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第3話

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 乾いた音が廊下に響いた。
 僕の掌がジンと熱くなる。

 時間が止まったかと思った。
 いや、止まって欲しかった。

 段々とやらかしたことの意味を理解してきた脳が、現実を受け入れるのを拒否している。

 違うッ、違うッ、こんなことしたくてしたんじゃないッ!

 赤く腫れた頬を抑えて、こちらを見上げてくる佐々木さん。
 そんな彼女の視線を受けて、僕は一歩後ずさる。

 廊下はシンと静まり返っていた。

 横からは、驚きからか、空気を飲みこむ音。

 静寂を破ったのは、佐々木さんだった。

「矢野さん?」

 名前を呼ばれ、僕は肩をビクリと揺らす。
 彼女は、一回りも僕より身体が小さい。しかし僕は、彼女が怖い。手を出してしまった今、僕に死刑宣告を出せてしまう彼女が怖い。
 しかし彼女は僕を非難しようとはしなかった。

「どうしたんですか、矢野さん。何かありましたか? 私でよければ相談に乗りますよ?」

 気遣わしげに僕を見てくる佐々木さん。彼女のその言葉に、歯奥から一際大きな歯軋りする音が聞こえた。
 僕が嫉妬に狂って手を挙げたなんて、彼女は夢にも思っていないようだった。
 でも傍から見れば、僕が慎二に好意を持っている。それですら不釣り合い過ぎて、想像出来ないことなんだろう。

 いや、違うか。

 僕の左手の薬指には、結婚指輪がある。そして、慎二は手に指輪なんて付けていない。

 つまり周りは、はなから僕が慎二に好意もっていることを考えていない。

 だって周りから見れば、僕は既婚者で、慎二は未婚者。
 僕が慎二に好意を持つことは不義理にあたる。

 きっと佐々木さんも、僕が慎二じゃない誰かのモノで、その誰かといざこざがあって、今日は情緒が不安定なんだと思っている。

 番のいるオメガは、相手のアルファに依存しやすく、喧嘩でもすればその日のオメガのメンタルはガタガタ。
 それは、オメガなら誰でも知ってる常識なのだから。

 それを慮って、自身の痛みよりも僕の事情を優先する彼女は本当にできた人だ。
 僕も彼女みたいに心の綺麗な人になれたら、少しは違ったんだろうか?

「佐々木さ……」
 
 僕はまず、何よりも先に謝らないといけない。だから、口を開いた。しかし、それを遮るように肩を掴まれた。
 振り返らなくても分かった。これは、慎二の手だ。

 僕は、先程まで彼と喋っていたのだから、そこに居て当たり前なんだけど。

 僕は今日、とても機嫌が悪かった。番と発情期を過ごせなかった、発情期明けのオメガなんて皆そうだろう。
 この五日間ずっと、慎二のことだけ考えて身体を慰めてきた。
 だから、少しでいい。久しぶりに自分の番と話したい。
 
 ずっと外泊していた慎二も、僕の発情期が終わった今日は、帰ってくる。それが分かっていても、会いたかったんだ。夜まで待てなかった。

 そうして、この五日間待っていた番との再会。

 それを邪魔してきたのが、佐々木さんだった。

 頭にカッと血が上った。そして、気づいたら手を挙げていたんだ。
 

 
 さっき起こしてしまった出来事を思い出して、みぞおちにズンと重くなった。

 僕は、早く謝らないといけない。

 僕はもう一度口を開きかけた。すると、肩に置かれた慎二の手に力が籠る。地味に痛い。

 慎二は、佐々木さんに手を挙げた僕に怒っているんだろうか?

 彼の失望した顔が見たくなくて、振り返りたくない。

 いくら僕が非力と言われるオメガだからといって、女性に手を上げてはいけなかった。しかも、彼女もオメガ。言い訳のしようも無い。

 後悔がおしよせるが、どうしようもない。

 僕は覚悟を決めて、慎二がいる方向に振り向く。すると、彼は口角を上げて笑っていた。
 何故だろう? その笑顔に背筋がゾクリと震えた。

「矢野は大丈夫だよね?」

 えも言われぬ迫力に、僕はおずおずと頷いた。

 慎二は佐々木さんのことが好きなんだろうか?
 だから、僕と佐々木さんが話すのをよく思っていない?

 すると今度は、「そうなのね」という言葉と共に佐々木さんに手を引かれた。

「なら、私の頬の手当て、手伝ってくれませんか?」
「そんなん唾つけときゃ治んだろ」
「須田 慎二様には、聞いてなくてよ?」

 佐々木さんはピシャリと言い放つ。
 二人は本当に仲がいいな。慎二がこんな砕けた話し方をするのは、相手が佐々木さんの時くらいだ。

 本当にお似合いだ。

「そもそもゴリラ(並みに身体の強い)アルファの貴方と一緒にしないで貰えます? 確かに矢野さんに叩かれたのはご褒……ゴホッ、ゴホッ、咳払い失礼。叩かれたのはなんてことないことですが、殿方に介抱して貰いたいと思うのが乙女の心理ッ! だから――ッ」

 慎二が佐々木さんを壁に追いやり、手で口を塞いだ。
 周囲から、黄色い歓声が上がる。

「皆まで言うな。分かった分かった。そこまで言うなら、俺が、丁重に……」

 そこからの言葉は、佐々木さんの耳元に顔を近づけていて、聞こえなかった。
 そんな慎二に佐々木さんは、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

 彼女のような人でも、慎二みたいなイケメンに迫られれば、照れ隠しするんだと、僕は少し彼女に親近感を覚えた。

 そうだよね。慎二にあんな風にされたら恥ずかしいよね! 分かる!

 ……分かる?

 いや、これ以上考えるのは辞めよう。

 僕はあんなことされたことない、とか……。
 僕は番の発情期という特権を持ってさえ、一度しか慎二に抱かれたことないけど佐々木さんはもしかして………とか。

 腹の底から出てこようとする薄暗いもやを、必死で押し戻す。

 そして僕は、保冷剤を持ってきて頬に当てるだけのはずの治療行為を、長々とする慎二の背中を見て、

 ――離婚することを決めたんだ。
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