初恋カレイドスコープ

雪静

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第十二章 敗北

第四十三話

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 バンと大きな音がして、ドアのベルがけたたましく響いた。秋の夜の冷たい風が一気に部屋へ吹き込んできて、突然の物音に面を上げた社員たちの表情を次々に凍りつかせていく。

 私もまた同様に顔を上げて――そして同じく、絶句した。今ドアを開けて入ってきた人は、間違いなくこの場にいるべきではない、招かれざる客だったからだ。

「どーもどーも、皆さんお揃いで。楽しそうでいいことだ」

 社長代理、と、誰かがうつろな声で呼ぶ。

 青木副社長も、鮫島先輩も、愕然と目を見開いたまま。さきほどまでの歓談が嘘のように、文字通り凍りついた部屋を見回し、社長代理は端正な顔にニィと嫌味な笑みを浮かべる。

「おっと、どうしたの? 別におしゃべりしてていいんだよ。俺はただ、お前らがどんな顔して飲んでるのか気になって観に来ただけなんだから」

「しゃ……社長代理」

「そんな呼び方するなよ。これから一斉に会社を辞めてやろうって奴らがさ。新しい本社はどこの予定? 横浜? それとも、ネイルサロンの第一号店を出す予定の藤沢あたりかな? うちのサロンの斜向かいの空き店舗、そのためにわざわざ押さえたんだろ」

 鮫島先輩が顔色を変える。

 ギッ、と音の鳴るほど奥歯を噛みしめた青木副社長を見下ろし、社長代理は肩をすくめるとそのまま店内へ足を進めた。

「なんでそんなに驚いてんの。まさか俺が何も知らないと思った? お前らがうちの内部情報を盗んで独立しようとしてることなんて、とっくの昔に把握済み。これまで泳がせておいてやったのは、お前らを確実に追い詰めるための証拠をずっと探していたからだ」

「…………」

「ノートパソコンをちょろまかしたのは鮫島だな? リース品の管理台帳は全部お前の管轄下だ、端末一台分くらい書き換えるのは簡単だっただろ」

 鮫島先輩が座るソファの背もたれに腰かけて、社長代理は大きな声で歌うように話を続ける。

「ずっと疑問だったんだよ。お前らが自分の端末を使わずにどうやって専用線に接続し、うちのデータを盗み出していたか」

「…………」

「デジタル戦略室に調べさせても不正アクセスの形跡はない。お前らの端末の履歴を調べても同じ。逆に言えば、その方法さえ押さえればお前らを一網打尽にできると思って、今までずっと我慢してきたんだけど」

 長い足を組み替えながら、社長代理は冷ややかに笑う。

「機械室を隠し部屋として使うなんて盲点だったよ。夏場はつらかったでしょ? あそこ冷房ないからさ」

「……わ、私は」

「ところでお前、削除したデータは簡単に復元できるって知ってる? あの端末見させてもらったけど、今回の独立に関する資料がバカみたいにたくさん出てきたよ」

 言いながら、社長代理はポケットに手を入れたままゆらりと立ち上がり、また周囲を睥睨しながら穏やかな足取りで歩き出す。

「そういえば、会計課の山本君だっけ? キミ、喫煙所に手帳を忘れていったでしょ。誰のものかを確認するために中身をちょっと見させてもらったけど……これもなかなか面白いことが書いてあったねえ?」

 ポケットから黒い手帳を取り出し、社長代理はわざとらしく咳ばらいをした。その表紙を見上げた瞬間、傍らのタレ目気障男が「ヒッ」と声を上げたのがわかった。

「えーとどれどれ?

『多くの社員に積極的に声掛け』
『個々の不満を細かく吸い上げ、共感を示す』
『残業の多い独身男女を中心に、子持ちとの対立を促すような扇動を行う』

 ……ははあ、これは独立のお仲間を増やすための作戦かな? んー?

『椎名一華・椎名玲一の人格を貶め、会社への帰属意識を削ぎ落とす。具体的には別途人を雇い、雑誌記事やSNSを用いた中傷を……』

 ……おっと? これはもしかして、ここ最近妙に活発だったSNSのことですかぁ?」

 静まり返った部屋の中では、さっきまで赤ら顔でわいわい騒いでいた社員たちが、皆一様に視線を下げて真っ青な顔で目を泳がせている。

 お通夜のような重苦しい空気の中、あたりを大袈裟にぐるりと見まわし、社長代理はため息を吐いた。

「……あのね、ただの起業なら大いに結構。退職でも独立でも、なんでも好きなようにやればいい。でもな、会社の情報をこっそり盗んだり、仲間を増やすために俺個人の誹謗中傷を行うのは違うだろ? 明らかに度を超えた行為だ。黙って許すわけにはいかない」

「…………」

「ちなみに、退職時の悪質な引き抜き行為については、会社側からの損害賠償請求が認められた例がある。これについては顧問弁護士にずっと準備をさせていてね。……ここにいる奴ら全員を訴えたら、俺は一体いくら儲けることになるのかな? 名前を呼んでやろうか、被告人諸君……」

 別の紙をパッと開いた社長代理が、朗々とした声で名簿を読み上げ始めた。副社長、青木守。秘書課、鮫島靖子。会計課、山本大樹、矢野裕子、佐光要……。

 名前を呼ばれた社員たちが次々にうなだれていく。頭を抱えたり、顔を覆ったり、「すみませんでした」とうめきながら崩れ落ちる者もいる。

 それらすべてを存在しないもののように無視しつつ、社長代理は上から順にどんどん名前を読み進めていく。そうしながら一人一人の顔を目に焼き付けるみたいに、獲物を見据えた猫の瞳を大きく見開いて笑っている。

「営業課、松谷恵子、池田愛菜、松岡颯太……」

 その視線が名簿の一番下まで渡り、そして彼がゆっくりと顔を上げたとき、当然のようにその瞳はうずくまる私の顔をとらえた。

 目が合った瞬間、時が止まった。

 口角の上がった唇が、その形のままわずかに震える。引き攣る頬。見開かれた大きな瞳が、瞬きを忘れた彫像のように光を失い闇を映し出す。

 一瞬とも永遠ともつかない沈黙を経て、社長代理は空気の抜けたように、ふっと、かすかな笑みを浮かべた。達観したような、納得したような――すべてを諦めたような、微笑み。

「……秘書課、高階凛」

 違うんです、と。

 声をあげたくて開いた口から、出てきたのはかすれた音だけ。何もしていないはずの喉は痛みを覚えるほど乾いている。

「……お前たちには明日以降も変わらず出勤してもらって構わない。ただ、今回の企てについてはすべて社内に公表させてもらう。辞めるも残るも好きにしろ。ただし、残ったところで今後出世の道が拓けるとは思うなよ」

 最後にもう一度部屋を見回してから、社長代理はきびすを返すと、片手で乱暴にドアを開け足早に店を出て行った。残された店内では沈黙の中で、敗北を刻み込まれた社員たちがただ呆然自失している。

 カランと揺れるドアのベルの音が、少しずつ小さくなっていく。やがて、その音が完全に聞こえなくなったころ、私は弾かれたように立ち上がった。

 傍らの颯太くんの手を跳ねのけて、跳ぶが如く店を飛び出す。真っ暗闇の秋の夜空に、憎々しいほどきれいな星が、薄い雲の合間を縫ってささやかに輝いている。

「社長代理!」

 やがて見つけた背中に向かって、私はありったけの大声で叫んだ。

 社長代理は止まらない。両手をポケットに突っこんだまま、静かな足取りで踏切を越える。

「待ってください、社長代理!」

 ちょうど踏切を過ぎたところで、彼はゆっくりと振り返った。その瞳に押しとどめられたみたいに、私は息を切らしてその場で立ち止まる。

 社長代理はひどく穏やかな、優しいといっても差支えのないくらい静かな面持ちで、私に向かって微笑んだ。

「ごめんね、凛ちゃん」

 自分の喉から、ひゅっと空気の漏れる音がした。

「俺さ、調子乗ってたんだよ。凛ちゃんならどんな俺でも受け入れてくれて、ずっと一緒にいてくれるって。でもさ、そんなはずないよな。だって俺、凛ちゃんのこと受け入れてあげられなかったんだから」

「れ、……玲一さん」

「みんながみんな、俺みたいに人を愛するわけじゃない。そんなの最初からわかってたはずなのに、俺は凛ちゃんにそれを求めて……そして、深く傷つけた。凛ちゃんが会社を辞めようと思うのは当然のことだよ。裏切りでもなんでもない」

 カンカンと警報が鳴り響き、踏切の遮断機が下りてゆく。

 一旦伏せられた玲一さんのまぶたが、再び開くと同時に柔く、甘く優しい弧を描く。

「今までごめん」

 彼は言った。



「どうか、幸せに」



 違うんです、玲一さん。

 私だけは騙されたんです。本当に何も知らなかったんです。

 信じてください。どうか、私のことを信じてください。

 私は……私は、まだ、あなたのことが……。

 轟音とともに通り過ぎる電車に、張り上げた声がかき消されていく。喉が裂けてもいい、二度と喋れなくてもいい。そんな私のちっぽけな覚悟なんて、彼には当然届かない。

 目にも留まらない速さで電車はあっという間に通り過ぎていく。そして、かすかな土煙とともにあたりに沈黙が戻った頃には、踏切の向こうに玲一さんの姿はなくなっていた。

 遮断機が上がるのをもどかしい気持ちで待ち、私は踏切を駆け超える。でも、当たり前だけどもうそこには、彼の気配すら残っていなくて。

「……玲一さん……」

 もう、取り返しはつかないのだと――何もかもがおしまいなのだと、冷たい秋風が私の耳元で囁いた気がした。

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