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春の洗礼を受けて僕は
3話 木曜日3
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水温を低くしたシャワーにあたると、思わずふうと声が出た。
夏伊の呼吸が、水流に混じって流れていく。
このマンションは知っていた。この土地は、元は大きな邸宅が建っていた。中学のころから、通学の際、車中から進捗を見ていた建物だ。人気がなくなって草木が建物を覆うように伸び、板塀が割れて隙間ができる様はなんとも言えない気分だった。
ある日建物の解体工事が始まり、あっと言う間に基礎ができて、先月には、風合いの良いマンションに置き換わった。
中が気になっていたけれど、実際に室内に入ることになるとは思っていなかったが。
夏伊の住む古い家とは違って、新築の真新しいにおいが漂っている。
そう広くはないだろう2LDK。しかしオーバーヘッドシャワーが設置されていたり、LDKの壁は造作の本棚になっていたりと、住み手の希望がぎゅっと詰め込まれていて、おもしろい。
壁面いっぱいに詰められた多ジャンルの本が、リビングをカラフルに仕上げている。
あとで蔵書を見せてもらおうと思いつつ、水栓を閉めて浴室を出る。
脱衣場の洗濯機の上に、タオル、オーバーサイズのTシャツとルームウェアらしいズボンが置いてあった。体を拭いて服を開き、これなら着られるなと確認する。
「制服とタオルは洗濯機に入れといてー。あとで洗濯回して、乾燥かけるから」
了解と返して洗濯機の蓋を開けると、服が入っていた。
洗濯機の画面に“乾燥が終わりました。やわらかキープ中です”と表示されている。
「木之内、洗濯機の中にある服は出すよ」
聞くと、ドドドと大きな足音とともにドアがバーン!と開いた。
勢い、顔を真っ赤に染めた木之内が、夏伊の手にある服をひったくる。
「あ! りがと!」
そのまま脱衣場を出ていく。
「お、おう」
何をそんなに慌てているんだ?
素っ裸のまま、香月は立ち尽くすしかなかった。
なんとも変な空気のまま食卓に着いたが、牛しぐれ煮の乗った卵あんかけうどんを一口すすると、気分が一気にほぐれた。
「おいしいな」
よかった、と木之内がぎこちなく笑う。
鼻は利かないものの、なんとも優しい味わいであることはわかる。
牛しぐれ煮に合わさっている針生姜が、いいアクセントになっている。
上に散らされたのは、九条ネギだろうか。一緒に食べると、あんかけに少しずつ醤油の味がしみだして、ネギが小気味よく歯に当たって青い香りを放つ。
「木之内、料理上手なんだな」
素直に褒めると、慌てながら、しぐれ煮は作り置きのだし…とか、うどんは冷凍のだし…とか、変に恐縮している。
何だかおもしろくなったので、「この卵あんはいま作ったんだろ?」と聞く。
「この溶き卵、塊になってないし味もちょうどいいし、最高にうまい」
実際のところ、ダマのないほどよいとろみのあんと、それに混じることなく薄い膜を保つ卵もまた、評価に値する美しさだと思った。
当の木之内は、いやそんな…とか、たまたまだから…とつぶやきながら、どんどん猫背になっていく。
「香月はおいしいものいっぱい食べてるでしょ…。なんか…スミマセン…」
「クラスメートに敬語使うのってどうなの」
「いや…なんか…ね」
夏伊が幼稚舎からのエスカレーター組であることを知っているのだろう。要は金持ちと思われていて、それを否定する要素もない。
中高等部からの編入組から見れば、異様に入りづらいグループがあると見られていることも、たまにいる変に媚びを売ろうとする人間がうっとうしくて跳ねのけている自覚もある。傍目には、ずいぶんと尊大な態度に取られただろう。
「いつもステーキフォアグラ蟹ばっか食べてるわけじゃないから。好き放題食べてたら、こんないいカラダは保てない。不健康だろ」
そもそも俺はこういう薄味が好きなの。舌が繊細だからと言うと、鼻もだね、付け足される。
まあね両手を広げると、木之内がようやくアハハと笑い声を出した。土気色より赤面より、よっぽどいい顔だ。
このマンションは知っていたと話すと、そう、と相槌が返ってきた。
「前は千葉に住んでたんだ。母さんの働く研究所が、そっちにあったから」
本社に転属する内示が出たから、東京に引っ越すことになった。そのタイミングでこのマンションの計画を知り、マンションの近くにある、母親の母校でもあった今の高校に通うことになった。受かってよかったよ、とまた笑った。
しばらく、うどんをすする音が響く。
ごちそうさま、おれもシャワー浴びてくると言って、木之内が席を立った。ダイニングテーブルのすぐ横にあるドアを開け、着替えを持って去る。
無音かと思っていたリビングだが、スマートスピーカーからかすかに、耳障りのよい音楽が流れていた。
うちよりよっぽどなんでも揃ってるな、と思うと笑いがこみ上げる。
どんぶりを持ち、あんかけを飲み干した。
窓の向こうで桜の木が揺れる。
キッチンに立ち、鼻炎の薬を口にほおり、水を一気に飲み干した。
夏伊の呼吸が、水流に混じって流れていく。
このマンションは知っていた。この土地は、元は大きな邸宅が建っていた。中学のころから、通学の際、車中から進捗を見ていた建物だ。人気がなくなって草木が建物を覆うように伸び、板塀が割れて隙間ができる様はなんとも言えない気分だった。
ある日建物の解体工事が始まり、あっと言う間に基礎ができて、先月には、風合いの良いマンションに置き換わった。
中が気になっていたけれど、実際に室内に入ることになるとは思っていなかったが。
夏伊の住む古い家とは違って、新築の真新しいにおいが漂っている。
そう広くはないだろう2LDK。しかしオーバーヘッドシャワーが設置されていたり、LDKの壁は造作の本棚になっていたりと、住み手の希望がぎゅっと詰め込まれていて、おもしろい。
壁面いっぱいに詰められた多ジャンルの本が、リビングをカラフルに仕上げている。
あとで蔵書を見せてもらおうと思いつつ、水栓を閉めて浴室を出る。
脱衣場の洗濯機の上に、タオル、オーバーサイズのTシャツとルームウェアらしいズボンが置いてあった。体を拭いて服を開き、これなら着られるなと確認する。
「制服とタオルは洗濯機に入れといてー。あとで洗濯回して、乾燥かけるから」
了解と返して洗濯機の蓋を開けると、服が入っていた。
洗濯機の画面に“乾燥が終わりました。やわらかキープ中です”と表示されている。
「木之内、洗濯機の中にある服は出すよ」
聞くと、ドドドと大きな足音とともにドアがバーン!と開いた。
勢い、顔を真っ赤に染めた木之内が、夏伊の手にある服をひったくる。
「あ! りがと!」
そのまま脱衣場を出ていく。
「お、おう」
何をそんなに慌てているんだ?
素っ裸のまま、香月は立ち尽くすしかなかった。
なんとも変な空気のまま食卓に着いたが、牛しぐれ煮の乗った卵あんかけうどんを一口すすると、気分が一気にほぐれた。
「おいしいな」
よかった、と木之内がぎこちなく笑う。
鼻は利かないものの、なんとも優しい味わいであることはわかる。
牛しぐれ煮に合わさっている針生姜が、いいアクセントになっている。
上に散らされたのは、九条ネギだろうか。一緒に食べると、あんかけに少しずつ醤油の味がしみだして、ネギが小気味よく歯に当たって青い香りを放つ。
「木之内、料理上手なんだな」
素直に褒めると、慌てながら、しぐれ煮は作り置きのだし…とか、うどんは冷凍のだし…とか、変に恐縮している。
何だかおもしろくなったので、「この卵あんはいま作ったんだろ?」と聞く。
「この溶き卵、塊になってないし味もちょうどいいし、最高にうまい」
実際のところ、ダマのないほどよいとろみのあんと、それに混じることなく薄い膜を保つ卵もまた、評価に値する美しさだと思った。
当の木之内は、いやそんな…とか、たまたまだから…とつぶやきながら、どんどん猫背になっていく。
「香月はおいしいものいっぱい食べてるでしょ…。なんか…スミマセン…」
「クラスメートに敬語使うのってどうなの」
「いや…なんか…ね」
夏伊が幼稚舎からのエスカレーター組であることを知っているのだろう。要は金持ちと思われていて、それを否定する要素もない。
中高等部からの編入組から見れば、異様に入りづらいグループがあると見られていることも、たまにいる変に媚びを売ろうとする人間がうっとうしくて跳ねのけている自覚もある。傍目には、ずいぶんと尊大な態度に取られただろう。
「いつもステーキフォアグラ蟹ばっか食べてるわけじゃないから。好き放題食べてたら、こんないいカラダは保てない。不健康だろ」
そもそも俺はこういう薄味が好きなの。舌が繊細だからと言うと、鼻もだね、付け足される。
まあね両手を広げると、木之内がようやくアハハと笑い声を出した。土気色より赤面より、よっぽどいい顔だ。
このマンションは知っていたと話すと、そう、と相槌が返ってきた。
「前は千葉に住んでたんだ。母さんの働く研究所が、そっちにあったから」
本社に転属する内示が出たから、東京に引っ越すことになった。そのタイミングでこのマンションの計画を知り、マンションの近くにある、母親の母校でもあった今の高校に通うことになった。受かってよかったよ、とまた笑った。
しばらく、うどんをすする音が響く。
ごちそうさま、おれもシャワー浴びてくると言って、木之内が席を立った。ダイニングテーブルのすぐ横にあるドアを開け、着替えを持って去る。
無音かと思っていたリビングだが、スマートスピーカーからかすかに、耳障りのよい音楽が流れていた。
うちよりよっぽどなんでも揃ってるな、と思うと笑いがこみ上げる。
どんぶりを持ち、あんかけを飲み干した。
窓の向こうで桜の木が揺れる。
キッチンに立ち、鼻炎の薬を口にほおり、水を一気に飲み干した。
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