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千代女が澄和藩で消息を絶ってから半年後。
御側御用取次の大曾根上野介は、磯田安芸守からの茶の湯の誘いを受けていた。
「二階堂紀伊守より報告があったぞ、例の忍び、澄和藩で処理したようじゃ」
「おお、そうでございますか」
頭を下げる大曾根を、磯田はよいよいという手振りで止めさせる。
「今回の件で磯田様にはお世話になり申した。もしあの報告書が上様の目に触れていたらと思うと、冷や汗が出る思いでございます」
「ははっ、そなたの御祖父には世話になったからのう。これで借りが返せたというものじゃ」
磯田は笑いながら、千代女が苦労して作った報告書を火鉢へと放り込む。
報告書は結局、将軍の目に触れることは無かった。
それどころか磯田は、先に大曾根に見せていた。
それ故に大曾根は先手を打って澄和藩に情報を流し、千代女を捕らえさせたというわけだ。
「しかし紀伊守も、よい趣味をお持ちじゃの」
「然り、あの方の加虐趣味は理解できませぬ」
「ま、その趣味のおかげで、儂は澄和藩に手伝普請を了承させることができたのだがな」
言いながら磯田がフンと鼻で笑う。
幕府が澄和藩に手伝普請を命じた時、藩主の二階堂は見返りを要求してきた。
「幕府のくの一をひとり、澄和藩へ送っていただきたい。普通の女子を拷問しても、簡単に壊れてしまってつまらぬのです」
そう二階堂から要求を突き付けられていた時に、大曾根の不正の証拠を磯田へ持ち込んできたのが千代女であった。
磯田からしてみれば、まさに葱をしょってきた鴨である。
「やれやれ、これでようやく志吹川の治水の件も片付いたわ」
「くの一ひとりの命で幕府の支出を20万両浮かせるとは、さすがご老中、仕事ができますなあ」
「幕府の役に立てて、あの娘もきっと喜んでいるであろうよ」
「おまけに我らの不正も明るみにならずに済んで一石二鳥、いや三鳥の策でしたな、わっはっはっ」
磯田と大曾根が声を上げて笑う。
火鉢の中では千代女の作った報告書が炭となっていた。
「さて、そろそろお開きとするか、もうすぐ登城の準備じゃ」
「そういえば我らには、水戸藩の七郎麻呂様を接待するお役目がありましたな」
大曾根がポンと膝を叩くと、二人は立ち上がって部屋から出た。
そして渡り廊下を歩きながら話を続ける。
「七郎麻呂様はまだ10歳とはいえ、一橋家を相続される方じゃ。くれぐれも粗相のないようにな」
「はい、神童との評判ですからな。そのような方が御三卿の当主となれば、徳川家もますます安泰というものでございます」
「さよう、千代女とかいう娘は幕府が滅びるなど不敬なことをぬかしたが、こうして我らがお役目を果たしている限り、そんなことはあり得ぬよ」
「然り然り、神君が造りし太平を守るこの努力、知恵の足りぬ下々の者には理解できぬので御座いましょうなあ」
屋敷の廊下を歩きながら、磯田と大曾根は大声で笑う。
江戸の空は、今日も日本晴れであった。
これは弘化4年、1847年の物語。
6年後の嘉永5年には、マシュー・ペリー提督率いる艦隊が浦賀へとやってきて、日本は幕末と呼ばれる動乱の時代へと入る。
そして20年後の慶応3年、元服し七郎麻呂から慶喜と名を改めた最後の将軍が、大政奉還を行い朝廷に政権を返上。
江戸幕府は事実上の滅亡を迎えた。
自分たちが生きている間に盤石と思われた世界がひっくり返る。
それは今の磯田と大曾根には想像さえできぬ事であった。
御側御用取次の大曾根上野介は、磯田安芸守からの茶の湯の誘いを受けていた。
「二階堂紀伊守より報告があったぞ、例の忍び、澄和藩で処理したようじゃ」
「おお、そうでございますか」
頭を下げる大曾根を、磯田はよいよいという手振りで止めさせる。
「今回の件で磯田様にはお世話になり申した。もしあの報告書が上様の目に触れていたらと思うと、冷や汗が出る思いでございます」
「ははっ、そなたの御祖父には世話になったからのう。これで借りが返せたというものじゃ」
磯田は笑いながら、千代女が苦労して作った報告書を火鉢へと放り込む。
報告書は結局、将軍の目に触れることは無かった。
それどころか磯田は、先に大曾根に見せていた。
それ故に大曾根は先手を打って澄和藩に情報を流し、千代女を捕らえさせたというわけだ。
「しかし紀伊守も、よい趣味をお持ちじゃの」
「然り、あの方の加虐趣味は理解できませぬ」
「ま、その趣味のおかげで、儂は澄和藩に手伝普請を了承させることができたのだがな」
言いながら磯田がフンと鼻で笑う。
幕府が澄和藩に手伝普請を命じた時、藩主の二階堂は見返りを要求してきた。
「幕府のくの一をひとり、澄和藩へ送っていただきたい。普通の女子を拷問しても、簡単に壊れてしまってつまらぬのです」
そう二階堂から要求を突き付けられていた時に、大曾根の不正の証拠を磯田へ持ち込んできたのが千代女であった。
磯田からしてみれば、まさに葱をしょってきた鴨である。
「やれやれ、これでようやく志吹川の治水の件も片付いたわ」
「くの一ひとりの命で幕府の支出を20万両浮かせるとは、さすがご老中、仕事ができますなあ」
「幕府の役に立てて、あの娘もきっと喜んでいるであろうよ」
「おまけに我らの不正も明るみにならずに済んで一石二鳥、いや三鳥の策でしたな、わっはっはっ」
磯田と大曾根が声を上げて笑う。
火鉢の中では千代女の作った報告書が炭となっていた。
「さて、そろそろお開きとするか、もうすぐ登城の準備じゃ」
「そういえば我らには、水戸藩の七郎麻呂様を接待するお役目がありましたな」
大曾根がポンと膝を叩くと、二人は立ち上がって部屋から出た。
そして渡り廊下を歩きながら話を続ける。
「七郎麻呂様はまだ10歳とはいえ、一橋家を相続される方じゃ。くれぐれも粗相のないようにな」
「はい、神童との評判ですからな。そのような方が御三卿の当主となれば、徳川家もますます安泰というものでございます」
「さよう、千代女とかいう娘は幕府が滅びるなど不敬なことをぬかしたが、こうして我らがお役目を果たしている限り、そんなことはあり得ぬよ」
「然り然り、神君が造りし太平を守るこの努力、知恵の足りぬ下々の者には理解できぬので御座いましょうなあ」
屋敷の廊下を歩きながら、磯田と大曾根は大声で笑う。
江戸の空は、今日も日本晴れであった。
これは弘化4年、1847年の物語。
6年後の嘉永5年には、マシュー・ペリー提督率いる艦隊が浦賀へとやってきて、日本は幕末と呼ばれる動乱の時代へと入る。
そして20年後の慶応3年、元服し七郎麻呂から慶喜と名を改めた最後の将軍が、大政奉還を行い朝廷に政権を返上。
江戸幕府は事実上の滅亡を迎えた。
自分たちが生きている間に盤石と思われた世界がひっくり返る。
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