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文車妖妃(ふぐるまようひ)の涙
過去・上
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「ボッティチェッリの『チェステッロの受胎告知』を下絵として描いているわ」
美晴の工房は、小さいが綺麗に整理整頓がされていていた。今工房を広く占拠しているのは、パネルと貼りかけの色鮮やかなカラス片、はんだやパテなどだ。下絵のデザイン画も置かれている。
受胎告知は、キリスト教の聖書の内の一冊である『新約聖書』の『ルカ福音書』での大天使ミカエルが、マリアに神の子であるイエス・キリストの受胎を告知するシーンの一部だ。
一般にキリストの誕生で知られるのは、処女懐胎だ。しかし、『マタイ福音書』ではマリアの夫ヨセフ夢で告げるなど、解釈の違いでイエス・キリストの誕生の話は多岐に分れる。しかし『ルカ福音書』の受胎告知は昔から画家に人気があり、沢山の画家がそのシーンを後世に残している。
「ルネサンス期がお好きなんですか?」
櫻子の言葉に、美晴は少し嬉しそうに頷いた。
「ええ、華やかで豪華で――それでいてどこか儚いあの時代の雰囲気が、昔から好きなんです。この受胎告知も、戸惑うマリアが印象的で好きなんです。ガブリエルを作り終えたら、急いで長崎に送ります。そして、またハンドメイド制作作家の生活に戻ります」
製作途中のステンドガラスは、大天使ガブリエルがまだ作りかけだった。告知を告げられた右側のマリアは戸惑いを見せるのだが、その顔はどこか璃子に見えた。清楚であどけなく幼い、璃子の雰囲気を連想させる。
「美晴さんは、ガラス工芸を習っていたんですね。指輪やブレスレットなども制作されているとの事ですが……?」
「ええ。シンプルな作品は他の制作者の方も作られているので、私は好きなルネサンス期をイメージした作品が多いんです。ルネサンス期と言えば金細工なので、シルバーで作った作品を親の工場に頼んで、金メッキ工程の依頼を頼んでいます。純金のアクセサリーは脆いので、あまり作りたくないんです」
櫻子は、あの映像の女を思い出す。髪の色や長さは違うが、体形は美晴と似ているようにも見える。そして、あの指輪だ。画像が荒くて細工は判別できないが、石が大きくてそちらの印象が強くきらびやかなイメージではなかった。美晴が好きなルネサンス調の作風ではないが、もしあれがハンドメイド作品なら、探しても見つからないのかもしれない。
しかし、何故美晴が? あまり接点のなさそうな二人の動機が思い浮かばない。
「美晴さんは、収入はハンドメイド作品やブログ収入だけですか? 株や投資はされていませんか?」
「いいえ? 残念ながら、株式の知識はありませんしリスキーな事には手を出さないように、親から小さい頃から教えられました。作品作りに入ると、株の動きを見張ることも出来ません。生活費以外は、貯金しています」
美晴の言葉に、嘘はないだろう。淀みなくはっきりとそう櫻子に答えた。
「美晴さんは、恋人や結婚には興味ないのですか?」
櫻子は、わざと脈絡のない質問を投げかける。急な質問に見せる美晴の様子を、そっと窺っているのだ。
「結婚には興味ありません。恋人は――昔は居ましたけれど、今は居ませんし新しく作る気もありません。でも独り身のままで老後に弟に迷惑かけるつもりはありませんので、あまりお金は使わず貯金するように心がけています」
恋人の話になると、美晴の声音が僅かに震えた。また、弟の話にも表情が強張った――もしかすると、璃子もその事に関係しているのだろうか?
「お忙しいのにすみません。美晴さんが教育実習に行っていた時期と、実習に行った学校を調べて下さい。急ぎませんので、タブレットに送ってくださって構いません」
『いいよ、それぐらい調べるのは簡単だから――あ。箕面に行ってるなら、『紅葉天ぷら』買ってきてね。名物なんだろう? 食べたことがないから、頼むね』
美晴の家の外に出た篠原は、曽根崎警察署で留守番をしている笹部に電話をかけていた。スマホの向こうから、のんびりとした笹部の声が聞こえてきた。そういえば、箕面は紅葉が有名で食用の天ぷらで作った揚げ菓子が有名だ。
しかしそんな笹部の頼みを聞きながら、自分が出た後自動的に鍵が閉まる音がしたので、どうやって戻ろうかと篠原は頭の隅で考えていた。
「分かりました、買って帰ります」
何とかそう返事が出来たのは、篠原にしては上出来だった。
『あ、それと――ボスに、また花が届いているよ。伝えておいてね』
「え?」
驚いた篠原はその話をしようと言葉を続けようとしたが、彼の耳元で通話が切れる音が聞こえた。かけ直そうとしたが、急いでも変わらないだろう。曽根崎警察に帰ってから、確認すればいい事だ――それがまたあの『桐生』からの届ものなら、何か手掛かりがあるのかもしれない。でもそれは、櫻子が見なければ分からないだろう、と。
篠原はそう思いスマホを直して櫻子に電話でもしようかとした時、美晴の家の前の道路を通ってきた車が目に入った。そのまま敷地内に入って、彼女のだろう青色の軽自動車の横に停車させるのを見ていた。
『吉川金属加工工場』と名前の入った軽トラックだ。
「祥平さん……?」
車から降りてきたのは、先ほど会った璃子の夫で美晴の弟である祥平だった。
「すみません、先ほどは両親がいたのでお話がしにくくて……」
頭を下げて、彼は篠原に歩み寄った。そして、ふと辺りを見渡す。
「あの女刑事さんと姉は家の中ですか?」
「はい、自分は電話する用事があったので家から出たんです。我々に何か?」
祥平は美晴の家に視線を向けてから、再び篠原に向き直って小さく頷いた。
「俺と璃子と――姉さんの事について、お話しておかないといけない事があるんです」
祥平の言葉に、篠原はポケットに入っているボイスレコーダーのスイッチを押した。聞き漏らしてはいけない、櫻子がいない今自分がしっかりと聞かなければいけないのだと気を引き締めた。
美晴の工房は、小さいが綺麗に整理整頓がされていていた。今工房を広く占拠しているのは、パネルと貼りかけの色鮮やかなカラス片、はんだやパテなどだ。下絵のデザイン画も置かれている。
受胎告知は、キリスト教の聖書の内の一冊である『新約聖書』の『ルカ福音書』での大天使ミカエルが、マリアに神の子であるイエス・キリストの受胎を告知するシーンの一部だ。
一般にキリストの誕生で知られるのは、処女懐胎だ。しかし、『マタイ福音書』ではマリアの夫ヨセフ夢で告げるなど、解釈の違いでイエス・キリストの誕生の話は多岐に分れる。しかし『ルカ福音書』の受胎告知は昔から画家に人気があり、沢山の画家がそのシーンを後世に残している。
「ルネサンス期がお好きなんですか?」
櫻子の言葉に、美晴は少し嬉しそうに頷いた。
「ええ、華やかで豪華で――それでいてどこか儚いあの時代の雰囲気が、昔から好きなんです。この受胎告知も、戸惑うマリアが印象的で好きなんです。ガブリエルを作り終えたら、急いで長崎に送ります。そして、またハンドメイド制作作家の生活に戻ります」
製作途中のステンドガラスは、大天使ガブリエルがまだ作りかけだった。告知を告げられた右側のマリアは戸惑いを見せるのだが、その顔はどこか璃子に見えた。清楚であどけなく幼い、璃子の雰囲気を連想させる。
「美晴さんは、ガラス工芸を習っていたんですね。指輪やブレスレットなども制作されているとの事ですが……?」
「ええ。シンプルな作品は他の制作者の方も作られているので、私は好きなルネサンス期をイメージした作品が多いんです。ルネサンス期と言えば金細工なので、シルバーで作った作品を親の工場に頼んで、金メッキ工程の依頼を頼んでいます。純金のアクセサリーは脆いので、あまり作りたくないんです」
櫻子は、あの映像の女を思い出す。髪の色や長さは違うが、体形は美晴と似ているようにも見える。そして、あの指輪だ。画像が荒くて細工は判別できないが、石が大きくてそちらの印象が強くきらびやかなイメージではなかった。美晴が好きなルネサンス調の作風ではないが、もしあれがハンドメイド作品なら、探しても見つからないのかもしれない。
しかし、何故美晴が? あまり接点のなさそうな二人の動機が思い浮かばない。
「美晴さんは、収入はハンドメイド作品やブログ収入だけですか? 株や投資はされていませんか?」
「いいえ? 残念ながら、株式の知識はありませんしリスキーな事には手を出さないように、親から小さい頃から教えられました。作品作りに入ると、株の動きを見張ることも出来ません。生活費以外は、貯金しています」
美晴の言葉に、嘘はないだろう。淀みなくはっきりとそう櫻子に答えた。
「美晴さんは、恋人や結婚には興味ないのですか?」
櫻子は、わざと脈絡のない質問を投げかける。急な質問に見せる美晴の様子を、そっと窺っているのだ。
「結婚には興味ありません。恋人は――昔は居ましたけれど、今は居ませんし新しく作る気もありません。でも独り身のままで老後に弟に迷惑かけるつもりはありませんので、あまりお金は使わず貯金するように心がけています」
恋人の話になると、美晴の声音が僅かに震えた。また、弟の話にも表情が強張った――もしかすると、璃子もその事に関係しているのだろうか?
「お忙しいのにすみません。美晴さんが教育実習に行っていた時期と、実習に行った学校を調べて下さい。急ぎませんので、タブレットに送ってくださって構いません」
『いいよ、それぐらい調べるのは簡単だから――あ。箕面に行ってるなら、『紅葉天ぷら』買ってきてね。名物なんだろう? 食べたことがないから、頼むね』
美晴の家の外に出た篠原は、曽根崎警察署で留守番をしている笹部に電話をかけていた。スマホの向こうから、のんびりとした笹部の声が聞こえてきた。そういえば、箕面は紅葉が有名で食用の天ぷらで作った揚げ菓子が有名だ。
しかしそんな笹部の頼みを聞きながら、自分が出た後自動的に鍵が閉まる音がしたので、どうやって戻ろうかと篠原は頭の隅で考えていた。
「分かりました、買って帰ります」
何とかそう返事が出来たのは、篠原にしては上出来だった。
『あ、それと――ボスに、また花が届いているよ。伝えておいてね』
「え?」
驚いた篠原はその話をしようと言葉を続けようとしたが、彼の耳元で通話が切れる音が聞こえた。かけ直そうとしたが、急いでも変わらないだろう。曽根崎警察に帰ってから、確認すればいい事だ――それがまたあの『桐生』からの届ものなら、何か手掛かりがあるのかもしれない。でもそれは、櫻子が見なければ分からないだろう、と。
篠原はそう思いスマホを直して櫻子に電話でもしようかとした時、美晴の家の前の道路を通ってきた車が目に入った。そのまま敷地内に入って、彼女のだろう青色の軽自動車の横に停車させるのを見ていた。
『吉川金属加工工場』と名前の入った軽トラックだ。
「祥平さん……?」
車から降りてきたのは、先ほど会った璃子の夫で美晴の弟である祥平だった。
「すみません、先ほどは両親がいたのでお話がしにくくて……」
頭を下げて、彼は篠原に歩み寄った。そして、ふと辺りを見渡す。
「あの女刑事さんと姉は家の中ですか?」
「はい、自分は電話する用事があったので家から出たんです。我々に何か?」
祥平は美晴の家に視線を向けてから、再び篠原に向き直って小さく頷いた。
「俺と璃子と――姉さんの事について、お話しておかないといけない事があるんです」
祥平の言葉に、篠原はポケットに入っているボイスレコーダーのスイッチを押した。聞き漏らしてはいけない、櫻子がいない今自分がしっかりと聞かなければいけないのだと気を引き締めた。
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