それでも僕らは夢を見る

雪静

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第九章 暗雲

第三十一話

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 女の子――見るからに若々しい、まだ二十歳にもならない年頃だろうか。肌は白く、身体は華奢で、淡いピンク色の唇は花びらみたいに可愛らしい。ハーフアップの長い髪。大きな瞳は綺麗なものばかり見てきたみたいにきらきら眩しくて、今その双眸はただまっすぐに、桂さんだけを映し出している。

 いっさいの遠慮もなしに飛びついてきた彼女の身体を、桂さんはおそらく反射で抱き留めたのだろう。転びこそしないものの、片足を後ろへ下げかけた彼は、彼女の顔を見るなり喉から引き絞るような声を漏らした。

雛乃ひなの

 彼の声が戸惑いの中で、でも、少しの淀みもなく彼女の名を呼ぶ。

 呼ばれた彼女は大輪の花が開くみたいに微笑みながら、

「こんなところで会えると思わなかった! やっぱりあたしたち運命なんだね」

 と、桂さんへすり寄るように細い両手を彼の首へ回した。

 その手がパッと振りほどかれたのは、たぶん桂さんの意思ではなかった。彼はただ、慌てて背筋を正そうとして、必然的に彼女の手をほどいてしまっただけなのだ。

 桂さんは女の子の、さらにその向こうを見つめている。いつになく引きつった彼の横顔。おそるおそる視線を辿ると、そこには背中を丸めたおじいさんが、にこにこと穏やかな笑みを浮かべながら杖を突いている。

 とてもご機嫌の良さそうな、どこにでもいる上品なおじいさん。――でも、その姿を前にした桂さんはこめかみに汗を一筋流しながら、

「あ……天谷あまがや会長」

 と、かすれた声をぽつりと漏らした。

「久しぶりだね、桂君。……これ、雛乃。私を置いて走り出すなんてひどいじゃないか」

「ごめんね、おじいちゃん。でも桂がいたんだもの」

 再び桂さんの腕にまとわりつきながら、彼女はいたずらっぽく唇をとがらせる。

 桂さんはまるで石にでもなってしまったように、その場に直立したまま瞬きすらしなくなってしまった。緊張……いや、むしろ何かを恐れているような瞳。今まで桂さんがこんなに怯えた顔をすることがあっただろうか。

「私の誕生会の日は、なにか用事があったのかな? 欠席の手紙を受け取った時は、私も雛乃も落胆したよ」

「……すみません。気を遣っていただいたのに」

「いや、いいんだ。桂一郎君の介護を終えて、君もようやく自由になったのだろう。若い君のことなのだから、やりたいことが多すぎて、老人の誕生会など参加する暇もないのではないかな」

 は、は、は……と穏やかな声で笑いながら、その目はちっとも笑っていない。見ている私ですら少しぞくっとしてしまうほどだから、おそらく桂さんが感じている威圧感は私とは比にならないほどだろう。

(この人が、天谷会長)

 全国に高級ホテルを構える、日本でも有数の大富豪。長者番付にも名前を連ね、ホテル王などと呼ばれることもある、私にとっては正真正銘、雲の上に住むようなお人だ。

 そして傍らの雛乃さんは、その孫娘といったところだろうか。……彼女はさっきからしきりに桂さんの腕にまとわりついては、彼の横顔を甘えた子猫のように見上げている。

「今日は、桂一郎君の墓参りに来たんだよ。私よりずいぶん若いというのに、あっという間に逝ってしまって」

 天谷会長は感情の読めない微笑で墓石をちらと一瞥する。

「確か脳梗塞だったかな? さしもの諏訪邉桂一郎といえど、病には敵わなかったというわけか。どれ、線香をあげさせてもらおう」

「……ありがとうございます。父も喜んでいると思います」

「そうだといいが。ところで、桂君。こちらの女性は?」

 穏やかな声が私の方へと向けられた瞬間、桂さんがわずかに身体を固くしたのがわかった。

 私はとっさに姿勢を正し、彼の口が開くよりも先に、

「ハウスキーパーを務めさせていただいております、齋藤です」

 と、できるだけ淡々とした声で名乗る。

 はっとした桂さんが、私の横顔を見ているのがわかる。でも、あえて気づかないふりをして、私は天谷会長の方へ頭を下げた。……これでいい。きっと、間違ってはいないはずだ。

「なぁんだ、やっぱりそうだったの。変に心配して損しちゃった」

 雛乃さんが可愛らしい声でからからと笑う。彼女の指が桂さんの手をおもちゃみたいに弄り回すのが、視界の端に映るたびに私の胸をざわめかせる。

 天谷会長は特に感想もなく鷹揚に頷くと、

「これから雛乃と馴染みの料亭へ行く予定なのだが、よければ君も一緒に来ないか? 息子も一緒の予定だったのだが、直前で仕事が入ってしまってね」

 と、それが当たり前のことみたいに桂さんの方へ向けて言った。

 桂さんは口元を引き結び、それから視線を泳がせる。そして、そんな彼からするりと腕を離し、雛乃さんが踊るような足取りで私の前へとやって来た。

 おもむろに財布から一万円札を数枚取り出した彼女は、それを一切の遠慮もなく私のポケットへとねじこむと、

「これ、タクシー代。おつりはあげるから、先に帰って」

 と言って、あまりにも屈託なく微笑んだ。

 私は――立ちすくむ。言うべき言葉は頭の中できちんと理解できているはずだ。わかりました、先に帰らせていただきます……と。

 だってきっと、天谷会長は桂さんにとって大きな存在の人。辺りに漂う張り詰めた空気と、彼の緊張した面持ちがそう物語っている。

 だったら私がするべきことは、桂さんの邪魔にならないよう、自分のあるべき立ち位置に徹すること。緩く繋がる心の立場じゃない、誰にでも見せられる表の立場で――単なるハウスキーパーとして――雇い主の利益に従うことのはずだ。

 でも、身体が動かない。

 ポケットにねじこまれたくしゃくしゃの一万円札が、唖然とする私の背中を蹴飛ばすように嘲笑う。万札貰えて嬉しいだろう? わかったならさっさと帰れ。お前のいるべき場所はここではない、と。

(……帰らないと)

 沸騰する胃液を落ち着かせるよう震える喉で唾を飲み込む。

 そのとき、ふいに桂さんの腕が伸びてきたかと思うと、私のポケットから一万円札がさっと取り上げられた。

 彼は私と雛乃さんの間に立ち、彼女へお札を差し出しながら、

「天谷会長」

 と、あくまでも会長の方へ顔を向けて言う。

「申し訳ありませんが、このあと予定が控えておりまして」

「……そうか。まあ、突然だったからね。また別の日に改めて誘わせてもらおう」

「恐れ入ります」

 きょとんとする雛乃さんの方へ、桂さんはもう一度突きつけるようにお札を出す。それでも彼女が受け取らないのを見ると、その手に無理やりお札を握らせ、

「失礼します」

 と言って、私の腕を引いて去っていった。
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