7 / 46
第二章 知れば知るほど
第六話
しおりを挟む
どきっ、と。
胸が高鳴るのは仕方ないだろう。私だってこれでも女だ。こんなに綺麗で素敵な男性にすぐ隣から微笑みかけられたら、そりゃあ心臓はどきどきするし顔だって赤くなるに決まってる。
私は確かに既婚者で、彼にとってはただの家事代行。でも、そういうたくさんの肩書以前に一人の人間でもあるんだ。こんなに純粋無垢な好意を――ラブではなくライクであっても――あまりにもまっすぐに向けられれば、素直に喜んでしまう心をたしなめることはできないはずだ。
(まして夫は嫌味とため息ばかりで、優しい言葉なんてかけてくれないし……)
慣れない言葉に慌てる私を微笑ましそうに眺めながら、諏訪邉さんはトートバックからボールを取り出した。スカイ、と声をかければ、顔を上げたスカイくんがにこにこと舌を出して駆け寄ってくる。
諏訪邉さんがボールを投げて、スカイくんがそれを追いかけて……青空を横切る緑のボールと、それを見つめる諏訪邉さんの横顔。爽やかで優しいその景色をすぐ隣に並んで見ていると、二人を彩る絵画の世界に私まで参加しているようで。
(……なんだか、夢を見ているみたい)
鼻先をくすぐる風の冷たさがちっとも気にならないくらい、私の心はほのかな熱で満たされていた。
しばらくドッグランで遊んだ後、諏訪邉さんは「そろそろ出ましょうか」と言ってスカイくんを呼び寄せた。思い切り遊んで満足そうなスカイくんにお水をあげて、リードをきちんとつけ直してから私たちはランを出る。
「ランで遊んだ後、公園を一周するのがいつもの散歩コースなんです。池にかかる橋の上から鯉を眺めるのがスカイのお気に入りなんですよ」
そう言って諏訪邉さんはスカイくんのリードを傍のフェンスにくくると、私にひとこと断った上で近くのお手洗いへと歩いていった。
スカイくんをそれとなく撫でながら、フェンスに寄りかかって諏訪邉さんを待つ。ふいに視線を感じて顔を上げると、小型犬を連れた女性たちと目が合った。妙に見覚えがあると思ったら、さっきのドッグランの中でもこちらをじろじろと見てきた年若い二人組だ。
彼女たちは私の方を横目で見つつ、小さな声で何やらひそひそ笑いあっている。……ほら、やっぱり夫婦じゃないって。全然見た目が釣り合ってないもん。あの女の方、いくらなんでも顔も服装もおばさんすぎでしょ。出張ホスト? まさかママ活とか……?
(……すみません、丸聞こえです)
急にいたたまれない気持ちになって、静かにうつむき目を逸らす。そうしてから、どうして私の方が逃げなきゃいけないんだろうと、悔しいというより悲しい気持ちで奥歯に力が籠もっていく。
私、そんなにおばさんかな。笑われなきゃいけない容姿なのかな。
薄暗い思いがぐるぐるとお腹の中を巡っていく。嫌な気配がして顔を上げると、傍のパン屋さんの大きな窓ガラスに自分の姿が映っていた。
自分で切っただけのぼさぼさの髪。
使い古してぺらぺらのコート。
血色の悪い土気色の肌と、目の下を彩るどんよりした隈。
(ひどい――)
と、自分でも口走ってしまいそうなほどみすぼらしいその姿に、喉からかすかな音を鳴らして私はひとり立ちすくむ。
自分のことを平凡だと思っていた。特徴のないつまらない女だと思っていた。
でも、違う。――若さという最高の化粧を失った末、何もせず生きてきた私のありのまま。
これは平凡なんかじゃない。
平凡以下の不器量な女だ。
あっ、という声に我に返ると、お手洗いから諏訪邉さんがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
見るからに仕立ての良いグレーのコートが風になびく。すらりと伸びた長い足の、歩く姿の荘厳さ。揺れる前髪を軽く抑えつつ、微笑みもせず無表情のその佇まいは怖いほど綺麗だ。
(ああ嫌だ。私、こんな人と並んで歩いていたんだ)
自分の容姿も顧みず、平気で彼と微笑みあった。思い返せばなんとまあ、恥知らずなことだろう。
全然見た目が釣り合っていないと、彼女たちの言葉に一度は腹も立てた。でも、実際こうして目の当たりにすれば、そのすべてが正論だとつくづく思い知らされる。
先ほどの感嘆はどうやらその彼女たちが発したものだったらしい。犬のリードを引き寄せながら、彼女たちは甘い表情で諏訪邉さんへと秋波を送る。……そして諏訪邉さんは彼女たちを見つめたまま、私の隣へ添うように並ぶと、
「僕の連れが、何か?」
静かな、しかし確かな圧力を込めた声で、そう言った。
淡い朱に染まっていた彼女たちの頬が、一瞬にして引きつるのが見えた。諏訪邉さんはもう一度、二人の顔を確かめるみたいにゆっくりと交互に見まわした後、にこ、と軽く会釈をして静かにきびすを返す。
「お待たせしました。行きましょうか」
「は、はい」
スカイくんのリードを取り、諏訪邉さんは歩き始める。少し遅れて、斜め後ろをついていこうとした私の背中を、彼の長い指が支えるみたいに後ろからそっと押した。
(庇ってくれたんだ)
優しく触れられた背中がじわりと淡い熱を持つ。
嬉しい――とは思う。彼はやっぱり知れば知るほど、素敵で非の打ち所がない人だ。姿形が表すそのまま、穏やかで優しくて凛々しくて、神様がきっとこの人のことを愛しているだろうと思える方。
でも、私は?
このみすぼらしい身なりの私は、彼の優しさを享受するに相応しい人間なのだろうか?
(……消えてしまいたい)
スカイくんがきらきらした瞳で、先へ行こうと私たちを促す。
今日だけはお付き合いさせてもらって、今度からは遠慮しよう。それがきっと長い目で見れば、彼自身のためにもなるはずだ。
自分に向かって言い訳をしながら、私はコートの前を押さえると、ほんの少しだけ彼から離れるように震える肩を抱いて歩いた。
胸が高鳴るのは仕方ないだろう。私だってこれでも女だ。こんなに綺麗で素敵な男性にすぐ隣から微笑みかけられたら、そりゃあ心臓はどきどきするし顔だって赤くなるに決まってる。
私は確かに既婚者で、彼にとってはただの家事代行。でも、そういうたくさんの肩書以前に一人の人間でもあるんだ。こんなに純粋無垢な好意を――ラブではなくライクであっても――あまりにもまっすぐに向けられれば、素直に喜んでしまう心をたしなめることはできないはずだ。
(まして夫は嫌味とため息ばかりで、優しい言葉なんてかけてくれないし……)
慣れない言葉に慌てる私を微笑ましそうに眺めながら、諏訪邉さんはトートバックからボールを取り出した。スカイ、と声をかければ、顔を上げたスカイくんがにこにこと舌を出して駆け寄ってくる。
諏訪邉さんがボールを投げて、スカイくんがそれを追いかけて……青空を横切る緑のボールと、それを見つめる諏訪邉さんの横顔。爽やかで優しいその景色をすぐ隣に並んで見ていると、二人を彩る絵画の世界に私まで参加しているようで。
(……なんだか、夢を見ているみたい)
鼻先をくすぐる風の冷たさがちっとも気にならないくらい、私の心はほのかな熱で満たされていた。
しばらくドッグランで遊んだ後、諏訪邉さんは「そろそろ出ましょうか」と言ってスカイくんを呼び寄せた。思い切り遊んで満足そうなスカイくんにお水をあげて、リードをきちんとつけ直してから私たちはランを出る。
「ランで遊んだ後、公園を一周するのがいつもの散歩コースなんです。池にかかる橋の上から鯉を眺めるのがスカイのお気に入りなんですよ」
そう言って諏訪邉さんはスカイくんのリードを傍のフェンスにくくると、私にひとこと断った上で近くのお手洗いへと歩いていった。
スカイくんをそれとなく撫でながら、フェンスに寄りかかって諏訪邉さんを待つ。ふいに視線を感じて顔を上げると、小型犬を連れた女性たちと目が合った。妙に見覚えがあると思ったら、さっきのドッグランの中でもこちらをじろじろと見てきた年若い二人組だ。
彼女たちは私の方を横目で見つつ、小さな声で何やらひそひそ笑いあっている。……ほら、やっぱり夫婦じゃないって。全然見た目が釣り合ってないもん。あの女の方、いくらなんでも顔も服装もおばさんすぎでしょ。出張ホスト? まさかママ活とか……?
(……すみません、丸聞こえです)
急にいたたまれない気持ちになって、静かにうつむき目を逸らす。そうしてから、どうして私の方が逃げなきゃいけないんだろうと、悔しいというより悲しい気持ちで奥歯に力が籠もっていく。
私、そんなにおばさんかな。笑われなきゃいけない容姿なのかな。
薄暗い思いがぐるぐるとお腹の中を巡っていく。嫌な気配がして顔を上げると、傍のパン屋さんの大きな窓ガラスに自分の姿が映っていた。
自分で切っただけのぼさぼさの髪。
使い古してぺらぺらのコート。
血色の悪い土気色の肌と、目の下を彩るどんよりした隈。
(ひどい――)
と、自分でも口走ってしまいそうなほどみすぼらしいその姿に、喉からかすかな音を鳴らして私はひとり立ちすくむ。
自分のことを平凡だと思っていた。特徴のないつまらない女だと思っていた。
でも、違う。――若さという最高の化粧を失った末、何もせず生きてきた私のありのまま。
これは平凡なんかじゃない。
平凡以下の不器量な女だ。
あっ、という声に我に返ると、お手洗いから諏訪邉さんがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
見るからに仕立ての良いグレーのコートが風になびく。すらりと伸びた長い足の、歩く姿の荘厳さ。揺れる前髪を軽く抑えつつ、微笑みもせず無表情のその佇まいは怖いほど綺麗だ。
(ああ嫌だ。私、こんな人と並んで歩いていたんだ)
自分の容姿も顧みず、平気で彼と微笑みあった。思い返せばなんとまあ、恥知らずなことだろう。
全然見た目が釣り合っていないと、彼女たちの言葉に一度は腹も立てた。でも、実際こうして目の当たりにすれば、そのすべてが正論だとつくづく思い知らされる。
先ほどの感嘆はどうやらその彼女たちが発したものだったらしい。犬のリードを引き寄せながら、彼女たちは甘い表情で諏訪邉さんへと秋波を送る。……そして諏訪邉さんは彼女たちを見つめたまま、私の隣へ添うように並ぶと、
「僕の連れが、何か?」
静かな、しかし確かな圧力を込めた声で、そう言った。
淡い朱に染まっていた彼女たちの頬が、一瞬にして引きつるのが見えた。諏訪邉さんはもう一度、二人の顔を確かめるみたいにゆっくりと交互に見まわした後、にこ、と軽く会釈をして静かにきびすを返す。
「お待たせしました。行きましょうか」
「は、はい」
スカイくんのリードを取り、諏訪邉さんは歩き始める。少し遅れて、斜め後ろをついていこうとした私の背中を、彼の長い指が支えるみたいに後ろからそっと押した。
(庇ってくれたんだ)
優しく触れられた背中がじわりと淡い熱を持つ。
嬉しい――とは思う。彼はやっぱり知れば知るほど、素敵で非の打ち所がない人だ。姿形が表すそのまま、穏やかで優しくて凛々しくて、神様がきっとこの人のことを愛しているだろうと思える方。
でも、私は?
このみすぼらしい身なりの私は、彼の優しさを享受するに相応しい人間なのだろうか?
(……消えてしまいたい)
スカイくんがきらきらした瞳で、先へ行こうと私たちを促す。
今日だけはお付き合いさせてもらって、今度からは遠慮しよう。それがきっと長い目で見れば、彼自身のためにもなるはずだ。
自分に向かって言い訳をしながら、私はコートの前を押さえると、ほんの少しだけ彼から離れるように震える肩を抱いて歩いた。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です


〖完結〗幼馴染みの王女様の方が大切な婚約者は要らない。愛してる? もう興味ありません。
藍川みいな
恋愛
婚約者のカイン様は、婚約者の私よりも幼馴染みのクリスティ王女殿下ばかりを優先する。
何度も約束を破られ、彼と過ごせる時間は全くなかった。約束を破る理由はいつだって、「クリスティが……」だ。
同じ学園に通っているのに、私はまるで他人のよう。毎日毎日、二人の仲のいい姿を見せられ、苦しんでいることさえ彼は気付かない。
もうやめる。
カイン様との婚約は解消する。
でもなぜか、別れを告げたのに彼が付きまとってくる。
愛してる? 私はもう、あなたに興味はありません!
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
沢山の感想ありがとうございます。返信出来ず、申し訳ありません。

【完結】今世も裏切られるのはごめんなので、最愛のあなたはもう要らない
曽根原ツタ
恋愛
隣国との戦時中に国王が病死し、王位継承権を持つ男子がひとりもいなかったため、若い王女エトワールは女王となった。だが──
「俺は彼女を愛している。彼女は俺の子を身篭った」
戦場から帰還した愛する夫の隣には、別の女性が立っていた。さらに彼は、王座を奪うために女王暗殺を企てる。
そして。夫に剣で胸を貫かれて死んだエトワールが次に目が覚めたとき、彼と出会った日に戻っていて……?
──二度目の人生、私を裏切ったあなたを絶対に愛しません。
★小説家になろうさまでも公開中

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり

【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜
高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。
婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。
それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。
何故、そんな事に。
優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。
婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。
リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。
悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる