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第50話 隠し子
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「ここからは推測するしかないわけですが、安西先生だけがあのドアの調節を出来たということは、書斎かもしくは書庫にそのスイッチがあるはずです。アトリエの地面が傾くということは、そっち側の方に地下水が溜まりやすいということでもある。その調節をするには、やはり溜まりやすい側であるべきですよね」
千春の確認に、友也は何の反応も示さなかった。しかし、それこそがこの推理が正しいことを裏付けている。
「つまり、どこかにポンプ機能があるはずで、それがアトリエ側に設置されているはずなんです。汲み上げているのだから、ポンプ機能は当然のようにありますよね」
千春のさらなる指摘に、そうかと手を叩いたのは大地だ。天井に溜めるという奇想天外な状況に飲まれて忘れていたが、水が勝手に天井まで上がっていくわけではないのだ。
「こちら側は隈なく探したので解っています。天井に恐らく排水用と思われる穴はあるものの、ポンプに類似するものはなかった。こちら側から調節するのは不可能です。家が区分されているという不自然さも、水が関係していたわけですね。こちら側は天井に穴があるように基本的に排水できる仕組みがあり、傾きやすい向こう側を守るようになっていた。つまり、スイッチはアトリエ側にしかない。それなのに、どうしてアトリエに流入したのか。その謎はポンプの逆回転で説明できますしね。逆回転が出来なければ、ドアの調節はまず不可能となります。もしくは、生活スペースであるこちらが何度か水浸しになっていたはずだ。あの山のような本が目くらましですかね。考えられるのは書庫だと思います」
千春は思いつくまま、考えられる可能性を喋っていた。それはいつもの研究スタイルなのだが、大地や忠文は呆気に取られたようにその様子を見ていた。ただ一人、友也だけがその正体を見たとばかりに、目が鋭くなっている。
「となると、スイッチを押せたのは安西先生しかいない」
「そんな」
「ええ。そうなると、あれは自殺となります」
「いや、それは」
大地と忠文が、それぞれに違うだろうという顔をする。スイッチという点だけでは自殺となってしまう。それは解る。が、実際の現場はそうではなかった。
「ええ。仕上げをしたのは安達さんです」
「なっ」
そこで視線が一気に友也に集まる。友也は何でもないような顔をして再び笑っていた。そこまで解っているならばいいと、まるでそう言っているようだった。千春はその表情からそう読み取っていた。
「水が一気に抜けたということは、ドアは通行可能となっていたはずです。異変に気づいた安達さんは現場に向かった。あの時、俺たちは強烈な眠気で寝ていましたが、その辺にも何か仕掛けがあったんでしょう。唯一眠ることのなかった安達さんは、誰にも見咎められることなく、現場に入ることが出来た。動物も渡り廊下を歩く人間をすぐに襲うことは出来ませんからね。むしろ、ドアの開く音で逃げてくれるでしょう」
「ふふっ。敵いませんね」
そう言って笑う友也だが、その顔は嬉しそうだ。まるで罠に嵌ってしまったような気分になる。ふと忠文を見ると、その目は田辺に向いていた。そうだ。忠文は初めから田辺を疑っていたではないか。その理由はつまり今の眠気にもあるはずだ。
飲み物を提供していたのは田辺である。つまり、何かを仕込むことが出来たのは田辺だけということになる。ではどうやって友也だけが飲まずに済んだのか。当然、友也のカップにだけ睡眠を助長するものがなかったからだ。
頭が急速に回転していく。そうだ。友也がどうして推理をリードしていたのか。それは他に疑いを向けさせないためだ。となると、見落としが必ず存在するはずだ。
安西は昔、旅行好きだった。それなのに、こんな不便な場所にしかも湿地帯に家を建てた。その家の設計をしたのは友也だろう。そうでなければ、今までの推理を補完する情報を提示することは出来ない。
では、二人の関係は何なのか。ただの依頼主と建築家だったのか。それならば、今回初めて会ったと装う必要はなく、友也も初めからこの家を建てたのは自分だと言えばいいだけだ。あえてその事実は秘匿されていた。家の蘊蓄を披露した時でさえ、一度たりとも自分の設計だと感じさせない言い方をしていた。
「二人は、世間的に隠さなければならない何かがあるんですね」
「ええ。そこの顧問弁護士さえ辿り着いていない事実です」
「隠し子、ということですか」
そうなると、ずっと一緒にいた田辺が知っていてもおかしくない。そこで協力関係があったとしても、何もおかしくない。何をどうするかまでは打ち明けられていなかったとしても、初対面の振りをしろということや、飲み物への指示くらいは出していたのだ。
隠し子という事実は、あちこちに旅行した時に出会いがあったと考えると、そして何度も石田が働いていた鎌倉のホテルに泊まっていたことを考えると、すんなりと腑に落ちる。友也の年齢から考えると、安西が四十歳頃の話だ。画家としての地位も確立されてきて、男としても脂の乗ってきた時期。その頃に間違いがあったとしても疑問点はない。
しかし、隠し子さえ知る田辺にまで隠されていたこの天井の仕掛けが引っ掛かる。つまりそれは親子の間の秘密だったはずだ。どうしてそんな秘密が必要だったのか。
それに美紅の死体。腹を引き裂いたのは恐らく共犯者である友也で間違いない。どうしてそんな行動をしたのか。
「二人は心中した。それを岡林さんは止めようとして巻き込まれた」
「さあ」
友也は笑って首を傾げるが、その目に寂しさが過るのを見てしまった。どうやら友也は、自分だけが悪者になりたかったらしい。一体そこにどんな理由があるというのか。いくら自己犠牲に理由がない場合があるとはいえ、事件の犯人役になるというのは利害関係なしには無理だろう。
「遠藤先生は、妊娠していたのか」
「どうでしょう」
友也の顔色には変化がなかった。ということは、妊娠していなかったということか。一体どうやれば友也は真実を語るのだろう。そんな疑問が過る。
「昨日、椎名さんが気に入っていた絵がありましたね」
「えっ」
千春の思考を読んだかのように話題転換され、しかもまったく関係のない話題となり、困惑してしまう。いや、関係あるからこその話題転換なのか。
「安西の絵が変化したのは四十代頃のこと。それまでは、ああいう絵を描きたくても認められなかったため、多少は画壇に評価される絵を描いていたそうです。これは田辺さんが詳しいでしょうね」
そう言って友也は田辺に話題を振る。この人も事件に大きく関わっているという事実が提示された今、隠す必要はないだろうということだ。
「え、ええ。先生の絵は二度、画風が変化しています。デビュー当時、といっても先生がまだ十四の頃ですが、この頃はまだ自由に掻いても許される頃だったからと、非常に曖昧な、そして抽象的な絵を描かれていました。しかし、世間の流れといいますか、大人になったのだからという変化を求められたといいますか、途端に賞が取れなくなったんです。そこで二十代後半から三十代にかけて、先生の絵は少し理解しやすい、モチーフの解りやすいものへと変化したんです。そして、地位が確立され、落ち着いたところで再び抽象度の高い絵を追い求めるようになりました」
田辺はまるで教科書を読むかのようにすらすらと答えた。それは幾度となく説明してきたことなのだろう。淀みのない説明だった。
「地位が確立されたのは四十代」
「ええ。この頃から、題材を求めて旅するようになりました。その場にある空気を描くのだと、そう仰っていましたね」
その辺りがダリのようだと評される所以なのだろうか。現実とは違う世界の絵。しかし、この説明はウィキペディアにあったものであり、事実ではないのかもしれない。そもそも、絵の雰囲気はまったくダリに似ていなかったではないか。あれはひょっとして、友也が付け足したのだろうか。
ウィキペディアは誰でもその内容を書き換えられる。言い換えれば、嘘の記述を載せることも可能だ。それが信頼性が低いと言われる所以でもある。千春も自分の専門分野を調べる場合、ウィキペディアに頼ることは少ない。もし頼ったとしても、後から調べ直すことにしていた。
千春の確認に、友也は何の反応も示さなかった。しかし、それこそがこの推理が正しいことを裏付けている。
「つまり、どこかにポンプ機能があるはずで、それがアトリエ側に設置されているはずなんです。汲み上げているのだから、ポンプ機能は当然のようにありますよね」
千春のさらなる指摘に、そうかと手を叩いたのは大地だ。天井に溜めるという奇想天外な状況に飲まれて忘れていたが、水が勝手に天井まで上がっていくわけではないのだ。
「こちら側は隈なく探したので解っています。天井に恐らく排水用と思われる穴はあるものの、ポンプに類似するものはなかった。こちら側から調節するのは不可能です。家が区分されているという不自然さも、水が関係していたわけですね。こちら側は天井に穴があるように基本的に排水できる仕組みがあり、傾きやすい向こう側を守るようになっていた。つまり、スイッチはアトリエ側にしかない。それなのに、どうしてアトリエに流入したのか。その謎はポンプの逆回転で説明できますしね。逆回転が出来なければ、ドアの調節はまず不可能となります。もしくは、生活スペースであるこちらが何度か水浸しになっていたはずだ。あの山のような本が目くらましですかね。考えられるのは書庫だと思います」
千春は思いつくまま、考えられる可能性を喋っていた。それはいつもの研究スタイルなのだが、大地や忠文は呆気に取られたようにその様子を見ていた。ただ一人、友也だけがその正体を見たとばかりに、目が鋭くなっている。
「となると、スイッチを押せたのは安西先生しかいない」
「そんな」
「ええ。そうなると、あれは自殺となります」
「いや、それは」
大地と忠文が、それぞれに違うだろうという顔をする。スイッチという点だけでは自殺となってしまう。それは解る。が、実際の現場はそうではなかった。
「ええ。仕上げをしたのは安達さんです」
「なっ」
そこで視線が一気に友也に集まる。友也は何でもないような顔をして再び笑っていた。そこまで解っているならばいいと、まるでそう言っているようだった。千春はその表情からそう読み取っていた。
「水が一気に抜けたということは、ドアは通行可能となっていたはずです。異変に気づいた安達さんは現場に向かった。あの時、俺たちは強烈な眠気で寝ていましたが、その辺にも何か仕掛けがあったんでしょう。唯一眠ることのなかった安達さんは、誰にも見咎められることなく、現場に入ることが出来た。動物も渡り廊下を歩く人間をすぐに襲うことは出来ませんからね。むしろ、ドアの開く音で逃げてくれるでしょう」
「ふふっ。敵いませんね」
そう言って笑う友也だが、その顔は嬉しそうだ。まるで罠に嵌ってしまったような気分になる。ふと忠文を見ると、その目は田辺に向いていた。そうだ。忠文は初めから田辺を疑っていたではないか。その理由はつまり今の眠気にもあるはずだ。
飲み物を提供していたのは田辺である。つまり、何かを仕込むことが出来たのは田辺だけということになる。ではどうやって友也だけが飲まずに済んだのか。当然、友也のカップにだけ睡眠を助長するものがなかったからだ。
頭が急速に回転していく。そうだ。友也がどうして推理をリードしていたのか。それは他に疑いを向けさせないためだ。となると、見落としが必ず存在するはずだ。
安西は昔、旅行好きだった。それなのに、こんな不便な場所にしかも湿地帯に家を建てた。その家の設計をしたのは友也だろう。そうでなければ、今までの推理を補完する情報を提示することは出来ない。
では、二人の関係は何なのか。ただの依頼主と建築家だったのか。それならば、今回初めて会ったと装う必要はなく、友也も初めからこの家を建てたのは自分だと言えばいいだけだ。あえてその事実は秘匿されていた。家の蘊蓄を披露した時でさえ、一度たりとも自分の設計だと感じさせない言い方をしていた。
「二人は、世間的に隠さなければならない何かがあるんですね」
「ええ。そこの顧問弁護士さえ辿り着いていない事実です」
「隠し子、ということですか」
そうなると、ずっと一緒にいた田辺が知っていてもおかしくない。そこで協力関係があったとしても、何もおかしくない。何をどうするかまでは打ち明けられていなかったとしても、初対面の振りをしろということや、飲み物への指示くらいは出していたのだ。
隠し子という事実は、あちこちに旅行した時に出会いがあったと考えると、そして何度も石田が働いていた鎌倉のホテルに泊まっていたことを考えると、すんなりと腑に落ちる。友也の年齢から考えると、安西が四十歳頃の話だ。画家としての地位も確立されてきて、男としても脂の乗ってきた時期。その頃に間違いがあったとしても疑問点はない。
しかし、隠し子さえ知る田辺にまで隠されていたこの天井の仕掛けが引っ掛かる。つまりそれは親子の間の秘密だったはずだ。どうしてそんな秘密が必要だったのか。
それに美紅の死体。腹を引き裂いたのは恐らく共犯者である友也で間違いない。どうしてそんな行動をしたのか。
「二人は心中した。それを岡林さんは止めようとして巻き込まれた」
「さあ」
友也は笑って首を傾げるが、その目に寂しさが過るのを見てしまった。どうやら友也は、自分だけが悪者になりたかったらしい。一体そこにどんな理由があるというのか。いくら自己犠牲に理由がない場合があるとはいえ、事件の犯人役になるというのは利害関係なしには無理だろう。
「遠藤先生は、妊娠していたのか」
「どうでしょう」
友也の顔色には変化がなかった。ということは、妊娠していなかったということか。一体どうやれば友也は真実を語るのだろう。そんな疑問が過る。
「昨日、椎名さんが気に入っていた絵がありましたね」
「えっ」
千春の思考を読んだかのように話題転換され、しかもまったく関係のない話題となり、困惑してしまう。いや、関係あるからこその話題転換なのか。
「安西の絵が変化したのは四十代頃のこと。それまでは、ああいう絵を描きたくても認められなかったため、多少は画壇に評価される絵を描いていたそうです。これは田辺さんが詳しいでしょうね」
そう言って友也は田辺に話題を振る。この人も事件に大きく関わっているという事実が提示された今、隠す必要はないだろうということだ。
「え、ええ。先生の絵は二度、画風が変化しています。デビュー当時、といっても先生がまだ十四の頃ですが、この頃はまだ自由に掻いても許される頃だったからと、非常に曖昧な、そして抽象的な絵を描かれていました。しかし、世間の流れといいますか、大人になったのだからという変化を求められたといいますか、途端に賞が取れなくなったんです。そこで二十代後半から三十代にかけて、先生の絵は少し理解しやすい、モチーフの解りやすいものへと変化したんです。そして、地位が確立され、落ち着いたところで再び抽象度の高い絵を追い求めるようになりました」
田辺はまるで教科書を読むかのようにすらすらと答えた。それは幾度となく説明してきたことなのだろう。淀みのない説明だった。
「地位が確立されたのは四十代」
「ええ。この頃から、題材を求めて旅するようになりました。その場にある空気を描くのだと、そう仰っていましたね」
その辺りがダリのようだと評される所以なのだろうか。現実とは違う世界の絵。しかし、この説明はウィキペディアにあったものであり、事実ではないのかもしれない。そもそも、絵の雰囲気はまったくダリに似ていなかったではないか。あれはひょっとして、友也が付け足したのだろうか。
ウィキペディアは誰でもその内容を書き換えられる。言い換えれば、嘘の記述を載せることも可能だ。それが信頼性が低いと言われる所以でもある。千春も自分の専門分野を調べる場合、ウィキペディアに頼ることは少ない。もし頼ったとしても、後から調べ直すことにしていた。
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