にではなく、医者にですが」
 それを聞いて、ドアノブに伸ばそうとしていた櫻子の腕が、一瞬止まった。
「そう……来てくれるのね。安心したわ」
 それだけ言うと、櫻子は部屋を出た。笹部はそれを見送ってから、再びディスプレイに視線を戻した。


 ……疲れてなんか、いられない。
 自動販売機の前で、櫻子は深々と溜息を零した。バックの中から財布を取り出すと、アイスの無糖珈琲を買った。

 冷たいその缶のプルトップを、ネイルが少し剥がれそうになっている爪先で開ける。自動販売機に凭れて、それを一口喉に流す。冷たい珈琲は、何故かひどく苦かった。
 そうして、何時も一生懸命に珈琲を淹れている篠原の姿を思い出した。

「……二十点」
 櫻子は珈琲を飲み干すと久しぶりに採点を口にして、特別心理犯罪課へ戻った。櫻子が捨てた空き缶が、ごみ箱の中で小さな乾いた音を立てていた。
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