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文車妖妃(ふぐるまようひ)の涙
疑惑・下
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電車の中で篠原のタブレットに送られた掲示板を確認して、櫻子は気が重くなった。匿名性の掲示板だからこその、悪意や妬みの塊を見るのは疲れる。死体を見るよりも、精神的にきついと感じた。
「レイプ事件が報告されているのは、御手洗玲子さんの件だけみたいだけど……相当女癖が悪い人みたいね」
「お酒や賭け事はしない代わりに、女性関係は手あたり次第みたいですね。同じ男として彼を見ても、正直好ましくないです」
篠原らしい言葉だった。彼が最も嫌う、だらしない男だった。
「あら? この人、手柄を取ってることもあるのね」
セクハラや顧客の妻の寝取り話の中、数件「あいつに顧客取られた」と書き込んでいる人物がいた。余程恨んでいたのか同じ内容の書き込みを何度かしていたが、女関係の書き込みが多くてその話題はすぐに流れて消えた。
梅田に着くと、電車を乗り換えて淀屋橋駅へと向かった。淀屋橋は大阪でも有数のオフィス街だ。銀行や会社が沢山店を構えていて、一日中人通りも多い。村岡証券は駅から近い場所で、櫻子達は直ぐに会社の前に到着した。
「すみません、警察です」
受付で手帳を見せると、梶との面接を受付嬢に頼んだ。既に天満署の刑事が来ていただろうからか、受付嬢は手早く空き部屋に櫻子と篠原を通して珈琲を運んでくる。
「梶です。刑事さんとは、朝にも話しましたが……」
ノックして部屋に入ってきたのは、焦燥した面持ちの男だった。整った顔立ちをしているが、疲れ切った様子が彼を老けさせてみせているのだろう。二十七歳には見えなかった。
「すみません、部署が違いますので。私は曽根崎署の一条と、こちらは篠原です」
櫻子が頭を下げると、梶も頭を下げて正面のソファに座った。
「お話というのは……羽場さんの事ですよね」
軽くため息を零して、梶がそう切り出した。櫻子は頷く。
「御手洗玲子さんの事は、とても残念に思います。被害に遭われたとき、警察に届けなかったのですか?」
「レイプから三か月経っていて、玲子は僕に何も言ってくれませんでした。証拠も、彼女の遺書しかありません。それに……彼女は死んでしまったんです、もうあの人を訴えても仕方ないんです。それで、玲子が喜ぶとは思えません」
「五月十五日の金曜日午前十時から午後十三時までのアリバイを聞かせて頂きたいのですが」
「朝は九時に店を開けますが、社員は大体七時から八時前には出勤しています。僕もその日は七時過ぎに出勤してます」
梶はそう言うと、タイムカード代わりにスマホで登録する出勤通知の画面を表示して、それを櫻子に見せた。確かに時間は、七時二十一分と記録されている。
「それに、出勤していた同僚と挨拶もしているので、確認してくださって構いません。確かに僕はあの人を恨んでいますが――殺す勇気はありません」
梶は、悔しさをにじませた声音でそう呟いた。自分の弱さを、恥じているようだった。2年経っても、彼の時間は止まっているのかもしれない。
「彼の相手をしていた女性たちの事を知っていますか?」
梶は横に首を振った。しかし、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「そう言えば、援助交際をしていると聞きました」
「援助交際?」
意外な言葉に、櫻子は眉を顰めた。まさか、未成年者にまで手を出していたというのだろうか。
「若い子ではありません。あの人もさすがに手あたり次第で女性に手を出すのはまずいと感じたようで、ネットの出会いで書きこんでいる主婦の募集に応募しているらしいです」
「主婦?」
確かに、主婦ならこの時間帯でも仕事をしていなければ、学生や会社員より動きやすい時間帯だ。
「同じ営業部の岡崎が、あの人にその出会いアプリを紹介したんです。会社の女の子から営業部への苦情が多くて、仕事が回らない時期があって本当に困っていたんです。だから岡崎が紹介したサイトで、あの人の興味を外に向けたんです。独身で成績もいいですから、お金は持っていたと思います。後腐れもないからあの人に合ったようで、午前は大抵そこで知り合った女性とホテルに行っていたと思います。だから、ラブホテルで死体が発見されても誰も驚きませんでした」
彼の行動は、日常的だったのだ。だからこそ逆に、それを狙われたのかもしれない。篠原は一応監視カメラの女の姿を梶に見せたが、彼は知らないと答えた。
「ざまぁみろ――って、笑いたかったんです。でも、まだあの人が死んだ実感もないし玲子の墓に報告するまでは、何も考えられません」
梶は背広のポケットから財布を取り出して、その財布から折りたたまれた少し黄色くなった紙を抜き取った。
「玲子の解剖が終わった後――子供のDNA鑑定をして貰ったんです。警察にも、玲子の両親にも言っていません」
梶の瞳から、涙が一筋流れ落ちてその紙を濡らした。
「僕と玲子の子供でした――刑事さん、僕は大切な存在を二人も亡くしたのに、仇も取れなかった弱虫なんです……あの男を殺した犯人に感謝しか出来ない、弱い男です……」
櫻子も篠原もかける言葉が見当たらなかった。肩を震わせる梶の嗚咽が止む迄、静かに珈琲を飲んでいた。
その日の珈琲の採点を、櫻子は口にしなかった。
「レイプ事件が報告されているのは、御手洗玲子さんの件だけみたいだけど……相当女癖が悪い人みたいね」
「お酒や賭け事はしない代わりに、女性関係は手あたり次第みたいですね。同じ男として彼を見ても、正直好ましくないです」
篠原らしい言葉だった。彼が最も嫌う、だらしない男だった。
「あら? この人、手柄を取ってることもあるのね」
セクハラや顧客の妻の寝取り話の中、数件「あいつに顧客取られた」と書き込んでいる人物がいた。余程恨んでいたのか同じ内容の書き込みを何度かしていたが、女関係の書き込みが多くてその話題はすぐに流れて消えた。
梅田に着くと、電車を乗り換えて淀屋橋駅へと向かった。淀屋橋は大阪でも有数のオフィス街だ。銀行や会社が沢山店を構えていて、一日中人通りも多い。村岡証券は駅から近い場所で、櫻子達は直ぐに会社の前に到着した。
「すみません、警察です」
受付で手帳を見せると、梶との面接を受付嬢に頼んだ。既に天満署の刑事が来ていただろうからか、受付嬢は手早く空き部屋に櫻子と篠原を通して珈琲を運んでくる。
「梶です。刑事さんとは、朝にも話しましたが……」
ノックして部屋に入ってきたのは、焦燥した面持ちの男だった。整った顔立ちをしているが、疲れ切った様子が彼を老けさせてみせているのだろう。二十七歳には見えなかった。
「すみません、部署が違いますので。私は曽根崎署の一条と、こちらは篠原です」
櫻子が頭を下げると、梶も頭を下げて正面のソファに座った。
「お話というのは……羽場さんの事ですよね」
軽くため息を零して、梶がそう切り出した。櫻子は頷く。
「御手洗玲子さんの事は、とても残念に思います。被害に遭われたとき、警察に届けなかったのですか?」
「レイプから三か月経っていて、玲子は僕に何も言ってくれませんでした。証拠も、彼女の遺書しかありません。それに……彼女は死んでしまったんです、もうあの人を訴えても仕方ないんです。それで、玲子が喜ぶとは思えません」
「五月十五日の金曜日午前十時から午後十三時までのアリバイを聞かせて頂きたいのですが」
「朝は九時に店を開けますが、社員は大体七時から八時前には出勤しています。僕もその日は七時過ぎに出勤してます」
梶はそう言うと、タイムカード代わりにスマホで登録する出勤通知の画面を表示して、それを櫻子に見せた。確かに時間は、七時二十一分と記録されている。
「それに、出勤していた同僚と挨拶もしているので、確認してくださって構いません。確かに僕はあの人を恨んでいますが――殺す勇気はありません」
梶は、悔しさをにじませた声音でそう呟いた。自分の弱さを、恥じているようだった。2年経っても、彼の時間は止まっているのかもしれない。
「彼の相手をしていた女性たちの事を知っていますか?」
梶は横に首を振った。しかし、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「そう言えば、援助交際をしていると聞きました」
「援助交際?」
意外な言葉に、櫻子は眉を顰めた。まさか、未成年者にまで手を出していたというのだろうか。
「若い子ではありません。あの人もさすがに手あたり次第で女性に手を出すのはまずいと感じたようで、ネットの出会いで書きこんでいる主婦の募集に応募しているらしいです」
「主婦?」
確かに、主婦ならこの時間帯でも仕事をしていなければ、学生や会社員より動きやすい時間帯だ。
「同じ営業部の岡崎が、あの人にその出会いアプリを紹介したんです。会社の女の子から営業部への苦情が多くて、仕事が回らない時期があって本当に困っていたんです。だから岡崎が紹介したサイトで、あの人の興味を外に向けたんです。独身で成績もいいですから、お金は持っていたと思います。後腐れもないからあの人に合ったようで、午前は大抵そこで知り合った女性とホテルに行っていたと思います。だから、ラブホテルで死体が発見されても誰も驚きませんでした」
彼の行動は、日常的だったのだ。だからこそ逆に、それを狙われたのかもしれない。篠原は一応監視カメラの女の姿を梶に見せたが、彼は知らないと答えた。
「ざまぁみろ――って、笑いたかったんです。でも、まだあの人が死んだ実感もないし玲子の墓に報告するまでは、何も考えられません」
梶は背広のポケットから財布を取り出して、その財布から折りたたまれた少し黄色くなった紙を抜き取った。
「玲子の解剖が終わった後――子供のDNA鑑定をして貰ったんです。警察にも、玲子の両親にも言っていません」
梶の瞳から、涙が一筋流れ落ちてその紙を濡らした。
「僕と玲子の子供でした――刑事さん、僕は大切な存在を二人も亡くしたのに、仇も取れなかった弱虫なんです……あの男を殺した犯人に感謝しか出来ない、弱い男です……」
櫻子も篠原もかける言葉が見当たらなかった。肩を震わせる梶の嗚咽が止む迄、静かに珈琲を飲んでいた。
その日の珈琲の採点を、櫻子は口にしなかった。
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