それでも僕らは夢を見る

雪静

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第八章 海と夕陽と私の写真

第二十五話

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 教えてもらったフォトスポットはダイビングショップから歩いていける距離で、スカイくんとお散歩するのにちょうどいいような道だった。

 桂さんのコートを肩に羽織ったまま、私は彼の隣を歩く。着替えを終えて戻ってきた彼にコートを返そうとしたのだけど「僕は運動してきたばかりなので」とスマートに断られてしまったのだ。 

(落ち着かないな)

 いつも口数の少ない桂さんだけど、今日はなんだかそれが顕著だ。今までにないくらい沈黙が重く、耳に痛く感じる。

 ご機嫌が悪い……というより、何かを考え込んでいるような。水平線を臨む横顔が静かな憂いを帯びているようで、見ているだけで私の胸まできゅうと締めつけられてくる。

「この辺りみたいですね」

 そう言って桂さんは足を止めた。特に観光地らしい看板があるわけでもない、広いビーチとその奥に広がる水平線が見渡せる場所のようだ。

 靴に砂が入り込まないよう、慎重になりながら砂浜を歩く。スカイくんは砂の感触に少し戸惑っているようで、さっきからしきりに前足を持ち上げ、肉球をちらちら眺めている。

「夕日にはまだ少し早いですね」

 薄灰色にぼやけた空を見上げ、桂さんは前髪を耳にかけた。

「伊豆の夕焼けは確かに有名ですから、写真向きといえばそのとおりでしょうが」

「良い時間になるまで待ちますか?」

「そうですね。由希子さんさえよければ」

 季節柄か、私たち以外に人の姿は見当たらない。私がきょろきょろしていると、桂さんは怪訝そうに「どうしたんですか」と振り返った。

「宗教勧誘の人とかもいなそうだなと思って……」

「宗教勧誘?」

「いや、さっきの店員さんすごいしつこかったから、ひと気のないところで宗教勧誘でもするつもりなのかと思ってたんです」

 しばし沈黙。

 それから、桂さんは呆れたように顔をしかめると、

「……まさかとは思いますが、さきほどの男が本当に宗教の勧誘だったと思っているんですか?」

 と、不機嫌を微塵も隠さない低い声で言った。

 ぐっ、と若干息を詰めながら、私はおずおず彼を見上げる。彼の言わんとすることが、わからないわけじゃない……けど。

「……あの、違うお誘いの可能性を考えなかったわけじゃないんです。でも私、今まであまりそういう経験がないので、期待というか……いやその、本気にしないようにしていて」

「…………」

「別にその、天然ぶっているわけじゃないんですよ。ただ、今までの経験から考えたら、たぶん違うんだろうなって自然と思っちゃうんです。桂さんみたいなもてもての方には、ちょっとピンと来ないかもしれませんけど」

 私はおどけたつもりだったけど、桂さんはますますむっとしたようだ。彼は海原を睨みながら、

「由希子さんは最初から魅力的な女性です」

 と、言葉のわりにつっけんどんに、拗ねた子どものように言った。

「最近はそれが隠し切れなくなって、他の男の目にも触れるようになってきただけで」

「そ……そうでしょうか」

「はい。ああいう手合いに不慣れだというなら、それは仕方がないとは思いますが」

 ぷい、と彼は私に背を向ける。

「シッターに犬を預けてるなんて、馬鹿正直に言わなければよかった」

 海からしょっぱい風が流れて、桂さんの髪をふわりと巻き上げた。彼はうつむいたまましばらく黙り込んでいたけど、やがて胸に下げたカメラを海へ向かってそっと構えた。

 何枚か海の写真を撮って、ゆっくりとカメラが胸元へ降りる。海から差し込む赤い光が彼の横顔に柔らかな色をつけ、その上を半ば伏せられたまつ毛が色濃い影で彩っている。

「最近は、本当に困っています。強く明るく変わっていく貴女をもっと見ていたいという気持ちと、これ以上僕を残していかないでほしい気持ちがあって」

「…………」

「貴女に置いていかれないよう、僕なりに頑張っているつもりです。でも、貴女はいつも僕の隣を一段飛ばしで駆け抜けていく。最初は似たもの同士だったはずなのに、気づけばどんどん距離が開いて、いずれはきっと貴女の背中すら見えなくなっていくのだと思うと」

 そこで言葉を切り、桂さんは少しうつむく。

「……とても、つらくて」

 ざあ、ざあ。緩やかに波が寄せては返す。

 沈み始めた丸い夕日を、スカイくんが綺麗な瞳で眺めている。

 は、と顔を上げた桂さんが、目を見開いてこちらを見た。私が彼の手の上から、そっとカメラを握ったからだ。

 水面に雫が落ちたみたいに、彼の瞳が大きく揺らぐ。海と夕陽と私の微笑が、そのひとところに閉じ込められて、彼が瞬きをするたびにないまぜになっていくのがわかる。

「確かに私、昔と比べてずいぶん変わったと思います。今は昔より毎日楽しいし、人と話すのも楽になりました。鏡を見てもつらくないし、雑に扱われることも減って、少しずつなりたい自分の姿に近づいているのがわかります」

「……はい」

「でも、それは全部、私一人のちからで手に入れたものじゃありません」

 そっと手に力を込める。

 耳を当てているわけでもないのに、触れたところから彼の鼓動が、とくん、とくんと聞こえてくる。

「あなたがいたから。……桂さんの隣を、胸を張って歩きたいと思ったから、私はここまで変わることができた」

 両手で包み込むように、私は彼の手ごとカメラを持ち上げる。レンズがきちんと私へ向くように。……そのファインダーに、私が映るように。

 どちらともなく絡み合う指先。彼の右手の人差し指が、たどたどしくシャッターボタンに触れて、私の指が支えるようにその上へと折り重なる。

 お互い見つめ合いながら、ゆっくりと切れるシャッター。モニターを覗き込んだ桂さんが、ふっ、と肩を揺らして吹き出した。

「鼻と口しか映ってない」

「えっ、あ、ちょっとあの、それはさすがに」

「この距離ですからね、後で消しますよ。……ほら、少し離れて」

 私は数歩後ろに下がり、指先を背中で組んではにかんだ。何度かシャッターを切る音がして、少し顔を上げた桂さんが、

「もう少し自然に。ぎこちないですよ」

 と、からかうように肩をすくめる。

 歩いてみて。空を見上げて。楽しそうに歌ってみて。あれこれと細かくつけられる注文をひとつひとつこなすのだけど、私はモデルでもなんでもないからやっぱりうまくいかなくて。

 「音痴だから歌いたくない」と笑って駄々をこねる私に、桂さんは「僕とスカイしか聴いていないから」となだめるように持ち上げる。

「由希子さん」

 この時間だけでいったい何枚の写真を撮影したのだろう。

 スカイくんの首に腕を回して少し休憩していた私は、その場にしゃがみこんだ格好のまま桂さんの顔を見上げる。

 見惚れるほどの端正な顔に、アルカイックスマイルを浮かべて……でも、今までより少しだけ改まった様子で、桂さんは片膝を突いて私と目線を合わせて言った。

「貴女が好きです。――貴女の写真を、僕の写真立てに飾らせてもらえますか」

 彼の瞳に私が映っている。丸い目を見開く私の顔が。

 胸に広がる甘やかな熱。今までずっと閉じ込めていた、心の奥の宝箱の蓋が、溢れる想いを抑えきれずに軋んだ音を立てている。――桂さんのことが、好きだと。

 でも。

(私は……まだ……)

 無意識のうちに指先が左手の薬指を辿る。そこにはもう何もついていないけど、かすかなくぼみはまだ残っていて。

 もちろん、と言いたい。

 でも、まだ、言えない。

 幸せの中で忘れかけていた自分の現実が忍び寄る。……私はまだ、この感情を公言するのは許されない女だ。

「わ、たし、」

 かすれた言葉が詰まると同時に、喉にかすかな痛みが走った。ツ、と頬を伝う涙には、言葉の代わりの想いが滲む。

 動きを止めた私の手を、桂さんがそっと握る。びく、と身構えた私に、彼は柔らかく微笑みかけると、私をほとんど抱きしめるみたく耳元に囁きかける。

「僕、待ってます」

 持ち上げられた手の甲に、彼の唇が触れることはない。

 でも、まるでその代わりみたいに彼は長いまつ毛を伏せ、私の手を白い頬に優しく優しく押し当てた。

「……待ってますから……」
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