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七海美桜

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罪びとは微笑む

嵐の前・上

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「これで、櫻子さんももっと強くなったかな? こんなに弱かったなんて……少し穏やかに暮らしすぎたせいなのかな」

 ベッドに横になっていた桐生は唇の端を上げて笑むと、『持ち込めるはずのない』少し色あせた写真と新しい写真、二枚を眺めていた。
 古ぼけた写真は、左の目元にある黒子が印象的な色白の美しい婦人警官が映っていた。もう一枚は、まだ顎に黒子がある今より若い櫻子が映っていた。

 桐生にとって、この写真は宝物の様なものだ。
「亡き王女のためのパヴァーヌを。ラヴェルだ」
 桐生は写真を見たまま、誰に声をかけるでもなくそう呟いた。すると、少しして何処か物悲しい旋律の曲が流れてきた。

「――もっと、もっと強くなって。そうすれば、君は僕の隣に立つのに相応しくなる」
 桐生は枕元にその写真を置くと、瞳を閉じた。エアコンが効き快適なその空間は、ゆっくりと明かりが消えた。その闇の中で、桐生は深い眠りに落ちる。

 モニター越しに桐生の部屋の管理をする公安の青山の唇から、涎が垂れていた。だらだらと、机にしたたり落ちている。しかし彼はそれを気にすることなく、ただぼんやりと桐生の指示を待っていた。



 櫻子が目を覚めると、真っ白い天井が見えた。それから、心配そうに飼い主を見る大型犬の様な――篠原の顔が。彼は気を失った櫻子の手をずっと握っていて、彼女が目を覚ました事に安心した様に溜息を零した。

「よかった……どこか、体に違和感はありませんか?」
 篠原の言葉に、櫻子は気を失う前の事を思い出して慌てて身を起こそうとする。しかし、篠原が櫻子の手をより強く握り締めた。

「無理をしないでください! お願いします! ――お願いします……」
 絞りだすかのような、苦し気な祈りに似た声音だった。心から心配している篠原の言葉に、櫻子は我に返る。起きようとした体の力を抜いて、再びベッドに体の力を預けて天井を見上げた。

「私は大丈夫よ。頭痛と、胃が不快なくらい。あれから――私が気を失って、どれぐらいたったの? ……状況は?」
「一条課長が気を失われてから、三時間と少し……でしょうか。今の時刻は、21時10分を過ぎています。景光さんは、後から来た救急車の中で死亡が確認されました。陰茎切除による失血死と思われますが、現在検死解剖中です。流星さんの部屋のキッチンから、彼が切除した陰茎の一部らしい肉入りのカレーの鍋が発見されています。残りは冷蔵庫の中で瓶にホルマリン漬けにして、保存されていました。流星さんは――まだ、目を覚ましていません。体に異常はないとの事で、こことは違う病室に居られます」

「……そう」

「今捜査課が、流星さんのマンションと景光さんが住んでいたマンション両方の捜索を行っています。新しい報告は、まだ上がってきていません」
 櫻子は、小さくため息を零す。ふと、小さな寝息が聞こえた。そちらに視線を向けると、櫻子が横になっているベッドの端で笹部が椅子に座ったまま倒れ込むような姿勢で寝ていた。

「笹部君、どうしたの?」
「一条課長たちが運ばれたこの病院を、笹部さんに連絡したんです。一時間ほど前に来られて、しばらく一緒に課長の様子を見ていたんです。ですが、疲れていたのかいつの間にか寝てしまわれました」

 思えば、笹部の負担も多かったかもしれない。桐生の痕跡の捜査と、今回の犯行の被害者たちの洗い出し。部下の健康管理が出来ていない自分に、櫻子は反省するように自分の唇を噛んだ。

「あの……」
 小さな声で、篠原が櫻子に声をかけた。
「すみません、俺、今回も何にも役に立たなくて……一条課長が大変な状況だと知らず、何の助けも出来ませんでした」
 篠原は、その大きな体を小さくして櫻子に頭を下げた。櫻子は噛んでいた唇をゆっくりと笑みに変えて、自分の手を握る篠原の手をもう片方の手で包んだ。

「いいえ、篠原君にはいつも助けられているわ。有難う」
 それは、櫻子の本心だった。唯一と言っていいかもしれない――裏表のない彼は、櫻子が信用できる数少ない存在だった。
「唯菜ちゃんは? もう、こんな時間になってしまったのね」
 ふと、池田に預けたままの唯菜が気になった。
「あ、唯菜は家に戻りました。池田さんから連絡があって、母が唯菜のキッズ携帯に連絡してきたそうなんです。池田さんたちと昼めし食べた後も面倒見て貰っていて、晩ご飯も一緒に食べて唯菜は家まで送って貰ったそうで……今度、きちんと池田さんにお礼に行ってきます」
「お父さんの熱は?」
「はい、軽い風邪だったみたいでもう下がったみたいです」
 篠原の家庭の話を聞くと、穏やかな気持ちになる。櫻子は「良かったわ」と呟くと、今度は不意に睡魔に襲われて瞳を閉じた――自分も、気を張りすぎていて疲れていたのだろう。

「……おやすみなさい。一条課長」
 遠くで聞こえる篠原の言葉に返事をしようとしたが、櫻子はその前に眠りに落ちた。
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