70 / 188
文車妖妃(ふぐるまようひ)の涙
再会・下
しおりを挟む
櫻子達が去り、桐生は再び真っ白い部屋に戻った。今日の彼女は、仔ウサギの様に怯えて幼く見えた。気の強い彼女が、初めて会った時の少女の様に見えたのだ。その時の事を、桐生は忘れていない。
「面影は 身をも離れず 山桜 心の限り とめて来しかど 夜の間の風も うしろめたくな」
光る君が、若紫に向けて歌った和歌を口にする――なんだか、自分にしっくりくる。櫻子は菫に似て、美しく育ち過ぎた。何時までも自分がここに居ては、誰かに彼女を攫われてしまうかもしれない――篠原に?いや、素朴で純粋すぎる彼に、賢い櫻子を陥落させられるとは考えられない。
櫻子の純潔も、桐生の希望で取引の中に含まれている――だが、その取引を知らない彼女が誰かを愛したなら?恋や愛という感情は、身を亡ぼす大きな愚かなものだ。それを、桐生は自ら体験して学んでいた。己を滅ぼしてしまう、自制の効かないもの…人間にとって最も厄介なものだ。だから、桐生はその感情を自制できるように自分で暗示をかけた。対象を、菫と櫻子にしか向かないように。
「早く、僕の隣に立てる姿になるんだ…櫻子さん」
しかし、急いでも菫の時のような失敗をしてしまうかもしれない。櫻子は時間をかけて、自分と共に血が似合う存在に育てなければならない。
「リストの、愛の夢を」
桐生がそう空間に話しかけると、ピアノと弦楽器による音楽が流れ始めた。桐生は弦楽器を自身も演奏していた事から、ピアノだけのクラシックをあまり好まない。
その曲を聞きながら、桐生はベッドに横になり瞳を閉じた――そうして、その真っ白な部屋は電気が消されて、ピアノと弦楽器が奏でる音楽だけが鳴り響いた。
「篠原君」
篠原が運転する車の後ろの座席で、櫻子は窓を開けて神戸の海から微かに漂う磯の風を受けていた。
「はい」
「国府方紗季さんが、さっき病院で亡くなったそうよ」
「……残念です」
カプセルにシアン化ナトリウムを詰めたものを飲んで櫻子達の前に姿を見せた美晴は、その場で救急車の到着も待たずに死んでしまった。前回の事件の犯人、悠と一緒にアパートの3階から飛び降りた紗季は、何とか命は助かって集中治療室で治療を受けていた。
そして、車に乗った櫻子のスマホに、笹部から「国府方紗季が収容されていた病院で、心肺停止で亡くなりました」とメールが届いていた。桐生に彼女の事を聞いた、そのすぐ後に。
潮風は、何処か生暖かく櫻子の髪を乱している。櫻子は窓の縁に頭を預けて、遠くを眺めていた。
「――泣きたくなったら、花を見るんよ」
「え?」
櫻子の小さな声に、篠原は思わず聞き直してしまった。
「母が、よく言っていたのよ。愛情をかけて育てた花は、綺麗に咲いて心を癒してくれる。だから、涙が出る時は花を見なさいって――でも、私は母のせいで桐生に支配されて、辛くても悲しくても泣いてられない。常に警察と公安と桐生に監視されているのよ――花なんか見て、癒されてる場合じゃないのよ…」
自動車のルームミラーから見える櫻子の柔らかな頬を、涙が一筋流れた。国府方紗季を想ってか、吉川美晴を想ってか、自分自身を想ってか――篠原には、分からなかった。
「自分は、一条課長に付いて行きます。まだまだ未熟ですが、きっと一条課長を助けてみせます――それに、今は泣いても誰も見ていませんよ」
篠原は、FMラジオを付けた。ラジオからは、陽気で朗らかな女性の声が紹介するリクエストの曲が流れてくる。ショップなどで耳にする曲だが、櫻子は歌っているアーティストの名も曲の名も知らない。だが、その曲のフレーズの「泣きたいときは全力で泣いて 泣いた分今度は全力で笑うんだ」という歌声に、涙をあふれさせて両手で顔を覆い泣いた。
大阪のサービスエリアに入る迄、篠原は黙って運転をして、櫻子は今まで抱えていた涙を流した。
「お帰りなさい、ボスに篠原君」
曽根崎警察署に帰ってくると、居残りをしていた笹部がパソコン画面から顔を上げて2人を迎えた。
「篠原君、僕喉が渇いたよ」
それでも篠原が帰るまで待っていた笹部に、篠原は笑った。
「一条課長も、飲みますか?」
「有難う、お願いするわ」
もう、先ほどの涙を見せていた櫻子の姿はない。いつもの、しっかりとした澄ました顔の櫻子の顔だった。
「そうだ、天満署からボスに荷物が届いていますよ――それです」
篠原がミルで豆を砕き始めると、櫻子のデスクの電話の横に置かれた薄い封筒を指差した。表には綺麗な字で「一条櫻子様」と書いてある――「子」が癖なのか、一文字で書かれていた。「美晴の文字は癖があって、「子」の漢字が繋がっているんです」という、和葉の言葉が脳裏に蘇る。櫻子は、慌ててその封筒を開けた。
そこには、平安時代の十二単姿の女性が手紙を広げている姿を刺繍した、布製の栞が入っていた。そして、桜の一筆箋が添えられている。
「私の本当の最後の作品『文車妖妃の涙』です。貴女に届きますように」
「捜査中、貸金庫の中から出てきたそうです。調べると、あの日工場に来る前に銀行に寄っていたそうです――その時に、ボス宛のそれを入れていたみたいですね。それと…」
笹部は立ち上がると、ノートパソコンを手に櫻子のデスクに歩み寄った。不思議そうにその画面を見ると、どうやら教会が映されているらしい。
「美晴さんが作品を送った長崎の教会です」
笹部が再生ボタンを押すと、修道女姿の初老の女性にマイクが向けられていた。
「この作品を作られた方は、罪を犯されました。ですが、地獄で悔い改めてその罪も何時か神により赦されるでしょう――このステンドガラスは、彼女の赦しを願うため教会で正式に飾らせて頂きます」
完成を見る事がなかった――『チェステッロの受胎告知』をモチーフにしたステンドガラス。璃子に似たマリアの姿と、完成したガブリエルが映し出された。そのガブリエルは、天使だからか、中性的で美晴とも祥平とも見えた。
「終わったのね」
櫻子がそう呟くと、篠原が香りのよい珈琲を配った。
事件が終わり、またいつもの日常に戻ったのだ。
「面影は 身をも離れず 山桜 心の限り とめて来しかど 夜の間の風も うしろめたくな」
光る君が、若紫に向けて歌った和歌を口にする――なんだか、自分にしっくりくる。櫻子は菫に似て、美しく育ち過ぎた。何時までも自分がここに居ては、誰かに彼女を攫われてしまうかもしれない――篠原に?いや、素朴で純粋すぎる彼に、賢い櫻子を陥落させられるとは考えられない。
櫻子の純潔も、桐生の希望で取引の中に含まれている――だが、その取引を知らない彼女が誰かを愛したなら?恋や愛という感情は、身を亡ぼす大きな愚かなものだ。それを、桐生は自ら体験して学んでいた。己を滅ぼしてしまう、自制の効かないもの…人間にとって最も厄介なものだ。だから、桐生はその感情を自制できるように自分で暗示をかけた。対象を、菫と櫻子にしか向かないように。
「早く、僕の隣に立てる姿になるんだ…櫻子さん」
しかし、急いでも菫の時のような失敗をしてしまうかもしれない。櫻子は時間をかけて、自分と共に血が似合う存在に育てなければならない。
「リストの、愛の夢を」
桐生がそう空間に話しかけると、ピアノと弦楽器による音楽が流れ始めた。桐生は弦楽器を自身も演奏していた事から、ピアノだけのクラシックをあまり好まない。
その曲を聞きながら、桐生はベッドに横になり瞳を閉じた――そうして、その真っ白な部屋は電気が消されて、ピアノと弦楽器が奏でる音楽だけが鳴り響いた。
「篠原君」
篠原が運転する車の後ろの座席で、櫻子は窓を開けて神戸の海から微かに漂う磯の風を受けていた。
「はい」
「国府方紗季さんが、さっき病院で亡くなったそうよ」
「……残念です」
カプセルにシアン化ナトリウムを詰めたものを飲んで櫻子達の前に姿を見せた美晴は、その場で救急車の到着も待たずに死んでしまった。前回の事件の犯人、悠と一緒にアパートの3階から飛び降りた紗季は、何とか命は助かって集中治療室で治療を受けていた。
そして、車に乗った櫻子のスマホに、笹部から「国府方紗季が収容されていた病院で、心肺停止で亡くなりました」とメールが届いていた。桐生に彼女の事を聞いた、そのすぐ後に。
潮風は、何処か生暖かく櫻子の髪を乱している。櫻子は窓の縁に頭を預けて、遠くを眺めていた。
「――泣きたくなったら、花を見るんよ」
「え?」
櫻子の小さな声に、篠原は思わず聞き直してしまった。
「母が、よく言っていたのよ。愛情をかけて育てた花は、綺麗に咲いて心を癒してくれる。だから、涙が出る時は花を見なさいって――でも、私は母のせいで桐生に支配されて、辛くても悲しくても泣いてられない。常に警察と公安と桐生に監視されているのよ――花なんか見て、癒されてる場合じゃないのよ…」
自動車のルームミラーから見える櫻子の柔らかな頬を、涙が一筋流れた。国府方紗季を想ってか、吉川美晴を想ってか、自分自身を想ってか――篠原には、分からなかった。
「自分は、一条課長に付いて行きます。まだまだ未熟ですが、きっと一条課長を助けてみせます――それに、今は泣いても誰も見ていませんよ」
篠原は、FMラジオを付けた。ラジオからは、陽気で朗らかな女性の声が紹介するリクエストの曲が流れてくる。ショップなどで耳にする曲だが、櫻子は歌っているアーティストの名も曲の名も知らない。だが、その曲のフレーズの「泣きたいときは全力で泣いて 泣いた分今度は全力で笑うんだ」という歌声に、涙をあふれさせて両手で顔を覆い泣いた。
大阪のサービスエリアに入る迄、篠原は黙って運転をして、櫻子は今まで抱えていた涙を流した。
「お帰りなさい、ボスに篠原君」
曽根崎警察署に帰ってくると、居残りをしていた笹部がパソコン画面から顔を上げて2人を迎えた。
「篠原君、僕喉が渇いたよ」
それでも篠原が帰るまで待っていた笹部に、篠原は笑った。
「一条課長も、飲みますか?」
「有難う、お願いするわ」
もう、先ほどの涙を見せていた櫻子の姿はない。いつもの、しっかりとした澄ました顔の櫻子の顔だった。
「そうだ、天満署からボスに荷物が届いていますよ――それです」
篠原がミルで豆を砕き始めると、櫻子のデスクの電話の横に置かれた薄い封筒を指差した。表には綺麗な字で「一条櫻子様」と書いてある――「子」が癖なのか、一文字で書かれていた。「美晴の文字は癖があって、「子」の漢字が繋がっているんです」という、和葉の言葉が脳裏に蘇る。櫻子は、慌ててその封筒を開けた。
そこには、平安時代の十二単姿の女性が手紙を広げている姿を刺繍した、布製の栞が入っていた。そして、桜の一筆箋が添えられている。
「私の本当の最後の作品『文車妖妃の涙』です。貴女に届きますように」
「捜査中、貸金庫の中から出てきたそうです。調べると、あの日工場に来る前に銀行に寄っていたそうです――その時に、ボス宛のそれを入れていたみたいですね。それと…」
笹部は立ち上がると、ノートパソコンを手に櫻子のデスクに歩み寄った。不思議そうにその画面を見ると、どうやら教会が映されているらしい。
「美晴さんが作品を送った長崎の教会です」
笹部が再生ボタンを押すと、修道女姿の初老の女性にマイクが向けられていた。
「この作品を作られた方は、罪を犯されました。ですが、地獄で悔い改めてその罪も何時か神により赦されるでしょう――このステンドガラスは、彼女の赦しを願うため教会で正式に飾らせて頂きます」
完成を見る事がなかった――『チェステッロの受胎告知』をモチーフにしたステンドガラス。璃子に似たマリアの姿と、完成したガブリエルが映し出された。そのガブリエルは、天使だからか、中性的で美晴とも祥平とも見えた。
「終わったのね」
櫻子がそう呟くと、篠原が香りのよい珈琲を配った。
事件が終わり、またいつもの日常に戻ったのだ。
0
お気に入りに追加
21
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
蠍の舌─アル・ギーラ─
希彗まゆ
ミステリー
……三十九。三十八、三十七
結珂の通う高校で、人が殺された。
もしかしたら、自分の大事な友だちが関わっているかもしれない。
調べていくうちに、やがて結珂は哀しい真実を知ることになる──。
双子の因縁の物語。
きっと、勇者のいた会社
西野 うみれ
ミステリー
伝説のエクスカリバーを抜いたサラリーマン、津田沼。彼の正体とは??
冴えないサラリーマン津田沼とイマドキの部下吉岡。喫茶店で昼メシを食べていた時、お客様から納品クレームが発生。謝罪に行くその前に、引っこ抜いた1本の爪楊枝。それは伝説の聖剣エクスカリバーだった。運命が変わる津田沼。津田沼のことをバカにしていた吉岡も次第に態度が変わり…。現代ファンタジーを起点に、あくまでもリアルなオチでまとめた読後感スッキリのエンタメ短編です。転生モノではありません!
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる