憂いの空と欠けた太陽

弟切 湊

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就職祝い

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ことり、と目の前に置かれたのは、上品なグラスに入った薔薇の花。
花弁はローストビーフで出来ていて、朝露に見立てたジュレ状のソースがかかっている。そして蔓の代わりに巻かれたレモンピールが添えてあった。この何かの細工のように美しい料理が、ワイングラスの中に収まっているのだから見事な物だ。食べるのが勿体なく感じる。
……まあ、食べない方が勿体ないけど。

そんな芸術品じみたこれは前菜だそうだ。こんなに凝ってるのに、まだまだ序盤だなんて信じられない。

「改めて、遊紗。就職おめでとう」
「頑張ったね、遊紗くん」

料理に手をつける前に、二人がお祝いの言葉をかけてくれた。
僕が就職したお祝いとして、二人でこの席を用意してくれていたんだそうだ。
三人しかいないのに広々とした個室で、誰の目も気にせず食事ができる。しかもコース料理だなんて、絶対高いに決まってる。……前の僕なら申し訳なくて萎縮して、僕なんかにどうしてこんなことしてくれるんだろうって思ったんだろうな。
それを、好意は純粋に受け取って楽しめるようにしてくれた二人には感謝してもしきれない。

せっかく二人が内緒で準備してくれたんだから、目いっぱい楽しまなきゃ失礼だ。前菜の時点でめちゃめちゃ美味しそうだし。お肉はあまり好きではないけど、ローストビーフとかハムとかはまた別だ。

薔薇の花を壊さないようにそっと箸でつまんで口に入れる。噛みごたえがあるのにすっと噛み切れるこれは、きっと凄く上質なお肉のはずだ。その旨みがソースと共にじゅわっと口に広がって、レモンの香りが後味もすっきりさせてくれる。

「え、美味し……」

思わず口に出た言葉に、二人が顔を見合わせた。なんか小動物を見るような目で頬を緩ませている。うっかりリスみたいになってないだろうかと心配になる。
僕の心配をよそに、彼らも食べ始めた。

「ほんと、美味いな」
「美味しいね。シンプルなのに、味が複雑だ」

口に入れた瞬間、目をぱちくりさせて笑顔になった。
一口で顔が綻んでしまうような食事を作るってすごい仕事だな。僕も料理はできる方だけど、当然ながらプロは次元が違う。

食べ終わって余韻に浸る頃、次の料理が運ばれてくる。次は魚と野菜のテリーヌだった。
一般用の市場ではなかなか出回らない、地元の漁師さんたちが身内で食べるような魚が使われているらしい。少ししか採れなくて凄く美味しいから、売らないで皆で食べてしまうそうだ。
その刺身と野菜が寒天で四角く固められていて、見た目も鮮やかだしひんやりしていて美味しい。外はぷるぷるだけど、中はシャキシャキコリコリしてて面白い口当たりだ。ナイフで上品に切って食べるんだけど、だんだんなくなってしまうのが少し寂しい。

コース料理は前菜とスープ、魚料理、肉料理、そしてデザートの流れで進む。三人で他愛のない話をしながら、ゆっくりと食事を続ける。
スープはエビのビスクで、高級エビを丸ごと使った濃厚な一品だ。今まであっさり系だったので、コクのあるスープが一層身にしみる。

魚料理は金目鯛のヴィネグレットソース。ふわふわに焼き上げた金目鯛に、夏の野菜が添えられている。ソースは刻んだ野菜とオリーブオイルや酢で出来た、お洒落且つ健康にも良さそうなものだ。

「……なんか、さっきから僕の好きなものばっかりな気がするんだけど」
「ああ、そういうコースを頼んだからな。さすがに、全部をプロデュースするとか特別なことは出来なかったから、せめて出来るだけ好みの奴をと思ってな」
「有栖たちは楽しめてる?」
「もちろんだ。というか、この日のために減量するくらい楽しみにしてた」

そうか。モデルは体型を維持しなきゃいけないから、思いっきり食べるならその前とか後に調整しないといけないのか。僕はモデルじゃないし、有栖以外知らないからそれほど深く考えたことなかった。
今までにもパーティーの前後に調節してくれてたんだろうか。

「ありがとう。僕のためにいろいろ考えてくれて。こんなに美味しい料理、食べたことないよ」
「はは、それは良かった。俺は遊紗の料理が好きだけど、それとこれとはまた別物だからな。俺も、店の料理では一番美味いと思う」
「私は二人より長く生きていて、それでもなかなか食べられないからね。世の中には毎日食べている人もいるかもしれない。でも、こうして祝いの時だけに食べるのは特別感があっていい。きっと良い思い出になるよ」

ニコニコする二人との話が一段落すると、肉料理が運ばれてきた。内容は定番のステーキなのだが、使われているお肉とか添え物の野菜とかがひと味違う。見た目は変わらないのに、味だけが全然違うのはどういう仕組みなんだろう? ……値段が高いと素材の味も違うってことかな? 例えは良くないけど、有栖が綺麗なのは素材が良いからだし。僕が全く同じ服装に化粧でもモデルにはなれない。それと同じなのかも。

そんなことを考えている僕に気付かず、有栖は好物のお肉をとても嬉しそうに、でも上品に食べている。幸せそうだ。

「有栖、お肉美味しい?」
「めちゃくちゃ美味い」
「僕のもちょっと食べる?」
「え、いらないのか?」
「ううん。ただ、ちょっと多いんだよね。今までのコースメニューだって結構ボリュームあったから。お腹いっぱいになってきたっていうか」
「そうか。確かに無理して食べるものでもないし、それなら俺が食べた方がいいかもな。食べられない分は回してくれ」
「うん」

コース料理、美味しいけど量が半端ないことだけが欠点だ。この時ばかりは全部美味しく食べられる胃袋が欲しい。美味しいのに苦しいのが勿体ない。
冴木さんも若干苦しそうだけど、有栖は全然平気そう。身長あるし、減量してたからだろう。

「そういえば、指輪は良いのを買えたのかい?」
「ああ。互いに満足いくものが買えた」
「お互いの名前と誕生石を入れたんです」
「へえ! それは良いね。私のではないけど、届くのが楽しみだ」

男二人で指輪を買うなんて、人によっては嫌がりそうだけど。冴木さんはそんなことも無く喜んでくれる。そもそも指輪のことを提案してくれたのも冴木さんなんだそうだ。息子同然に面倒を見てきた有栖にそんな提案をするのは、なかなかできることじゃないのに。
本当によく出来た人だと思う。

さっと運ばれてきたデザートは、チョコのミニケーキにラズベリーのソルベだった。飲み物は紅茶かコーヒーが選べて、僕は紅茶にした。

「遊紗くん、就職先は上手くやっていけそう?」
「はい。店長さんは無口なんですけど、優しさと厳しさがいい塩梅で接しやすいです。本に囲まれるのも楽しそうですし」
「遊紗は本が好きなんだったか」
「そう。有栖と会う前は家でずっと読んでた。家事が忙しい日は無理だったけど」
「悪い。もしかして今は読めてないのか?」
「あー……確かに読めてないけど、それは有栖のせいじゃないよ。読まなくても良いくらいやりたいことがいっぱいあるだけだから。家事だって苦じゃないし」
「そうか。ならいい」

読みたい本があれば、寝る前に読める。有栖とは部屋が別だから、有栖の前では滅多に読まないだけだ。

「デザートも美味しかったね。いつになるか分からないけれど、またお祝いごとがあったら来たいな」
「そうだな。次はあんたの退職祝いか?」
「あはは、いつの話をしているんだ。その前にも何かあるかもしれないじゃないか」
「僕の退職祝いとか?」
「っふはは! ちょ、遊紗、真顔で冗談を言うな」
「ふふふっ、遊紗くんが私より先に退職したらお祝いどころじゃなくなってしまうね」

僕のボケが少しウケたところで、このお祝いの席は終了となった。

また次も三人で来れたらいいな。
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