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今宵彼女の夢を見る
プロローグ
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「ようやく工事が終わったみたいやな。警視が来られる前で、ホンマに助かったわ」
暫く煩く鳴り響いていた工事音が無くなり作業員の姿がなくなると、大阪曽根崎警察署の室生署長は飲み残していた珈琲を一息で喉に流して、ゆっくりと立ち上がった。
「しかし、なんでまたエリートさんがうちへ? 本店でキャリア積むのがええんと違うんですか?」
室生の前に立っていた市井副署長は、手にしていた書類を眺めた。彼が手にしているのは、春の人事辞令書だ。
「一条櫻子二十五歳。春生まれで、今年で二十六歳ですな。京大出身でこの春警視になる、異例のスピード出世の女性エリートさんや。なんや、一条警視が大阪に来るんはかなり前から決まってたそうやな。本店も女性の幹部を増やすために、最近は派手な事しとるな」
室生が歩き出して署長室を出ると、市井副署長も後に続いた。二人が完成をに届けたのは、警視庁から来る彼女の為だけの部屋だった。内示前に警視庁の刑事局長から直々に連絡を貰い、慌てて空いていたこの部屋を指示通りに改造した。
「特別心理犯罪課って、どんな仕事をするんですか?」
曽根崎警察署に新しく作られたのは部屋だけではない。新しい『特別心理犯罪課』も、用意された。彼女は、この春から曽根崎署に作られたその課の責任者として任命され、警視庁から異動してくることになっている。
「主に特異な犯人が起こした事件の捜査、に特化した課だと聞いていますが……一条警視と、彼女と一緒に本店から来る警部補とうちの新人で、捜査できるものなのでしょうかねぇ?」
新しい部屋は、三人の部屋としては広めで、来客用のスペースもある。彼女の役職から考えて、署長は自分の部屋以上の広さと調度品を用意した。少し苦い思いが、彼にはあった。
「ま、一年か二年で本店に戻りはるやろ。俺らは、一条警視が居はる間は彼女の機嫌取りして過ごしたらええ」
「結構な美人らしいですよ。広報的にも、彼女の出世は警察の印象良くするんとちゃいますか?」
「エリートで美人なんて、ドラマみたいやな。恵まれてはる人は、やっぱりちゃうなぁ」
市井副署長の言葉に室生署長は溜息と共に頭を掻いて、真新しくなった部屋を見渡した。彼はいわゆる叩き上げなので、定年までにこれ以上の出世は望めそうにない。新人とそう変わらないまだ二十五歳の女性が受ける待遇に、内心はあまり良くは思っていなかった。しかし、はっきりとその思いを口にすることは出来なかった。
「失礼します!」
突然ドアがノックされ、聞き覚えのない男の声が聞こえた。室内の二人は、その声に振り返る。
「誰や?」
「明後日からこちらに配属になります、篠原大雅巡査部長です!」
「入りなさい」
特別心理犯罪課の一人だ。室生署長がそう声をかけると、若い男が部屋に入ってきて頭を下げた。
「部屋の準備で明日からこちらに来るように言われていましたので、今日は一先ず挨拶に参りました。どうぞよろしくお願いします」
市井副署長は、手にしていた特別心理犯罪課の資料書類をめくる。
篠原大雅。二十八歳。大阪中央区南署の道頓堀交番からの、出世と異動だ。彼もエリートではなく、平凡な警察官だ。これから本店から来る二人のエリートの世話をすることになる彼を、室生署長は僅かに哀れんだ。彼が正義感が強そうで、逞しい体躯の青年だったからかもしれない――自分にも、夢や希望を抱いていた若い時期があった。
「署長の室生と、副署長の市井や。交番勤務とは勝手が違うとは思うが、頑張ってくれ。期待してるよ」
「はい!」
差し出された室生の手を握り返して、篠原はもう一度頭を下げた。
「分かってるわ、心配しないで。もう私もいい年よ?」
スマホに向かって、彼女は困ったような笑みを浮かべながら答えた。前下がりのボブカットの色味は、暗めのブラウン。気の強そうな大きな瞳と青味のある紅い唇。細身の体だが、胸や尻を主張するような黒いスーツ姿だった。
「故郷に帰るんだもの、楽しみの方が大きいわ――それに、ようやく会えるんだもの」
片手に握られているワイングラスを揺らすと、赤い液体がゆらゆらと漂う。
「私は、この時を待っていたのよ」
一条櫻子はそう言って電話を切ると、引っ越し作業を終えてガランとした部屋を振り返り、瞳を閉じた。そして――そのワイングラスを壁に向かい、思い切り叩きつけた。グラスは派手に割れて、中の赤ワインが辺りに飛び散り、壁に血のように伝った。
「ようやく会えるわね、――桐生蒼馬」
瞳を開けた櫻子は、その赤い壁を見つめながら微笑んだ。
彼女はこの為に、幼少期から頑張ってきた。自分の人生の多くを犠牲にして――そしてようやく、今までの努力が報われる。
彼女の戦いが、これから始まるのだ。
暫く煩く鳴り響いていた工事音が無くなり作業員の姿がなくなると、大阪曽根崎警察署の室生署長は飲み残していた珈琲を一息で喉に流して、ゆっくりと立ち上がった。
「しかし、なんでまたエリートさんがうちへ? 本店でキャリア積むのがええんと違うんですか?」
室生の前に立っていた市井副署長は、手にしていた書類を眺めた。彼が手にしているのは、春の人事辞令書だ。
「一条櫻子二十五歳。春生まれで、今年で二十六歳ですな。京大出身でこの春警視になる、異例のスピード出世の女性エリートさんや。なんや、一条警視が大阪に来るんはかなり前から決まってたそうやな。本店も女性の幹部を増やすために、最近は派手な事しとるな」
室生が歩き出して署長室を出ると、市井副署長も後に続いた。二人が完成をに届けたのは、警視庁から来る彼女の為だけの部屋だった。内示前に警視庁の刑事局長から直々に連絡を貰い、慌てて空いていたこの部屋を指示通りに改造した。
「特別心理犯罪課って、どんな仕事をするんですか?」
曽根崎警察署に新しく作られたのは部屋だけではない。新しい『特別心理犯罪課』も、用意された。彼女は、この春から曽根崎署に作られたその課の責任者として任命され、警視庁から異動してくることになっている。
「主に特異な犯人が起こした事件の捜査、に特化した課だと聞いていますが……一条警視と、彼女と一緒に本店から来る警部補とうちの新人で、捜査できるものなのでしょうかねぇ?」
新しい部屋は、三人の部屋としては広めで、来客用のスペースもある。彼女の役職から考えて、署長は自分の部屋以上の広さと調度品を用意した。少し苦い思いが、彼にはあった。
「ま、一年か二年で本店に戻りはるやろ。俺らは、一条警視が居はる間は彼女の機嫌取りして過ごしたらええ」
「結構な美人らしいですよ。広報的にも、彼女の出世は警察の印象良くするんとちゃいますか?」
「エリートで美人なんて、ドラマみたいやな。恵まれてはる人は、やっぱりちゃうなぁ」
市井副署長の言葉に室生署長は溜息と共に頭を掻いて、真新しくなった部屋を見渡した。彼はいわゆる叩き上げなので、定年までにこれ以上の出世は望めそうにない。新人とそう変わらないまだ二十五歳の女性が受ける待遇に、内心はあまり良くは思っていなかった。しかし、はっきりとその思いを口にすることは出来なかった。
「失礼します!」
突然ドアがノックされ、聞き覚えのない男の声が聞こえた。室内の二人は、その声に振り返る。
「誰や?」
「明後日からこちらに配属になります、篠原大雅巡査部長です!」
「入りなさい」
特別心理犯罪課の一人だ。室生署長がそう声をかけると、若い男が部屋に入ってきて頭を下げた。
「部屋の準備で明日からこちらに来るように言われていましたので、今日は一先ず挨拶に参りました。どうぞよろしくお願いします」
市井副署長は、手にしていた特別心理犯罪課の資料書類をめくる。
篠原大雅。二十八歳。大阪中央区南署の道頓堀交番からの、出世と異動だ。彼もエリートではなく、平凡な警察官だ。これから本店から来る二人のエリートの世話をすることになる彼を、室生署長は僅かに哀れんだ。彼が正義感が強そうで、逞しい体躯の青年だったからかもしれない――自分にも、夢や希望を抱いていた若い時期があった。
「署長の室生と、副署長の市井や。交番勤務とは勝手が違うとは思うが、頑張ってくれ。期待してるよ」
「はい!」
差し出された室生の手を握り返して、篠原はもう一度頭を下げた。
「分かってるわ、心配しないで。もう私もいい年よ?」
スマホに向かって、彼女は困ったような笑みを浮かべながら答えた。前下がりのボブカットの色味は、暗めのブラウン。気の強そうな大きな瞳と青味のある紅い唇。細身の体だが、胸や尻を主張するような黒いスーツ姿だった。
「故郷に帰るんだもの、楽しみの方が大きいわ――それに、ようやく会えるんだもの」
片手に握られているワイングラスを揺らすと、赤い液体がゆらゆらと漂う。
「私は、この時を待っていたのよ」
一条櫻子はそう言って電話を切ると、引っ越し作業を終えてガランとした部屋を振り返り、瞳を閉じた。そして――そのワイングラスを壁に向かい、思い切り叩きつけた。グラスは派手に割れて、中の赤ワインが辺りに飛び散り、壁に血のように伝った。
「ようやく会えるわね、――桐生蒼馬」
瞳を開けた櫻子は、その赤い壁を見つめながら微笑んだ。
彼女はこの為に、幼少期から頑張ってきた。自分の人生の多くを犠牲にして――そしてようやく、今までの努力が報われる。
彼女の戦いが、これから始まるのだ。
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