初恋カレイドスコープ

雪静

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第十一章 黄昏のバス

第四十話

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「なんだこれ……こんな場所に段ボールが置いてある」

「広報用のポケットティッシュの在庫みたいですね。こっちは去年まで使っていたチラシと、あとは廃棄予定の文書が積み重ねられているようです」

「まさか、倉庫の代わりに使ってんのか? 冗談だろ、機械室なんて素人が気軽に出入りする場所じゃないってのに」

 排風機、空気調和機……見慣れない大きな設備を横目に、社長代理はどんどん奥へ進んでいく。壁に背中をくっつけるようにダクトの脇を通り抜け、少し開けた空間に出たとき、彼はようやく足を止め「ああ」と小さく声を漏らした。

 そこは、今まで潜り抜けてきた機械ばかりの空間とは違い、古いデスクに歪んだキャビネットと、上階のオフィスとさほど変わらない調度品が一応揃えられていた。キャビネットには青色のファイルがまばらに並べられていて、デスクの上にはノートパソコンがぽつんと一つ置かれている。

 パソコンの表面には数字とアルファベットの書かれたテプラが貼られている。これは私たちが普段使っているものと同じ、大手企業からリースしている情報端末のようだ。

(でも、ノートパソコンがなぜこんなところに)

 立ちすくむ私の前で、社長代理は静かにキャビネットへ歩み寄ると、そこに収められた青いファイルをぱらぱらと眺めていく。仕事中の彼らしい感情の読めない横顔が、ファイルを読み進めるにつれて少しずつ熱を帯びていく。

「社長代理……?」

「…………」

 社長代理はファイルを丁寧にキャビネットへ戻し、それからノートパソコンに触れると、ゆっくりとそれを開こうとした。

 そのときだった。

 遠くでパチンという音がして、一瞬のうちに視界が真っ暗闇に覆い潰された。ひとつぶの光もない闇そのものの空間の中、ブーンという鈍い機械音だけがそこかしこから響いてくる。

「まだ中にいます! 消さないでください!」

 社長代理はすぐさま大声で叫んだけど、声は部屋にこだまするばかりで返事はまったく聞こえない。当然電気が点くこともなく、闇の中で小さな舌打ちが思いの外近くから聞こえただけだ。

 私たちが機械室にいるとは知らず、たぶん、誰かが電気を消した。そもそもここへ来るつもりは無かったから懐中電灯なんて持ってきていないし、スマホは秘書室の自分のデスクに置きっぱなしになっている。

「社長代理、あの」

「動くなよ。変なものに素手で触って感電でもしたら大ごとだ」

 感電!? ここ、そんなに危険な場所だったの?

 途端に背筋が寒くなって、自分の身体を抱きしめるように委縮する。どうしよう。このままここで待っていたところで、誰かが電気をつけてくれるとは限らない。でも、手探りで出口を探すには、この機械室は危険すぎる――

「……嫌だろうけど、少し我慢して」

 言葉が終わるより先に、暗闇から伸びた社長代理の腕が私の腰のあたりに触れた。指先が少しずつ上へと伝い、震える手をそっと握る。

 その手に軽く引き寄せられるまま、私は闇の中を歩き出す。自分の足先すら見えない常闇の世界の中で、私たちの足音の他に聞こえるのは機械の低い唸り声だけ。

 でも、さっきまで全身を震え上がらせていた不安と恐怖は一瞬でかき消え、私は今、自分の前を行く彼の背中だけを見つめている。浮ついたように見せているけど、本当は真面目で真摯な背中。私が心から大好きだった、玲一さんの大きな背中。

 繋いだ指先があたたかい。

 私は、この熱を知っている。

 ようやく暗闇に目が慣れてきた頃、視界の端で光の線が縦に暗闇を切り開いた。ギィ、と重苦しい音を立てて開いた扉の向こうには、辛気臭い地下の廊下がいやに明るく広がっている。

「……なんとか出られたな。正直ちょっと怖かったね」

 肩口についた埃を払いながら振り返った社長代理は、私の顔を見るなりぎょっと焦った顔をした。「高階」と私を呼んでから、彼はなんとも言えず複雑な、暗い面持ちで口をつぐむ。

「……玲一さん……」

 繋いだ手はまだそのまま。

 もう握っている必要などないのに、私はこの手を離せない。

 涙が勝手にあふれ始めて、胸が締め付けられるように痛い。会社で泣くなんてみっともないと、頭ではきちんとわかっているのに、心ばかりがふわふわ揺らいで思考回路がぐちゃぐちゃだ。

 玲一さんは私の手を握ったまま、少しの間私の顔を無言で見つめていたけれど、やがて意を決したように顔を上げると、

「凛ちゃん、俺、」

 と、口を開いた。

 そのとき、バタバタと足音が聞こえたかと思うと、彼から私を庇うみたいに大きな背中が割って入ってきた。繋いでいた手は当然離れ、触れた指先に残るかすかな熱もあっという間に霧散していく。

「なんなんだ、あんた」

 颯太くんの低い声に、玲一さんが息を呑むのがわかる。

「颯太くん、待って」

「こんなひと気のない場所に凛さんを連れ込んで、いったい何をするつもりだったんですか。彼女また泣いてるじゃないですか!」

「違うの、やめて!」

「いい加減にしてください! あんた本当に何がしたいんだ!? 何度も彼女を傷つけて、一体何が望みなんですか!!」

 狭い廊下を反響する糾弾の大声の中、小さくうつむく玲一さんの固く結んだ口元が震える。

 私の制止を振り払い番犬のように吠える颯太くんに、玲一さんはごく静かな面持ちで、綺麗な顔をゆっくりと持ち上げた。

 あらゆる一切の感情を無視した、波ひとつなく凪いだ瞳。その奥底に言いようのない深い郷愁を内包して、彼の瞳がその真ん中に私の顔を映し出す。

「……そうだよな」

 玲一さんはそれだけ言うと、ぱっときびすを返して去っていった。私がちいさく名前を呼んでも、彼が振り返ることはない。

 そして私も、離れていくその背を追うことはできなくて――廊下の真ん中に立ちすくんだまま、ただ静かにこぶしを握ることしかできなかった。

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