アナグラム

七海美桜

文字の大きさ
上 下
34 / 188
今宵彼女の夢を見る

対面・下

しおりを挟む
 曽根崎警察に戻ると、櫻子は暫くデスクのソファに凭れるように座って瞳を閉じてそのままの態勢で動かなかった。
 午後五時になると「今日はもう帰りましょう」と、櫻子はまだ報告書が出来上がっていないにもかかわらず二人に帰るように言った。二人を部屋から出すと何度も確認をして部屋を閉める。篠原は櫻子が心配でマンションまで送ると言ったが、櫻子は首を横に振った。

 櫻子は、一人でミナミに来ていた。今日は少し、人が多い所で飲みたい気分だった。難波駅から近い名古屋コーチンがメインの居酒屋を見つけると、店内に入る。一人で入店したのに、何故か櫻子は個室に通された。

 普段はワインを好んで飲んでいた櫻子だが、その日は珍しく日本酒にした。おつまみも何点か頼み、周りの賑やかな声を聞きながら酒を口に運んで、少し酔いが回った頃だった。
「やあ、櫻子さん」
 そこに現れたのは、『セシリア』のオーナーであり『桜海會』の若頭である香田雪之丞だった。ミナミで会うのは不思議ではないが、初めて訪れた居酒屋で意外な人との対面に櫻子は一瞬唖然とした。
「香田さん……貴方、何故ここに?」
「櫻子さんに花束を持って行かせた若いのがいたやろ? 池田です。あいつが、この店に一人で入るあんたを見かけたらしく、連絡してきたんですわ」
 香田は櫻子に断りもなく彼女の向かいの席に腰を落とすと、慌てて来た店員に日本酒の追加を頼んだ。
「だからって、どうして?」
「ま、綺麗な顔見て酒が飲めるんなら、そんな機会逃すんは野暮やろ?」
 運ばれてきたのは、久保田という銘柄の『萬寿まんじゅ』純米大吟醸だった。高い酒で、普段飲みするような酒ではない。日本酒をあまり知らない櫻子でも、それくらいは知っていた。

「櫻子さんは、普段ワインやないですか?」
 櫻子は、普段なら香田が同席するのは断っていた。彼は反社会勢力者だ、警察官としてそれは許されるものではない。しかし、蒼馬と会って緊張と動揺で櫻子は誰かと居たかったのだ。篠原には分からなかったが、櫻子も緊張していたのだ――そうして、それは先ほどまでも続いていた。
「少し、気分を変えたかったの」
 萬寿は辛口だが飲みやすく、櫻子は十分味を楽しみながら喉に流した。
「櫻子さんは、警視なんでしょう? こんな、大阪の所轄なんかにいるような立場じゃないんやないやろ? エリートなら、東京で上目指さなあかんやろ」
 香田も、酒を飲み櫻子が頼んでいたつまみを口にした。
「警察官も、サラリーマンと変わらないわ。辞令が出れば、それに従うだけよ。それより、お店大丈夫なの?」
 酒が入っているせいか、櫻子の口調から他人行儀さが少なくなってきた。香田は酒のお替りを頼む。
「ああ、二日ほど店休ませてたけどもう再開して、いつも通りや。アイリは辞めるかと思ってたけど、今日も店出てるわ」

 サキとユウの自供の時にいたアイリ。彼女の心の傷にならなければ、と櫻子は少し胸が痛んだ。

「どないしたんや?」
 香田が、ふと櫻子の顔を怪訝そうに見つめた。
「え?」
 問われた櫻子は、何の事か分からない。
「唇、血が滲んでる」
 香田の言葉に、櫻子はそれを思い出した。血は止まっていたが、酒で血行が良くなりまた傷口が開いたのかもしれない。
「何でもないわ、自分で噛んだだけ」
 蒼馬の事も思い出してしまうので、櫻子は詳しく説明しなかった。すると、香田が軽く手招きする。
「何?」
 大きな声で話せない事かと、櫻子は前に身を乗り出し香田に近づいた。すると香田が櫻子の細い顎を指でつまんで顔を寄せて、その傷を舐めた。
「し、失礼しました!」
 丁度酒のお替りを持ってきた店員がその場面に遭遇して、酒を置くと慌てて去っていった。
「ちょっと、何で舐めるのよ。血が好きなの?」
 櫻子は身を捩り香田の手を離すと、座り直して彼を軽く睨んだ。「私、誰でもいいほど男に困ってないわよ」ともぼやいた。
「舐めたら傷が早く塞がるって、昔おかんによく言われてたからな。アンタも欲しいけど、そんな簡単に手に入るほど安い女やとは思ってへん」
 香田は楽しげに笑うと、スマホを取り出すと短い文面のメールを打ったようで直ぐにそれをスーツに直した。

 改めて彼を観察する。高級ブランドのダブルのスーツを着ているが、嫌味がなく彼によく似合っていた。年の頃を想定して、無駄肉のない締まった若々しい体付きだ。整った男らしい顔立ちで、微かに漂う香りは『エゴイスト』と名付けられたブランドのものだろう。女の扱いにも長けていて、清潔感がある。黙っていれば、反社会勢力者ではなくどこかの社長の様だ。

「そろそろ、私帰るわ。明日も早いし」
「ちょっと待ってや……あ、来たわ」
 ほろ酔いになった櫻子は、腕時計に視線を落とすと香田にそう声をかけた。それを止めた香田の声と共に、息を切らした池田が店に飛び込んできた。
「若、……お待たせ……しまし……た……」
 荒い息を繰り返して、手にしていたラッピングされた袋を取り出す。それを受け取った香田は、そのまま櫻子に差し出す。
「え? 受け取れないわ」
「別に、非難されるようなもんやない。今のアンタに必要なもんや」
 怪訝そうな顔で、櫻子は袋の包みを解いた。すると、中から薬用のリップが三本顔を覗かせた。
「……」
 櫻子は、思わずくすりと笑みを零した。関西最大の暴力団の若頭が、女の為に薬用リップを買って来いと下の者にメールしていた姿を思い出したのだ。その姿は、どこかに可愛らしさを感じた。
「会計を――」
「あ、ねえさん! タクシー呼びますんで行きましょう!」
 店員を呼ぼうとした櫻子に、池田が慌てて櫻子の背中を押した。香田を振り返るが、彼は穏やかな笑みを櫻子に向けていた。小さく櫻子は頭を下げ、池田に押されるまま店を後にした。

「――今の人ですか?」
 池田達と入れ違いに店に入ってきた男が、櫻子が座っていた席に腰を落とした。髪を撫でつけてきっちりと整え、細いフレームの眼鏡をかけたいかにも知的そうなイメージの、香田とはまた違った整った顔のすらりとした男だった。淡い色のスーツ姿で、きっちりネクタイを締めている。
「ああ、真田。一条櫻子が、なんで大阪に来たか調べてくれ。どんなことでも、一つもらさんようにな」
 香田は櫻子に見せて居た顔とは違う、何処か鋭い顔つきでそう彼に命じた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

赤い部屋

山根利広
ホラー
YouTubeの動画広告の中に、「決してスキップしてはいけない」広告があるという。 真っ赤な背景に「あなたは好きですか?」と書かれたその広告をスキップすると、死ぬと言われている。 東京都内のある高校でも、「赤い部屋」の噂がひとり歩きしていた。 そんな中、2年生の天根凛花は「赤い部屋」の内容が自分のみた夢の内容そっくりであることに気づく。 が、クラスメイトの黒河内莉子は、噂話を一蹴し、誰かの作り話だと言う。 だが、「呪い」は実在した。 「赤い部屋」の手によって残酷な死に方をする犠牲者が、続々現れる。 凛花と莉子は、死の連鎖に歯止めをかけるため、「解決策」を見出そうとする。 そんな中、凛花のスマートフォンにも「あなたは好きですか?」という広告が表示されてしまう。 「赤い部屋」から逃れる方法はあるのか? 誰がこの「呪い」を生み出したのか? そして彼らはなぜ、呪われたのか? 徐々に明かされる「赤い部屋」の真相。 その先にふたりが見たものは——。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

―異質― 邂逅の編/日本国の〝隊〟、その異世界を巡る叙事詩――《第一部完結》

EPIC
SF
日本国の混成1個中隊、そして超常的存在。異世界へ―― とある別の歴史を歩んだ世界。 その世界の日本には、日本軍とも自衛隊とも似て非なる、〝日本国隊〟という名の有事組織が存在した。 第二次世界大戦以降も幾度もの戦いを潜り抜けて来た〝日本国隊〟は、異質な未知の世界を新たな戦いの場とする事になる―― 日本国陸隊の有事官、――〝制刻 自由(ぜいこく じゆう)〟。 歪で醜く禍々しい容姿と、常識外れの身体能力、そしてスタンスを持つ、隊員として非常に異質な存在である彼。 そんな隊員である制刻は、陸隊の行う大規模な演習に参加中であったが、その最中に取った一時的な休眠の途中で、不可解な空間へと導かれる。そして、そこで会った作業服と白衣姿の謎の人物からこう告げられた。 「異なる世界から我々の世界に、殴り込みを掛けようとしている奴らがいる。先手を打ちその世界に踏み込み、この企みを潰せ」――と。 そして再び目を覚ました時、制刻は――そして制刻の所属する普通科小隊を始めとする、各職種混成の約一個中隊は。剣と魔法が力の象徴とされ、モンスターが跋扈する未知の世界へと降り立っていた――。 制刻を始めとする異質な隊員等。 そして問題部隊、〝第54普通科連隊〟を始めとする各部隊。 元居た世界の常識が通用しないその異世界を、それを越える常識外れな存在が、掻き乱し始める。 〇案内と注意 1) このお話には、オリジナル及び架空設定を多数含みます。 2) 部隊規模(始めは中隊規模)での転移物となります。 3) チャプター3くらいまでは単一事件をいくつか描き、チャプター4くらいから単一事件を混ぜつつ、一つの大筋にだんだん乗っていく流れになっています。 4) 主人公を始めとする一部隊員キャラクターが、超常的な行動を取ります。ぶっ飛んでます。かなりなんでも有りです。 5) 小説家になろう、カクヨムにてすでに投稿済のものになりますが、そちらより一話当たり分量を多くして話数を減らす整理のし直しを行っています。

この欠け落ちた匣庭の中で 終章―Dream of miniature garden―

至堂文斗
ミステリー
ーーこれが、匣の中だったんだ。 二〇一八年の夏。廃墟となった満生台を訪れたのは二人の若者。 彼らもまた、かつてGHOSTの研究によって運命を弄ばれた者たちだった。 信号領域の研究が展開され、そして壊れたニュータウン。終焉を迎えた現実と、終焉を拒絶する仮想。 歪なる領域に足を踏み入れる二人は、果たして何か一つでも、その世界に救いを与えることが出来るだろうか。 幻想、幻影、エンケージ。 魂魄、領域、人類の進化。 802部隊、九命会、レッドアイ・オペレーション……。 さあ、あの光の先へと進んでいこう。たとえもう二度と時計の針が巻き戻らないとしても。 私たちの駆け抜けたあの日々は確かに満ち足りていたと、懐かしめるようになるはずだから。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...