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第三話 夜の戸張

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 さて、とマリアが呟き、わたしの方を向いた。好奇心に満ちた、金色の瞳を前髪の間から覗かせる。

「私、常識をまったく知らないの。可能なかぎり教えてちょうだい?」

 自信満々に、常識を知らないと宣言され、困惑する。
 知らないと言っても限度がある。しかし、本当に常識を知りたいということが、次に発せられた言葉から分かった。

「国の名前とか、お金とか。あと、魔法について?」
「え、ええと、国の名前は、トール厶です。この大陸で南に位置しています。わたし達がいるのは、その中でも南です。もっといけば、海が見えるのだとか……」

 律儀に答えたけど、この国にいて、国名を知らないなんてことないだろう。現に、ものすごく興味がなさそうにしている。
 わたしが黙ったのに気づいて、目で続きを促してきた。

「お金は、国ごとに通貨が違うので、ひとまずトール厶のお金を説明しますね。ラルド硬貨と言って、王都で創られる特別な硬貨が、三種類あります」
「三種類?」

 まさかお金も知らないなんてことはないと思うけど、初めて聞いたような素振りをするので、先生にでもなった気分だ。

「はい。赤ラルド、青ラルド、紫ラルドです。十枚で赤は青に、そして青が三十枚で紫に両替できます」
「例えもほしいわ。何で何が買えるのか」
「えーと、赤ラルド二枚で、パンが買えますね。青が一枚で、丸一日宿屋に宿泊できます」

 そう教えると、マリアが首を傾げた。

「赤は二百円ぐらい……? 一日でどの程度稼げるのかしら」
「出稼ぎにいって、一日働ければ赤ラルド七枚ぐらいです」
「んん、かなり世知辛いわね」
「まぁ、硬貨ではなく物々交換で成り立つことが多いですから……」
「ふぅん。ま、お金のことはもういいわ。考えるのも面倒だわ」

 せっかく説明したが、結局興味はなさそうだった。

「じゃ、じゃぁ、次は魔法について」
「魔法! 気になるわ。どういうものなの?」

 今までで最も食いつきのいい反応に、怯んでしまう。でも、魔法があることは知っているようだったし、明らかに無かったはずの手足を元通りにしたのは、魔法な気がする。
 チグハグな受け答えをするマリアを不思議に思いながら、知ってる限りを教える。

「魔法は生まれ持った才能と、血筋に大きく左右されます。後天的に魔法を扱えるようになることは、ほぼないです」
「へぇ。なら、ほとんど予備動作なしで魔法を打ってくるようなのは、すごい魔法使いなのかしら?」
「魔法には、個性こそありますが、詠唱してイメージすることが大事らしいです。なので、詳しくないですけど、そういうのは魔術なんじゃないかと」
「魔術? あぁ、でも、聞いたことがあるわ。魔法とはまた、違うのね?」

 もっともな疑問だった。魔法は使えないし、魔術という分野も、そう詳しくないわたしにうまく説明できるか不安になりながらも解説する。

「魔術は、術式と触媒の組み合わせで作る新たな分野だと、本で見たことがあります」
「強いのかしら?」
「強い、というよりは、もしも完成すれば便利……? だいたいは魔法でいいですし、触媒を浪費して良い魔術ができるまで研究できるのは、よほどの金持ちで魔法の才能もないと駄目みたいです」
「なんだ、じゃぁあれは運が悪かったのね」

 ほっと胸をなでおろすマリアには、なにか思うところがあるようだったが、追求はしなかった。

「色々教えてもらえて助かるわ。詳しいのね」
「常識の範疇だったので。昔は、文官を目指していましたし……」
「なるほど。あぁ、そういえばもう一つ。魔族ってなにかわかるかしら?」

 思わず首を傾げたが、分からないわけではないので、答える。

「御伽話にでてくる、魔族ですか?」
「御伽話?」
「大昔、魔王とその配下に魔族と魔物がいて、悪さをしていたものの、勇者によって討伐される。だいたいそういお話です」
「ふぅん」
「極稀に賢い魔物が現れるらしいので、もしかしたら本当に、大昔にはいたんじゃないでしょうか」

 魔物と聞いて、マリアが目を瞬いた。

「魔物はいるのね」
「え、はい」
「あれは魔物?」

 そう言って、あまりもう見たくない狼の死体を指差す。

「あれは、狼です。魔物というと、ゴブリンとか。よく畑を荒らしにくるので、農具とかで追い払うんです」
「この森で魔物らしいのは見たことがないわ」
「たしかに、夢中で気が付かなかったけど、ここ数日、魔物には出くわしていないような……」

 森には魔物の巣窟があることが多いので、ここまでいないのは不思議に思える。
 だから、なんとなく言葉が出た。なんてことのない呟きだった。でも、それは大きな大きな分岐点だった。

「まぁ、すぐいっぱい見かけるようになると思います。魔物は影から生まれるなんていいますし」
「影から生まれる?」
「生態がよく分かっていないんです。どれだけ討伐しても、どこからともなく現れる。でも、魔物が生まれる瞬間は、誰も見たことがないから、影から生まれるなんて言われてます」

 よく聞く話だったけど、マリアはそうは思わなかったのか、顔に手を当てて考え込みはじめた。
 そこまで深く考えることがあるかな? と思っていると、マリアが怪しい笑みを浮かべた。
 そして、木によってとくに暗くなっている場所へ数歩歩き、止まった。

「あの……?」

 杖をついて、マリアの横に立つ。マリアは何も言わないまま、そっと右腕を伸ばし、手のひらを上に向ける。
 ゴポゴポと、水の湧き出るような音が、聞こえる。音のする場所は、マリアの手のひらだった。
 驚いて見ていると、溢れ返るように、真っ黒な液体が、マリアの手のひらから零れ落ちる。
 地面に即座に吸収されるかのように、音もなく黒い液体が、木の影に溶け込んでいく。


 やがて、トプンと水の中から浮かび上がるような音と共に、緑色の頭が影から飛び出した。
 縁を掴むようにして、さらに両腕が影から出てくる。体を持ち上げ、水場から上がるように。
 そうして姿を表したのは、わたしの半分程度の体躯に、緑色の皮膚。まごうこと無くゴブリンだった。

「ギ、ギ……魔王、様」
「ゴ、ゴブリンが喋った……」

 言語を発するゴブリンに驚いていると、さっとゴブリンがこちらを向いた。

「失礼、ナ……我は、偉大なるチャンピオンオークだ――」

 わたしに向かって言葉を発していたゴブリンが、突然自分の体をあちこち触り始めた。

「ば、ばかな。喋りにくい上に、女にしてはやたらでかいと思ってはいたが、よもや。ゴブリンだと!?」
「賑やかね。変なのを出してしまったわ」

 マリアの発言に、ゴブリンが振り向き、項垂れた。

「魔王様も、かように弱き姿に……」
「私は、その魔王とやらではないわよ?」
「い、いや。たしかに魔王様の気配。器に記憶が戻っていない……?」

 呆然と、マリアとゴブリンのやり取りを見ていたら、マリアがわたしに向かって微笑んだ。

「今日はもう遅いし、テレサは眠るといいわ。明日、近くの村でも町でも向けて出発しましょう」
「あ、はい……」
「私も、これを出しただけで疲れたわ。ままならないわね」
「魔王様……」

 未練がましく、マリアに話しかけようとしたゴブリンに、シー、と人差し指をたてて静かにするように示した。
 その金色の瞳にはまったく感情がこもっておらず、気圧されたゴブリンが肩を落として少し離れた場所で丸まった。
 少しだけ、可哀想だなと思った。
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