それでも僕らは夢を見る

雪静

文字の大きさ
上 下
45 / 46
第十三章 それでも僕らは夢を見る

第四十四話

しおりを挟む
(桂さん……)

 絵に描いたように美しい顔の、左頬から唇の脇にかけてを覆う白いガーゼ。拳が肉を打つ音を思い出し、心にまた鋭い痛みが迸る。

「勝手に退職してすみません」

 あくまでも他人行儀に、私は言葉を選びながら言う。

「どうか早めに後任を決めていただき、私のことは忘れてください」

 桂さんは、私を見つめている。ほのかに差す夕陽のように穏やかな微笑で。

「理由を聞いてもいいですか」

「……私では、お役に立てないとわかったからです。むしろ私がいるせいで、桂さんにご迷惑がかかると」

「具体的には?」

「それは……その、色々です。あなたはとても優しい方で、私のために尽力してくださる。でもそのせいであなたまでもが、余計に傷つくことになってしまう」

 ――あんたのせいだ!

「……それに、あなたの周りにはあなたに相応しい優れた方がたくさんいます。私なんかが隣にいたら、それこそ邪魔になってしまう」

 そこで一旦言葉を切り、私は挑むように顔を上げる。

「だから、離れようと決めました。……これがきっと、一番正しい選択だと思うんです」

 いつしか声に熱がこもっていた。あの日、病室を離れて以来、胸の奥底でくすぶっていた火種が、ここぞとばかりに火を吹きあげて喉からほとばしり出たようだった。

 桂さんは少し笑って、自分の左頬へ手を伸ばす。指先がガーゼを軽くなぞって、またスカイくんの方へと戻っていく。

「そうですか」

 彼の口元には、まだ微笑みが残っている。

「貴女は本当に、僕を大切に思ってくれているんですね」

 吸いそびれた空気が喉で詰まって、顔に朱が差すのがわかった。

 爪が手のひらに食い込むほど強くこぶしを握り締める。早鐘を打ち続ける鼓動は、瞬きくらいでは落ち着いてくれない。

 行き交う人々の靴音が遠巻きに聞こえてきて、まるで私と彼だけが現実から切り離されているみたい。……うつむき黙る私を見つめ、桂さんは軽く小首を傾げる。

「僕と貴女は本当によく似ている。自分に自信が持てないところも、他人の言葉を真に受けるところも、……大切な人のためならば、簡単に自分を犠牲にできてしまうところも」

 桂さんが前へ出る。

 びくと震えた私の足は、地面に吸いついたみたく動かない。

「確かに今回、僕は結果として間違ったことをしたのでしょう。貴女と距離を置きさえすれば、僕が傷つくことはなくなる。それは確かに事実のひとつの側面なのかもしれません」

「…………」

「でも貴女は一つ、大きな思い違いをしています。貴女の想いに負けないくらい、僕も貴女を大切に想っている。どんな苦しみからも守りたい。ずっと笑顔でいてほしい。……わかりますか? 僕だけが傷つかなければそれでいいわけじゃない。貴女が幸せでいてくれて初めて、僕は幸せになれるんです」

 私の目の前で足が止まる。

「……だから、僕のためを想ってくれるのなら」

 私を見つめる彼の瞳。

 鏡の中の自分を見るように、瞳の奥で私の顔がくっきりと輪郭を結ぶ。



貴女自身僕の好きな人のことを、一緒に大切にしてもらえませんか」



 ――力を失った指先から、旅行鞄がどさりと落ちた。

 雑踏が遥か遠くに聞こえる。視界が水の膜に覆われて、私を取り囲む何もかもが、淡くぼやけてぐちゃぐちゃになってなんにも見えなくなっていく。

 頬を伝っていく微熱。空気に触れたちまち冷えたそのひと雫を、彼の長い指がなぞるように、慈しむように掬い取る。

 彼に幸せになってほしいと思った。

 そのために私はいらないと思った。

 だから離れた。でもそれは……あまりにも独りよがりだった。

 だって私は――桂さんの好きな人。

 あなたを幸せにするためには、私が幸せにならなくちゃいけない。

 彼が傷つく未来の先に私の幸せが無いのと同じ。私自身を蔑ろにした先に、彼の幸せがあるはずないんだ。

 頬を撫でる桂さんの手が、ふと静かに動きを止めた。彼はゆっくりと身体を起こし、私の背後へ目を向ける。

「由希子……」

 こぼれ落ちるようなか細い声。

 私は静かに振り返り、卓弥の方へ向き直った。

「ごめんなさい」

 卓弥のわずかに開いた唇から、乾いた音がひゅうと漏れる。

 ごめんなさい。もう一度心の中で繰り返し、私はまっすぐ卓弥を見つめる。

「私、一緒には行けない。……でも」

 卓弥は、何も言わない。

 彼はただその場で棒立ちになり、私と、そのすぐ後ろに立つ桂さんとを見つめている。

 私は旅行鞄を持ちあげ、卓弥のもとへ歩み寄った。両手でそっと鞄を差し出す。卓弥はまだ私を見つめている。

「今まで愛してくれてありがとう」

 卓弥の落ちくぼんだ瞳が、震えるように見開かれた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

王子殿下の慕う人

夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。 しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──? 「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」 好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。 ※小説家になろうでも投稿してます

【完結】フェリシアの誤算

伽羅
恋愛
前世の記憶を持つフェリシアはルームメイトのジェシカと細々と暮らしていた。流行り病でジェシカを亡くしたフェリシアは、彼女を探しに来た人物に彼女と間違えられたのをいい事にジェシカになりすましてついて行くが、なんと彼女は公爵家の孫だった。 正体を明かして迷惑料としてお金をせびろうと考えていたフェリシアだったが、それを言い出す事も出来ないままズルズルと公爵家で暮らしていく事になり…。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

処理中です...