アナグラム

七海美桜

文字の大きさ
上 下
148 / 188
アリアドネのカタストロフィ

プロローグ

しおりを挟む
 桜の花が吹く風で舞い散る池田市の五月山公園で、櫻子は父の幸也ゆきやと母のすみれと3人でピクニックに来ていた。母は料理が好きで、お弁当は父の好きなから揚げや玉子焼き。小さな櫻子には少し苦手な人参が、細かく斬られて混ぜ込まれたオムライス風のおにぎり。エビフライにマカロニサラダ。ブロッコリーとウィンナー、プチトマトが時折顔を覗かせる鮮やかな弁当に、櫻子も幸也も顔を輝かせて弁当箱を覗き込んでいた。
「おじいちゃんも、きたらよかったのにね」
 櫻子が早速エビフライをフォークで刺すと、小さな口で頬張った。サクサクカリカリに揚げられたエビフライは、エビの甘さが口に広がり磯の風味が際立って美味しかった。
「おじいちゃんは、今日は病院だかられないの。でも、同じお弁当を置いてきたから大丈夫」
 幼い櫻子から見ても、菫は美しかった。父によく、「お母さんは天使なの?」と、よく聞いたものだ。幸也は美しい菫と可愛い櫻子を溺愛していて、優しかった。優しい家族に包まれて、毎日が幸せだった。
「さくらこちゃーん!」
 金色の髪を風に舞わせながら、幼い流星が手を振りビニールシートに座る櫻子達の所に来た。櫻子は、笑顔で手を振り返した。
「りゅうせいくん、いっしょにたべよう!」
「流星君、嫌いなのはない?一緒に食べましょ。はい、櫻子の隣に座ってね」
「うん!さくらこちゃん、たべたらウォンバットみにいこう?」
 流星が、菫から渡されたフォークで空揚げを刺した。にこにこと、日本で2番目に小さいと言われる動物園に顔を向けた。
「いいよ、ちゃんとおかおみせてくれるかな?おしりばっかりだもん」
「なまえよんだら、きっとこっちむいてくれるよ」
 仲良く話す櫻子と流星を眺めて、幸也は笑った。
「櫻子は、流星君が好きやなぁ。櫻子と流星君が結婚したら、父さん寂しいなぁ」
「けっこんするもんねー!」

 ――起きて…

「うん、はなよめさんになるの!でも、けっこんしてもさくらこはおとうさんもおかあさんと、ずっとなかよしだよ!」

 ――お願いしま…起き…いち…

 暖かな、和やかな世界だった。櫻子はこのぬるま湯のような世界に幸せに浸っていたいが、どこかで誰かが自分を呼ぶ声が聞こえていた。聞きたくない、と櫻子は菫に抱き着いた。

「お母さん、助けて!」


「起きるんだ、櫻子さん。君は、こんな偽りの世界で満足する人じゃないだろう」

 菫の口から、聞いた事がある男の声が聞こえた。驚いて、櫻子は菫から離れた。すると、菫と幸也と流星の姿が、どろりと溶ける様に消えていく。見慣れた五月山公園の風景も消えていき、真っ黒な世界に櫻子だけが残った。しかし、溶けた筈の菫の姿は、10代後半の少年の姿に変わった。
「僕は君とまた会えるよ。『君ならこっちへ来れる』筈だから」

「桐生!」
 叫んだ櫻子は、その自分の声で目を覚ました。過呼吸になりそうな息を、深く深呼吸して整える。息を抑えながら辺りを窺うと、眠る前に見た病室の様だった。

「無理に起こして、すみません」
 その言葉は、夢で時折聞いた男の声だ――視線を向けると、疲れたような宮城がいた。そして、その後ろに篠原と笹部も控えている。雨が降っているのか、時折雷の音が響くように聞こえた。
「いいえ、大丈夫よ――今は何時?何かあったの?」
 櫻子はゆっくり上体を起こして、ベッドの脇にいる宮城に顔を向けた。いつも一緒の竜崎がいない事が、ふと気にはなった。
「深夜2時です。実は…警視を起こしたのには、あなたが休まれている間に重要な事件が起きたからです」
 宮城の顔色は優れない。それは、篠原も同じだった。笹部の表情からは、何も読み取れなかった。
「何があったの?」
 櫻子は、ゆっくり訊ねた。この感覚は、警視庁に入ってから覚えた――身内警察官に何か起きたのだ。その、緊張感だ。最近だと、宮城が襲われた時の感じと似ていた。

「竜崎の家族が、全員殺されました。幸い竜崎自身は無事ですが、気を失って今は伊丹の病院に運ばれました。発見した時に俺に電話してきたんですが…気を失う前に、『桐生の仕業』と口にしていました」
 櫻子の顔が強張った。

 一家連続殺人事件。

 それを一番先に気付いたのは、竜崎だった。
「管轄が兵庫県になるので、我々も捜査出来る様に警視から口添えをお願いしたく…一条警視!」
 櫻子は唇を強く噛み絞めたため、唇が切れて真っ白なシーツにポタポタと血を滴らせていた。
「分かったわ、私から向こう兵庫県警に連絡をする。宮城さんは、景光の事件の裏取りを同時進行する準備をしてくれるかしら?朝から向こうに行ける様に、お願いね。私は今から、現場に行くわ」
 顎を伝う血も気にせず、櫻子は宮城にそう指示をしてベッドから降りた。ベッドの下に櫻子のヒールは置かれていて、ジャケットは枕元にあったのを手にして羽織った。
「分かりました――よろしくお願いします。けど、無理はせんといて下さいね」
 宮城は櫻子に敬礼をすると、慌ただしく部屋を出て行った。

 バン!

 降りたベッドを両手で叩いて、櫻子はいつもの表情に戻った。
「篠原君、タクシーを呼んでくれない?今から伊丹に向かうわ」
「…はい」
 病室から出て、篠原はタクシーを呼ぶためにスマホを取り出した。笹部はゆっくり櫻子に歩み寄ると、ポケットから取り出したハンカチを渡した。
「有難う」
 驚くほど、櫻子の表情に感情がなかった。受け取ったハンカチで、顎を伝う血を拭った――ハンカチからは、微かにミントの香りがした。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ARIA(アリア)

残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……

リアル

ミステリー
俺たちが戦うものは何なのか

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

蠍の舌─アル・ギーラ─

希彗まゆ
ミステリー
……三十九。三十八、三十七 結珂の通う高校で、人が殺された。 もしかしたら、自分の大事な友だちが関わっているかもしれない。 調べていくうちに、やがて結珂は哀しい真実を知ることになる──。 双子の因縁の物語。

マスクドアセッサー

碧 春海
ミステリー
主人公朝比奈優作が裁判員に選ばれて1つの事件に出会う事から始まるミステリー小説 朝比奈優作シリーズ第5弾。

きっと、勇者のいた会社

西野 うみれ
ミステリー
伝説のエクスカリバーを抜いたサラリーマン、津田沼。彼の正体とは?? 冴えないサラリーマン津田沼とイマドキの部下吉岡。喫茶店で昼メシを食べていた時、お客様から納品クレームが発生。謝罪に行くその前に、引っこ抜いた1本の爪楊枝。それは伝説の聖剣エクスカリバーだった。運命が変わる津田沼。津田沼のことをバカにしていた吉岡も次第に態度が変わり…。現代ファンタジーを起点に、あくまでもリアルなオチでまとめた読後感スッキリのエンタメ短編です。転生モノではありません!

処理中です...