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七海美桜

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文車妖妃(ふぐるまようひ)の涙

告白・下

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 蹴られたバケツはゴロゴロと転がり、隅で止まると工場の中は和葉の嗚咽だけが響いていた。
「そんな事はないわ! あの子がレイプされようが、私には関係ない! あははは、いい気味よ!」
「やめてくれ!」
 祥平が、膝から崩れ落ちた。床に手を着き、涙を零している。

「『HAND』に登録している、『KOKOMI』という名前は、璃子さんと貴女の名前からとったんでしょ? 貴女にとってあのハンドメイド工房は、璃子さんとの子供の様なものだったんでしょ?」
 櫻子の言葉は静かで、しかし優し気に美晴に語りかけた。ぎこちなく櫻子に向けられる美晴の瞳から、涙が溢れてきた。

「――シアン化ナトリウムは、ここに来た時にこっそり少しずつ袋に入れて持ち帰ったわ。伝票も少しずつ使用履歴を改竄かいざんして、分からないようにしました」

「違います! 刑事さん、それは私がやって美晴に渡したんです!」

「……お母さん、有難う。もう大丈夫だから…だから……有難う、今まで。お母さんだけは、私の味方でいてくれて。お母さんが傍にいてくれて、私を守ってくれたから私は生きてこられた」
 再び美晴を抱き締めて和葉が叫ぶが、美晴は涙が溢れる瞳を細めて横に首を振った。そして、家庭や工場を護る為に荒れてしまった、年を取った母の手をレースの手袋を付けた手で撫でた。

「岡崎の遺書は、――多分、アルコールとマイリーでトリップしてる岡崎にシアン化ナトリウム入りの缶珈琲を飲ませてから、アドレス帳にある適当な……『社長』というアドレスに送ったのね? それがパソコンのアドレスだと確認せずに。彼は、パソコンのメールをあまり見ないのよ……送る相手を考えていたから、彼の死亡から時間が経ってしまった」
 櫻子の言葉に、美晴は少し驚いた顔をした。これは、美晴の初めての失態だったのだろう。

「もしそうなら、――彼が乗ったタクシーは……? 誰が彼に、マイリーを注射したの? 彼が消えてから死ぬまでの時間の意味は? まだ他に、この事件に関わっている人物がいるの?」
 一時過ぎから、五時前までは岡崎は生きていたはずだ。岡崎の死亡時刻は、五時から六時。四時間もの空白の間に、『誰か』が美晴に連絡して、岡崎を殺すように仕向けたとしか考えられない。美晴と岡崎が直接連絡を取っていたとは、考えられなかった。

「ゴフッ!」

「いやぁ、美晴!!」
 突然美晴が嘔吐して、大きく体を仰け反らせると痙攣けいれんしだした。櫻子は、彼女がシアン化ナトリウムを摂取していた事を、瞬時に理解した。和葉が倒れた美晴の頭を膝に乗せて、彼女の名を叫ぶ。櫻子は美晴の許に駆け寄る。

「篠原君、救急車!」
 美晴が死んでしまえば、三人目の――この事件を上手く操っていた人物の存在が、誰なのか分からない。美晴が死を覚悟していたなら、その存在に関する物はもう処分しているはずだ。彼女の口から聞かなければ、きっと分からない。

「美晴さん! しっかりして、誰なの!? あなた達に交換殺人を仕向けた人は!!」
「……い」
 だんだんと虚ろな瞳になる美晴が、何かを呟いた。
「何?」
「……かあ……さ……ん、かんけ……な……おね……けいじ……さ……」
 美晴は、この殺人に母は関係ないと櫻子に訴えているのだろう――多分、シアン化ナトリウムを改竄して渡していたのは、間違いなく和葉だ。だが、櫻子はもう死に逝く美晴の願いを受け入れた。
「分かってるわ、和葉さんはこの事件に何も関係していない……何の罰も受けないわ」
 その言葉に安心したように、美晴は祥平に視線を向けた――だが、もう弟の姿は見えてはいないのかもしれない。
「ご……め……ね……」
 震える手を彼女は弟に差し出す。祥平は駆け寄り、その手を強く握った。
「姉ちゃん! 姉ちゃん!」
「ごめ……ん……」
 その言葉を最後に、美晴から全ての力が消えた。祥平の手から、レースの手袋を付けた手が滑り落ちる。
「――姉ちゃん……」
 和葉と祥平は、美晴の体に縋りついて泣いた。ただ一人、離れた所で呆然と立っていた稔は深くため息を零した。

「ボス、美晴さんの所持品にスマホなどは見当たりません。家にもなければ、多分もう岡崎のスマホと一緒に処分したんじゃないでしょうか?」
 美晴の乗ってきた青い車を確認した笹部が、まだ美晴の傍で膝を着いている櫻子に報告した。その言葉にはっと我に返った櫻子は、立ち上がって笹部を振り返って頷いた。
「蕪城さんに連絡して――鑑識課も忘れずに連れてくるように。それと美晴さんの家の家宅捜査令状も、急いで用意する様に」
 笹部はスマホを取り出して、天満署に連絡をする。

「――綺麗に晴れていたんですよ」

 ふと、稔が呟いた。櫻子は、何処か老け込んだような彼に視線を向けた。
「美晴が生れる前、おおきな台風が来てたんです。せやけど、美晴が生れると台風はもう去って――空が眩しく光ってました――小さな頃、工場の横で余った素材で、美晴は何かを組み立てて笑っていました。俺は、美晴とどうして向き合えなかったんやろ……」

 その答えを、櫻子は知らない。

 それから三分ほどして、救急車が到着した。だがもう、美晴は冷たくなっていた。

「岡崎が、やりすぎたんですね」

 少し前にも、笹部はその言葉を口にしていた。それを、櫻子はどこか遠くで聞いていた。
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