それでも僕らは夢を見る

雪静

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第一章 新しいお仕事

第二話

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 事前に研修を受けたとはいえ、私は家事代行一年生。今回が初めてのお仕事となる、ひよっこ中のひよっこだ。

 とりあえずモノを壊さないように、かつ隅々まできちんと綺麗に。お金を頂く仕事だと思うと、慣れた作業でも緊張してしまう。

 それにしてもこのお宅、本当に物が少なく感じる。人とわんちゃんの二人暮らしにもかかわらず、お家の間取りがファミリータイプの4LDKだからだろうか。

 一階はリビングと水回り。二階には居室が四部屋並ぶ。諏訪邉さんの自室と、本棚がたくさんある書斎。よくわからない器具がごちゃごちゃ置かれた、半ば物置のような空き部屋。

 そして風通しのいい和室には立派なお仏壇があり、私でも知っている大金持ちの有名政治家・諏訪邉桂一郎の遺影が置かれている。

(諏訪邉さん、政治家の息子さんだったのか……)

 複雑な思いがもやもや湧き上がるのを、軽く首を振って誤魔化す。

 だめだめ、今は集中しないと。せっかくありついたお仕事なのに、ケアレスミスをしたばかりに、あっけなく首を切られて専業主婦に逆戻りは嫌だ。

(私にはお金がたくさんいる。働く目的を忘れちゃだめ)

 淡々とお掃除を済ませると、私は料理の準備に取り掛かった。残り時間だけで今日のお昼とお夕飯、明日用の二食とを作らなければいけない。

 お掃除は軽めでの契約とはいえ、これは結構大変だな。早く終わったら帰っていいなんて言われたけど、当分早上がりする機会はなさそうだ。

(今日のお昼どうしよう。諏訪邉さんは作りやすい方でいいと仰っていたけど、なんにも指針がないというのもちょっと不安だなぁ)

 とりあえず初回は無難なところで、ご家庭の味の定番料理をいくつか用意させていただいた。お昼ご飯は材料を見ながら、私の得意な親子丼を作った。

 昼食は自室でと言われていたので、お盆に丼とお茶を載せて彼の部屋のドアをノックする。どうぞ、と、またぶっきらぼうな声が返ってきて、私は少しどぎまぎしながら恐る恐るドアを開けた。

「失礼します。ご昼食をお持ちしました」

「ありがとうございます」

 諏訪邉さんはベッドに腰かけたまま、古い文庫本を読んでいたようだ。私がお盆を持ったままその場で突っ立っていると、彼は本にしおりを挟みながら「机へ」と短く言う。

 置いておけ、ということと解釈し、私は綺麗に片付けられたデスクへそっとお盆を置く。そしてエプロンのよれを正しながら、彼の方へと向き直った。

「あの、お掃除とおかずの作り置きは完了しました」

 諏訪邉さんはちらと時計を見上げ「時間ですね」と呟いた。

「後なにか、私にできることはありますか?」

「いえ、十分です。ありがとうございます」

「わかりました。ではまた明後日参ります。よろしくお願いします」

 ふい、と視線が文庫本へ戻る。相変わらずそっけない人だ。綺麗なお顔がもったいない、なんて私が凡人だから思うのかな。

 最後に深々と頭を下げ、私は彼の部屋を出る。その扉が閉まる直前、

「……美味しそう」

 わずかに弾んだちいさな声が隙間から漏れ聞こえてきて、私はゆるむ頬を堪えつつ小さくガッツポーズした。







 はじめは不安な初仕事だったけど、終わってみればなんだかすっきり。思ったよりもいい気分だ。

 諏訪邉さんは冷めた方だけど決して悪い人ではなさそうだし、わんちゃんはとてもスマートで落ち着いた良い子だし。お家は広くて綺麗だし、お給料もなかなか素敵だし。ご本人様の好き嫌いがない(と書類に書いてあった)のも、作る側としては嬉しいことだ。

(美味しいって思ってもらえたらいいんだけど)

 それにしても綺麗な人だったな。見つめられるとぞくぞくするような、人間離れした容色だった。生きている気配を感じさせない、人形みたいにミステリアスな雰囲気。だからこそ、別れ際の弾んだ声が、今でもふっと思い出すくらいとても印象に残っている。

 さて、いつまでもうきうきしてはいられない。家事代行の仕事が終われば、次は主婦の仕事が待っている。私は小走りで家に帰ると、大急ぎで洗濯物を取り込んだ。

 はじめての仕事を終えて、たぶん緊張もあったのだろう。身体はぐったり疲れ切っていて、できれば椅子に座りたい。

 でも、残念ながらそんな余裕はなさそうだ。時計をちらちら確認しながら、私は急いで準備を進める。服をたたんで、掃除機をかけて、すぐに夕食の用意をして――。

 ガチャリ、と。

 玄関の鍵がひらく音で、心臓が一気に縮むのがわかった。コンロの火を一旦止めて、私は走って玄関へ向かう。

「お、おかえりなさい」

 夫は――卓弥は玄関のマットを見下ろしながら、ハァ、とこれ見よがしの大きなため息を吐いた。

 私は弾かれたように顔を上げ、急いで夫のスリッパを用意する。ああ最悪、すっかり忘れてた。この間もコレを忘れて嫌味を言われたばかりだったのに。

 卓弥はスリッパを踏みつぶし、無言で部屋の奥へと進む。そして、未だ食事の並ばないダイニングテーブルを見て、もう一度、言い聞かせるように大きくため息を吐いた。

「なんで無いの?」

「ごめんなさい。もうすぐできるから」

「聞かれたことに答えろよ。『なんでないの?』」

「……私の手際が悪いからです」

 あと五分もすればお肉に火が通る。そうすれば今日の夕食は完成だ。

 卓弥はフライパンの中身を一瞥し、それから緩めかけたネクタイを戻すと、鞄の中から財布だけ取り出して再び玄関へと引き返した。エプロンの裾を握りながら、私はそろそろと後を追う。

「卓弥、あの」

「外で食べる」

「でも本当に、あと五分で」

「五分なんて待ってられるかよ。お前、仕事のときでも雇い主にそんなこと言うつもり?」

 ……それは、言わない。言えないけど。

 閉じた唇が小刻みに震える。エプロンを握るこぶしの内側が、じっとりと嫌な汗をかいている。

「家事の手を抜かないって約束で、働かせてやったんだからさ」

「…………」

「次同じことしたら仕事辞めろよ。どうせお前は何もできない、人に迷惑をかけるだけの女なんだから」

 大きな姿が夜空の下へ消え、冷たい風とともに扉が閉まる。

 私はその場でうつむいたまま、しばらく扉を見つめていたけど、やがて自分の両頬を叩くと一人のリビングへと引き返した。

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