アナグラム

七海美桜

文字の大きさ
上 下
86 / 188
キルケゴールの挫折

過ち・上

しおりを挟む
 神崎と入れ替わりに入ってきたのは、細身の彼とは違ったやや小太りな男だった。愛想笑いが身についているのか、櫻子と篠原に笑いかける。
「どうも、留守ですんませんでした。私が三浦です。社長の三浦信介ですよ。最近は刑事さんがよう来ますけど、えらい別嬪べっぴんさんが来てくれましたなぁ」

 へらへらと笑いながら、さっきまで神崎が座っていた椅子に腰を落とした。三浦板金で、彼は現場仕事をしないようだった。ジャケットを脱いだ白シャツの腹のボタンは苦しそうで、ピンクのネクタイを締めたビジネスマン風の姿だった。
「池波君の事で、この近くの弁護士事務所に行ってたんですわ。窓村まどむら法律事務所です」
 櫻子が尋ねる前から、三浦はぺらぺらと話し出す。篠原は、理由は分からないがあまりこの男を好ましく思えなかった。

 篠原の高校時代、陰でいじめをしていた隣のクラスの男に似た、表面は委員長をした良い人ぶった――偽善者、に似ていると思えた。神崎がなぜこの男を信用しているのか、篠原には分からなかった。

「私たちは、今日からその事件の捜査に加わる事になりました。曽根崎警察署特別犯罪心理課の、一条です。こちらは、私の部下の篠原です。裁判の件につきましては、申し訳ありませんが私は関わっていません。捜査で必要な池波君の事について、お聞きしたいのですが」
 どことなくもやもやとした思いの篠原とは正反対で、櫻子はにこやかに彼に話しかけた。美人な櫻子の柔らかな対応に、三浦は機嫌を良くしたようだった。
「池波君なぁ――まあ、仕事はちゃんとしてましたよ。最初は嫌々だったみたいですが、仕事を覚えだすと楽しくなったんじゃないでしょうか。大抵の男は、車好きですからなぁ」

 ポケットから電子タバコを取り出すと、三浦はそれを咥えた。
「三浦さんは、事務や接客の方を?」
「ええ。昔は私も現場での仕事をやってたんですが、今は従業員も増えたんであの子らに任せてます」
「神崎さんとは、古いお付き合いなんですか?」
 櫻子の質問が変わった事に、三浦が驚いたような表情を見せた。

「神崎の事は、ご存知なんですか?」
 櫻子が頷くと、三浦は電子タバコを咥えたまま立ち上がると自動販売機に向かい、砂糖入りの珈琲を購入した。

 彼が自動販売機に向かい背を向ける瞬間、三浦の口元に笑みが浮かんだのを櫻子は見逃さなかった。

「私と彼は、元々同じ会社に勤めていたんですよ。同じ時期に首切りされた、言わば『同士』ですわ。以前は広告会社で働いていましたが、リストラされて生活に困った私はこの工場にバイトで来ました。当時の社長には、娘さんが一人居ましてね。後を継ぐ条件で彼女と結婚したんです。ま。婿養子ですわ」
 珈琲を開けると、三浦はその冷たさに満足そうな表情を浮かべた。櫻子も篠原も、もうぬるくなり始めた珈琲を、同じように一口飲んだ。
「神崎にも、声をかけたんですよ。当時この工場は人が少なくて、彼もコンビニなんかのバイトで生計を立てていたので生活に困っていましたからね。しかし機械にあまり強くない彼は迷惑をかけるのではと、迷っていて――そんな時に、あの事件が起きたんですわ」

 二十二年前の事件を、朝一番に櫻子から聞かされた。笹部はその件に関して、今曽根崎警察署で調べているはずだ。
「神崎さんの当時の彼女を、ご存知ですか?」
「はぁ、一応知ってますよ。同じ広告会社に勤めていましたから。けど、彼女は二股してたみたいで、神崎を捨てて関わらんように証言も拒否したみたいでねぇ。すぐにもう一人の男と結婚して会社も辞めて、今は江坂えさかに住んでるんやないかな?」
 その結婚相手の男が、その辺に住んでたんで。と、三浦は続けた。
「神崎が冤罪やって言うから、有志で彼の支援をしたんですよ。私が代表みたいな形で、彼の親や親戚や友人で毎日の様にビラ配りやら、真犯人に関する聞き込みやら……色々やりました。けど、最高裁で棄却ですわ。親御さんは、神崎が刑務所に入ると人目を気にして引越ししました。友人たちも疲れ切って、次第に関わりを無くして……私だけが、残りました」
 当時を思い出すように、三浦は時折瞳を伏せてそう話した。
「模範囚のお陰か、八年で彼は釈放されました。何もかも失った彼は、私に土下座して働かせて欲しいと泣きましたよ。私は勿論、彼を受け入れました。彼が犯人ではないと、私も信じていますからね。今は、修理工場の現場は全て彼に任せてます」
「そんなに、神崎さんと親しかったんですか?」

 同じ会社に勤めていて、同じ時期にリストラ。話を聞くだけでは、そこまで彼に肩入れするのは不自然だ。
「――はは、やっぱり不自然ですよねぇ。でも、この工場の宣伝にもなるし……少しばかり甘い思いも出来たんで」
 ひどく不快な笑みを、三浦は浮かべた。
「寄付金の横領、ですか?」
 表情を変えず、櫻子は尋ねた。
「いやいや! 少しですよ!? 少しだけ、私も慰労いろうさせて貰う為に余ったお金で少し遊んだだけです。ですから、彼に仕事を与えて、待遇も良くしてますよ?」
 思わず漏らしてしまった言葉に、三浦は慌てて手を振った。彼が不快に思える理由が、篠原にはようやく分かった。

 彼の為に募金などで集められた善意のお金を、彼は不正に使用していたのだ。曲がった事が嫌いな篠原は、彼を非難しようとした自分をぐっと理性で抑えた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

ARIA(アリア)

残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

強制憑依アプリを使ってみた。

本田 壱好
ミステリー
十八年間モテた試しが無かった俺こと童定春はある日、幼馴染の藍良舞に告白される。 校内一の人気を誇る藍良が俺に告白⁈ これは何かのドッキリか?突然のことに俺は返事が出来なかった。 不幸は続くと言うが、その日は不幸の始まりとなるキッカケが多くあったのだと今となっては思う。 その日の夜、小学生の頃の友人、鴨居常叶から当然連絡が掛かってきたのも、そのキッカケの一つだ。 話の内容は、強制憑依アプリという怪しげなアプリの話であり、それをインストールして欲しいと言われる。 頼まれたら断れない性格の俺は、送られてきたサイトに飛んで、その強制憑依アプリをインストールした。 まさかそれが、運命を大きく変える出来事に発展するなんて‥。当時の俺は、まだ知る由もなかった。

リモート刑事 笹本翔

雨垂 一滴
ミステリー
 『リモート刑事 笹本翔』は、過去のトラウマと戦う一人の刑事が、リモート捜査で事件を解決していく、刑事ドラマです。  主人公の笹本翔は、かつて警察組織の中でトップクラスの捜査官でしたが、ある事件で仲間を失い、自身も重傷を負ったことで、外出恐怖症(アゴラフォビア)に陥り、現場に出ることができなくなってしまいます。  それでも、彼の卓越した分析力と冷静な判断力は衰えず、リモートで捜査指示を出しながら、次々と難事件を解決していきます。  物語の鍵を握るのは、翔の若き相棒・竹内優斗。熱血漢で行動力に満ちた優斗と、過去の傷を抱えながらも冷静に捜査を指揮する翔。二人の対照的なキャラクターが織りなすバディストーリーです。  翔は果たして過去のトラウマを克服し、再び現場に立つことができるのか?  翔と優斗が数々の難事件に挑戦します!

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

カフェ・シュガーパインの事件簿

山いい奈
ミステリー
大阪長居の住宅街に佇むカフェ・シュガーパイン。 個性豊かな兄姉弟が営むこのカフェには穏やかな時間が流れる。 だが兄姉弟それぞれの持ち前の好奇心やちょっとした特殊能力が、巻き込まれる事件を解決に導くのだった。

夜の動物園の異変 ~見えない来園者~

メイナ
ミステリー
夜の動物園で起こる不可解な事件。 飼育員・えまは「動物の声を聞く力」を持っていた。 ある夜、動物たちが一斉に怯え、こう囁いた—— 「そこに、"何か"がいる……。」 科学者・水原透子と共に、"見えざる来園者"の正体を探る。 これは幽霊なのか、それとも——?

支配するなにか

結城時朗
ミステリー
ある日突然、乖離性同一性障害を併発した女性・麻衣 麻衣の性格の他に、凶悪な男がいた(カイ)と名乗る別人格。 アイドルグループに所属している麻衣は、仕事を休み始める。 不思議に思ったマネージャーの村尾宏太は気になり 麻衣の家に尋ねるが・・・ 麻衣:とあるアイドルグループの代表とも言える人物。 突然、別の人格が支配しようとしてくる。 病名「解離性同一性障害」 わかっている性格は、 凶悪な男のみ。 西野:元国民的アイドルグループのメンバー。 麻衣とは、プライベートでも親しい仲。 麻衣の別人格をたまたま目撃する 村尾宏太:麻衣のマネージャー 麻衣の別人格である、凶悪な男:カイに 殺されてしまう。 治療に行こうと麻衣を病院へ送る最中だった 西田〇〇:村尾宏太殺害事件の捜査に当たる捜一の刑事。 犯人は、麻衣という所まで突き止めるが 確定的なものに出会わなく、頭を抱えて いる。 カイ :麻衣の中にいる別人格の人 性別は男。一連の事件も全てカイによる犯行。 堀:麻衣の所属するアイドルグループの人気メンバー。 麻衣の様子に怪しさを感じ、事件へと首を突っ込んでいく・・・ ※刑事の西田〇〇は、読者のあなたが演じている気分で読んで頂ければ幸いです。 どうしても浮かばなければ、下記を参照してください。 物語の登場人物のイメージ的なのは 麻衣=白石麻衣さん 西野=西野七瀬さん 村尾宏太=石黒英雄さん 西田〇〇=安田顕さん 管理官=緋田康人さん(半沢直樹で机バンバン叩く人) 名前の後ろに来るアルファベットの意味は以下の通りです。 M=モノローグ (心の声など) N=ナレーション

処理中です...