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第十二章 桂の白昼夢
第四十話
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子どもの頃、翼に怪我をした小鳥を拾ったことがある。
父とともに東京へ移り、何年か経った頃のことだ。当時の実家は無意味に大きく、庭の敷地もやたら広大で、たくさんの木が植えられたそこはちょっとした森のようだった。
今と変わらず無愛想で可愛げのない子どもだった僕は、しばしば一人の時間を求めてこの庭へと逃げ込んだ。シッターが僕を探しに来ても知らない顔を決め込んで、夕暮れになるまで木々に隠れて沈黙を楽しむのが常だった。
(どうしよう)
だから庭で小鳥を見つけたとき、僕は一人でどうしたらいいのかもわからず、ただ持っていたハンカチでそれを包んで部屋へ駆け戻った。父は動物が嫌いだ。見つかったらきっと捨てられる。そうしたらこの茶色い小鳥はあっという間に野良猫の餌になるだろう。
お菓子の空き箱にタオルを詰めて小鳥をその中へ隠し、僕は冷蔵庫から食べ残していたホットケーキを取り出した。いつもはおやつを喜ばない僕が熱心に皿を抱える姿を、シェフが怪訝そうな目で見下ろしていた。
指でちいさくちぎったホットケーキを小鳥がついばんだとき、僕は思わず感嘆の声を上げた。生き物が僕の指から食べ物を得て生きている。この小鳥の小さないのちが僕の指先にかかっている。その事実はなぜか安堵の形で僕の心に広がった。
たぶん、僕は思ったんだ。
ああ、この小鳥は僕のことを本当に必要としてくれているんだ、と。
この世で本当に必要とされて生まれてくる人間がどれほどいるだろう。僕の人生は父に必要としてもらうための努力の積み重ねだった。
父が望むから勉強に励んだ。父が勧めたから水泳を始めた。友達付き合いを断り続けたのも、父に余計な人間が近づかないようにするためだ。
失敗したら父に嫌われる。いらない子になってしまう。父子家庭である僕にとってそのプレッシャーはとても大きく、僕は父の顔色を常に伺い、畏れるようになっていた。
だから小鳥は僕にとって、初めての父への秘密だった。
家の蔵書に鳥の飼い方を書いた本はなかったから、学校の昼休みに図書館に通って鳥について熱心に調べた。鳥の主食である穀物を手に入れる術がなくて、ホットケーキを食べさせながらごめんねと小鳥に謝り続けた。
やがて小鳥は元気を取り戻し、僕を見ると小さく鳴くようになった。その可愛らしい声を聞いていると、自分がこの世で生きていることそのものを認めてもらえた気になり、胸の内側に感じたことのない熱が燃え上がるのがわかった。
別れは、唐突だった。ある日学校から帰ると、珍しく父が家にいた。
父は僕を見るなり眉をひそめ、傍らの使用人に目配せをする。使用人は僕の肩を抱き、洗面所まで連れて行くと、ランドセルをその場に置いてしつこく僕の指を洗った。
それから病院へ連れていかれて、なぜだか健康診断を受けた。くたくたに疲れて部屋に戻ったとき、僕の机は綺麗に整頓されて、あのお菓子の空き箱がゴミ箱に捨てられていた。
理屈ははっきりとわかっている。父はきっと、小鳥を介して僕におかしな病気がうつることを懸念したのだろう。それ自体は今思えば、まったく正しい発想だと思う。
でも幼い僕は自分のことより、小鳥の行方が心配だった。小鳥はどこへ行ってしまったのかと一人で庭をうろうろと歩き、結局何も見つけられないまま肩を落とす日々が続いた。
――お父さん。小鳥はどこへ行ったんですか。
そう訊ねることができなかったのは、父に対する後ろめたさがあったからだ。
野鳥を家へ持ち込んではいけない。僕は誤ったことをして、不用意に父の手を煩わせた。
その罪悪感と痛恨の思いが僕の疑問を押し隠した。僕は父の言いつけ通りに素直に机に向かいながら、いつしかあの小鳥のことを自然と忘れていった。
*
榎本由希子は、不思議な女性だった。
はじめはどこにでもいる平凡な女性なのかと思った。彼女はいつもにこにこしていて、明るい声で話をしてくれる。家事代行の仕事ははじめてだと聞いていたけど、何事にも真剣に取り組む姿は人として好印象に思えた。
便利に付き合えそうな使用人。そのイメージが一変したのは、近所の公園で彼女がスカイと遊ぶ姿を見たときだ。
彼女の心からの笑みを見たのは、あのときが初めてだった。子どもみたいに落ち葉を撒き散らし、無邪気な声を上げて笑う、彼女の柔らかな笑顔を僕は素直に可愛いと思った。
スカイが彼女に懐いているのも、僕の感情を後押しした。スカイは僕に似て人が嫌いで、進んで撫でられたり遊んだりすることがあまりない犬だったから、この短期間で彼女に心を開いていたのには驚いた。
(もっと知りたい)
僕はあくまでも、純粋な興味でそう思った。彼女のことをもっと知りたい。もっと深く、もっと細かく。
些細な言葉にころころ変わる彼女の表情の秘密を。
ひびとあかぎれだらけの指が冷水で皿を洗う理由を。
事あるごとに口から飛び出る力のない謝罪の意味を。
彼女が時折僕に向ける縋るような眼差しの真意を。
――……治療のためです。
――私、不妊治療が必要なんです。
夫との関係を語る彼女の話を聞きながら、僕は幼い頃庭で拾った小鳥のことを思い出していた。
翼を広げても空を飛べずに、助けを呼ぶための声も上げられない。力なく伏せる小鳥の元へ、いつ野良猫が飛びかかってくるかわからない。
僕が手を伸ばさなければ、小鳥はきっと死んでしまう。幼い心を痛烈に動かしたその激情が、今また愚かな僕の奥底で首をもたげているのがわかった。
(彼女なら)
小鳥が僕を見上げてさえずる甘えた瞳が脳裏に蘇る。あの日腹の底で感じた、滾るような快い熱も。
声なき声で助けを求める小さな生き物を前にして、僕はどこまでも自己中心的だった。身体ばかりが大きくなって、心の成長ができていない、未だに幼児も同然の自儘で幼稚な男だった。
はっきり言えば、僕はあの頃と何も変わらないまま、他の誰でもない僕自身のために、彼女に手を差し伸べることを決めたのだ。
(彼女ならきっとあの小鳥のように、僕を心から必要としてくれるだろう)
父とともに東京へ移り、何年か経った頃のことだ。当時の実家は無意味に大きく、庭の敷地もやたら広大で、たくさんの木が植えられたそこはちょっとした森のようだった。
今と変わらず無愛想で可愛げのない子どもだった僕は、しばしば一人の時間を求めてこの庭へと逃げ込んだ。シッターが僕を探しに来ても知らない顔を決め込んで、夕暮れになるまで木々に隠れて沈黙を楽しむのが常だった。
(どうしよう)
だから庭で小鳥を見つけたとき、僕は一人でどうしたらいいのかもわからず、ただ持っていたハンカチでそれを包んで部屋へ駆け戻った。父は動物が嫌いだ。見つかったらきっと捨てられる。そうしたらこの茶色い小鳥はあっという間に野良猫の餌になるだろう。
お菓子の空き箱にタオルを詰めて小鳥をその中へ隠し、僕は冷蔵庫から食べ残していたホットケーキを取り出した。いつもはおやつを喜ばない僕が熱心に皿を抱える姿を、シェフが怪訝そうな目で見下ろしていた。
指でちいさくちぎったホットケーキを小鳥がついばんだとき、僕は思わず感嘆の声を上げた。生き物が僕の指から食べ物を得て生きている。この小鳥の小さないのちが僕の指先にかかっている。その事実はなぜか安堵の形で僕の心に広がった。
たぶん、僕は思ったんだ。
ああ、この小鳥は僕のことを本当に必要としてくれているんだ、と。
この世で本当に必要とされて生まれてくる人間がどれほどいるだろう。僕の人生は父に必要としてもらうための努力の積み重ねだった。
父が望むから勉強に励んだ。父が勧めたから水泳を始めた。友達付き合いを断り続けたのも、父に余計な人間が近づかないようにするためだ。
失敗したら父に嫌われる。いらない子になってしまう。父子家庭である僕にとってそのプレッシャーはとても大きく、僕は父の顔色を常に伺い、畏れるようになっていた。
だから小鳥は僕にとって、初めての父への秘密だった。
家の蔵書に鳥の飼い方を書いた本はなかったから、学校の昼休みに図書館に通って鳥について熱心に調べた。鳥の主食である穀物を手に入れる術がなくて、ホットケーキを食べさせながらごめんねと小鳥に謝り続けた。
やがて小鳥は元気を取り戻し、僕を見ると小さく鳴くようになった。その可愛らしい声を聞いていると、自分がこの世で生きていることそのものを認めてもらえた気になり、胸の内側に感じたことのない熱が燃え上がるのがわかった。
別れは、唐突だった。ある日学校から帰ると、珍しく父が家にいた。
父は僕を見るなり眉をひそめ、傍らの使用人に目配せをする。使用人は僕の肩を抱き、洗面所まで連れて行くと、ランドセルをその場に置いてしつこく僕の指を洗った。
それから病院へ連れていかれて、なぜだか健康診断を受けた。くたくたに疲れて部屋に戻ったとき、僕の机は綺麗に整頓されて、あのお菓子の空き箱がゴミ箱に捨てられていた。
理屈ははっきりとわかっている。父はきっと、小鳥を介して僕におかしな病気がうつることを懸念したのだろう。それ自体は今思えば、まったく正しい発想だと思う。
でも幼い僕は自分のことより、小鳥の行方が心配だった。小鳥はどこへ行ってしまったのかと一人で庭をうろうろと歩き、結局何も見つけられないまま肩を落とす日々が続いた。
――お父さん。小鳥はどこへ行ったんですか。
そう訊ねることができなかったのは、父に対する後ろめたさがあったからだ。
野鳥を家へ持ち込んではいけない。僕は誤ったことをして、不用意に父の手を煩わせた。
その罪悪感と痛恨の思いが僕の疑問を押し隠した。僕は父の言いつけ通りに素直に机に向かいながら、いつしかあの小鳥のことを自然と忘れていった。
*
榎本由希子は、不思議な女性だった。
はじめはどこにでもいる平凡な女性なのかと思った。彼女はいつもにこにこしていて、明るい声で話をしてくれる。家事代行の仕事ははじめてだと聞いていたけど、何事にも真剣に取り組む姿は人として好印象に思えた。
便利に付き合えそうな使用人。そのイメージが一変したのは、近所の公園で彼女がスカイと遊ぶ姿を見たときだ。
彼女の心からの笑みを見たのは、あのときが初めてだった。子どもみたいに落ち葉を撒き散らし、無邪気な声を上げて笑う、彼女の柔らかな笑顔を僕は素直に可愛いと思った。
スカイが彼女に懐いているのも、僕の感情を後押しした。スカイは僕に似て人が嫌いで、進んで撫でられたり遊んだりすることがあまりない犬だったから、この短期間で彼女に心を開いていたのには驚いた。
(もっと知りたい)
僕はあくまでも、純粋な興味でそう思った。彼女のことをもっと知りたい。もっと深く、もっと細かく。
些細な言葉にころころ変わる彼女の表情の秘密を。
ひびとあかぎれだらけの指が冷水で皿を洗う理由を。
事あるごとに口から飛び出る力のない謝罪の意味を。
彼女が時折僕に向ける縋るような眼差しの真意を。
――……治療のためです。
――私、不妊治療が必要なんです。
夫との関係を語る彼女の話を聞きながら、僕は幼い頃庭で拾った小鳥のことを思い出していた。
翼を広げても空を飛べずに、助けを呼ぶための声も上げられない。力なく伏せる小鳥の元へ、いつ野良猫が飛びかかってくるかわからない。
僕が手を伸ばさなければ、小鳥はきっと死んでしまう。幼い心を痛烈に動かしたその激情が、今また愚かな僕の奥底で首をもたげているのがわかった。
(彼女なら)
小鳥が僕を見上げてさえずる甘えた瞳が脳裏に蘇る。あの日腹の底で感じた、滾るような快い熱も。
声なき声で助けを求める小さな生き物を前にして、僕はどこまでも自己中心的だった。身体ばかりが大きくなって、心の成長ができていない、未だに幼児も同然の自儘で幼稚な男だった。
はっきり言えば、僕はあの頃と何も変わらないまま、他の誰でもない僕自身のために、彼女に手を差し伸べることを決めたのだ。
(彼女ならきっとあの小鳥のように、僕を心から必要としてくれるだろう)
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