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最終話 さあ、復讐の始まりだ

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 さて、どうしたものか。
 友也は留置場で溜め息を吐いていた。大方の真相が千春によって暴かれてしまった今、小さな嘘もそのうち見抜かれてしまうだろう。警察が本気で調べれば、それこそ友也の発言なんて簡単にひっくり返せる。
 そんな友也の手には、千春のあの論文があった。『人工知能が人間の心を理解するのに何が必要か』という、この総ての事件に通じる論文。ああ、これと出会ったことで、友也の心は大きく揺れ動いてしまったのだと気づく。
「ふふっ」
 それでも嘘を吐いたことに後悔はないのだから、やはり自分は安西を、そして田辺を恨んでいたのだろうと思う。
「哀れだな」
 あの男を本当の父と知らず、弟子入りしただけでなく愛してしまうとは。桃花の行動は理解しがたいことが多い。しかし、友也にとって妹であることには変わりなかった。ただ、彼女は何一つ気づくことなく、そして知ることがなかっただけだ。
 だからこそ、嫉妬に狂って美紅を殺害したのだ。かっとなって腹を刺したようだが、美紅の顔が穏やかだったことから、いずれこうなることを知っていたのだろう。何といっても、二人は同じ部屋で生活していたのだ。そしてともに愛人。なんとも複雑かつ不可解な状況だ。
 そして桃花は、おそらく美紅が安西の子どもを身籠っているのではと疑ったのだ。だから切り裂いた。その辺りは女性にしか解らない何かがあったのだろうが、どうでもいい。
「馬鹿馬鹿しい。どうしてこんなことばかり繰り返される」
 友也が詳しく知ることが出来たのは、あの安西がずっと自分の母にご執心だったおかげだ。あの女のどこにそんな魅力があるのか、金を払ってでも繋ぎ止めたいと思ったのだから、相当な熱の入れようだろう。
 しかし、それは母の方も同じはずで、田辺の言うとおりに友也の存在を隠していたのだからお互い様か。あの老人のどこにそんな魅力があるのか。友也にはさっぱり解らない。その安西は、払っていた金は口止め料としか思っていなかったに違いない。
 そう、あの時千春が指摘したように、互いに親子だと名乗ることは最期までなかった。安西が死ねと命じられて受け入れたのは、桃花を愛していたからに過ぎない。そうでなければ、桃花が入り口まで逃げられたはずがないのだ。だってあの時、犯人である桃花も死ぬはずだったのだから。
「俺も相当な悪者だな」
 友也がこの件に加担した理由はただ一つ。桃花もまた安西か、もしくは田辺の子どもであるという事実を知っているからだ。彼女だけ知らず苦しむことなく、さらには父かもしれない相手と恋に落ちるなんて、許せるはずがないではないか。
 あの時は嘘を吐いたが、友也は安西が父である可能性をずっと小さい頃から知っていた。ペンネームとして安西の名前を使い、個人宅を請け負っていたのは復讐のニュアンスを多分に含んでいることを認めねばならない。どうしてもあの男に復讐したかった。
 そう、復讐だ。家という家族への憧れ。それをあなたはどうしてくれるのか。その問いが、あの名前を選ばせたのだ。それと同時に、絶対に安達の名前で個人宅を受け負えない理由でもあった。誰かが自分の作った家で幸せな家庭を築くことを、友也は感情として処理できなかった。激しい葛藤に苛まれてしまうのだ。そこであのペンネームだ。名前を変えただけなのに、すんなりと仕事が出来るようになったのだから不思議なものである。
 母親の奔放さを考えれば、家庭が冷え切っていたのは当然だ。だからこそ、家族というものへの憧れだけが大きかった。そして、総てを奪った安西が憎いとも。だからこそ、あの安西という苗字で描く家は、総てが友也の負の感情の捌け口だったのだ。どの家も、どこかに奇妙さを含んでいる。あの、安西青龍が住んだ家のように――
 あの家は、いずれ水の重みに耐えられずに安西が死ぬように仕向けて設計したものだ。万が一のために、あのアトリエの仕掛けも付属させておいたのだが、まさか今回の事件で役に立つとは。何がどう作用するか、解ったものではない。
「おい。岡林が目を覚ましたそうだぞ。とはいえ、これからも寝たきりだろうということらしいが」
 復讐への思考を遮った声は、さらに友也の暗い感情に油を注いだだけだった。生き残ったのか。そんな暗い気持ちしか芽生えなかった。
「誰にも愛されないのにな」
 友也はくくっと笑うと事件に思いを馳せた。思えば今回の事件は始まりから皮肉だったではないか。
 画家六十周年のパーティーそのものは安西の発案だった。そこに呼ぶべき招待客は、新進気鋭の人々がいいと主張した。その中に友也が含まれていた。そして、家を建てた間柄とあって意見を求められたのだ。
「お前なら、誰を推薦する?」
「そうですね。人工知能を研究している、椎名千春なんてどうでしょう」
 今考えると、唯一の親子らしい会話だっただろうか。安西は薄々と気づいていたということか。まあ、今となってはどちらでもいい。
「さあ、本当の復讐劇の始まりだ」
 裁判で何もかもぶちまけてやろう。総てを、安西の築き上げた総てを壊す時が来た。名誉も名声も、そして愛した女たちも、総てが泥に塗れる時が来たのだ。
 薄暗い光の中、友也は留置場に来て初めて本当の笑みを浮かべていた。
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