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第十一章 焦燥と失敗
第三十七話
しおりを挟むここ最近の桂さんは、ご自分の部屋にいることが多い。
プリンタの横に陣取って、たくさんの写真を印刷しながら、いつも難しい顔をしてひとり考え込んでいる。整頓されていた彼のデスクも、最近は無数の写真でごちゃごちゃ。紅茶をお出ししようとしても置く場所に困ってしまう始末だ。
彼の写真が雑誌に載って全国の人の目に触れる日に向けて、きっと集中して準備を進めているのだろう。私がそっとノックをすると、彼はこちらを見ないまま、
「どうぞ」
と静かに答えた。
「すみません、桂さん宛てにお手紙が届いています」
彼は目線をこちらへは向けず、無言で私へ手を出してくる。その手へそっと載せた封筒は、宛名がただ印刷されただけの不気味なほど質素なもので、差出人の名前は表にも裏にも書かれていない。
ペーパーナイフで封を切り、桂さんは中身へ目を通す。仕事についての手紙だったのかな、彼の横顔はいつになく真剣だ。
「由希子さん」
「はい」
「今日は週休日でしたよね。僕は午後から用事があるので、自由に過ごしていてください」
……一緒に連れて行ってくれない用事なんだ? まあ別に、どこへ行くにも一緒が良いなんて言うつもりはない。
でも、少しだけ心がざわめく。特にここ最近は、買い物へ行くのもお墓参りへも絶対誘ってもらっていたから、今日のどこか突き放した物言いは重く心にのしかかるようだ。
「わかりました」
私の淡々とした返事に、桂さんは小さく頷き、手紙を引き出しにしまうと再びパソコンへ向き直った。
階段をゆっくり降りながら、私はため息を腹へ飲み下す。別に落ち込むことなんてない。そりゃあ誰だって一人で外へ出かけるときくらいあるだろう。
でも。
(雛乃さんのところに……行ったりしないよね?)
途端、ぶわっと胸に広がるすさまじい臭気と吐き気。私は軽く口元を抑え、懸命に鼻で呼吸をする。
そんなことはない……はずだ。桂さんは誠実な人だから、そうだとしてもきっと一言、私には伝えてくれるはず。
(……ほんとうに?)
心の中の私が嗤う。私は彼の何を知っているの?
誠実な人だとレッテルを貼って、大丈夫だと言い聞かせて、見たくないものから必死に目を逸らそうとしているだけなんじゃない?
「う、わっ」
階段の最後一段を踏み外し、かかとを床へぶつけてしまった。痛む足を指先でさすりながら、私はおぼつかない足取りでリビングへと逃げていく。
なんでもいい。何かやること。そういえば昨日薬箱を整理したとき、常備薬の期限が切れていることに気づいたんだっけ。
薬となるとさすがに近所のスーパーには置いていないから、反対方向の薬局まで買いに行く必要がある。大した距離ではないけれど、気分転換の散歩と思えばある意味ちょうどいいかもしれない。
(自由に過ごしてって言われたし、声をかけると迷惑だよね)
……と、自分に言い聞かせていると、おもちゃを噛んでいたはずのスカイくんがいつの間にか傍まで来ていた。
澄んだ瞳が何かを語り掛けるように私を見上げる。私は力なく笑い、それから彼の首を抱きしめると、
「大丈夫だよ。ありがとう」
と、少しだけ寄りかかるみたいにその頬へ頬ずりをした。
暦の上ではすでに春。青空は薄ぼんやり霞み、吹き抜ける風は肌に優しく、私は薄手のコートを羽織ってふらふらと歩道へ出る。
外はこんなにもうららかなのに、私の心は暗いまま。『迷惑だろうから声をかけない』なんてただの言い訳なことくらい、私自身が誰より一番よくわかっている。
だって今、彼の顔を見たら、みっともなく問いただしてしまいそうだから。
私のこと、まだ好きでいてくれていますか? と……。
「前見て歩けよ」
笑い交じりのその言葉にハッと我に返ると、いつの間にか目の前の信号が青から赤に切り替わっていた。
教えてもらわなかったら、ぼんやりしたまま赤信号の歩道を突っ切っていたかもしれない。すみません、と言いかけた喉が、声の主を見ると同時に凍る。
「た、卓弥」
「よう」
よれよれのズボンのポケットに両手を入れ、卓弥は皮肉っぽく笑う。「なんでここに」と咄嗟に訊ねると、へっ、と小馬鹿にしたような鼻息とともに「野暮用で」と雑な答えが返ってきた。
「それよりちょうど良かったよ。お前にも連絡しようと思ってたところなんだ」
「……話なら、弁護士を通して……」
「離婚届。欲しいんだろ? 家にあるから取りに来いよ」
……降って湧いたような言葉に頭が真っ白になる。離婚届をくれるって? あの卓弥が、本当に?
当然疑いの眼差しで黙り込む私に、卓弥は軽く肩をゆすって「そんな顔するなよ」と笑う。穏やかな春の陽気にあてられでもしたのだろうか。それとも私に復縁する気がないと、ようやく理解してくれたのか?
(いや、もう、どっちでもいい)
いずれにしろ、このチャンスを逃すわけにはいかない。
離婚届さえ提出できれば、私は法的に自由になれる。今までずっと待たせていた、桂さんの告白に返事ができる。
あなたが好きだと大手を振って伝えられるんだ。……そしたら、きっと、彼の心を引き留めることもできるはず。
「……今すぐ行っていいの?」
「ああ、今日は休みを取ったんだ。お前の荷物もまとめてあるし、一度で済む方がお互い楽だろ?」
願ってもない申し出だ。それに、明日になれば卓弥の気が変わってしまうかもしれない。
少し遠出になってしまうけど、夕方までには帰れるだろう。私は意を決し、駅の方へとつま先を向けた。
かつて私が住んでいたその部屋は、もう、ひどい有様だった。
レトルト食品やカップ麺の容器がシンクの中で重なっていて、換気扇でも吸い込み切れないえげつない悪臭が漂っている。部屋は当然埃だらけ。ろくに掃除機もかけていないのだろう、短い毛が部屋の隅に連なり白い壁も薄暗く見える。
慣れた手つきで窓を開け始めた私の背中を眺め、卓弥はいかにも愉快そうに、面白がるような声で笑った。ゴミ箱に押し込められていた山積みの汚いティッシュが、特にぶつかったわけでもないのにポロポロと床へ溢れ落ちる。
「ついでに掃除もしていくか?」
「冗談でしょ。必要なものもらったら帰るよ」
私は卓弥の後を追って、隣の寝室へ向かった。こちらもこちらで酷い有様で、かびたにおいがツンと鼻を突く。開きっぱなしのクローゼットから溢れ出るぐしゃぐしゃの衣服。このマットレスも、掛布団も、ずっと万年床になっているのではないか。
「離婚届は?」
息をするのも苦しくなって私が苛立たしげに振り返ると、卓弥はちょうど後ろ手で部屋のドアを閉めたところだった。密閉されるとそれだけで部屋の湿度が上がった気がして、私はまた換気をしようと窓の方へ手を伸ばす。
「『諏訪邉桂』」
そして、卓弥の笑い交じりの低い声を聞いたとき、その手は自然と動きを止めた。
「……なんだってな。お前の男。すげえじゃねえか、あの諏訪邉桂一郎の息子だぞ」
「……本当に、ただ雇われているだけだから」
「清水の野郎が言ってたよ。諏訪邉桂の家に家政婦がいるんだって。奴もたいそうお気に入りで、ありゃあきっと愛人も兼ねてんだろうなって……はは。まあ、最初に聞いたときは、くだらねぇ話だと思ったんだけどさ」
ゆらり、近づく卓弥の影が、私の顔に覆いかぶさる。
「まだ離婚が済んでいないのに、他の男に股開くなんて、間違ったことだと思わねえか? なあ、由希子」
違う、と言おうと開いた口は、卓弥に正面から顎を掴まれぎゅうっと乱暴に閉じられた。
忘れかけていたあの日の恐怖が足先から脳天を駆け巡る。抵抗しようと腕を掴んでも、当然びくともしなくって。
「そういやあのとき、お前のせいで脳震盪になったんだっけ? ……じゃあ、仕返しな」
卓弥は口元だけで笑うと、私の頭をそのまま窓枠の角へと叩きつけた。
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