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第九章 すれ違う想い
第三十一話
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玲一さんにつけられた傷痕は当たり前だけど消えてくれなくて、私は仕方なくタートルネックで赤らむ首を強引に隠す。
万が一傷痕を見られたときは、なんて言い訳したらいいだろう。虫に刺された? 猫に噛まれた? ……ううん、どれも不自然だなぁ。
(まあ、仕方ない。今日はただの交流会だし、襟さえ気を付ければ大丈夫なはず)
始まる前から疲れた顔で会場に到着した私は、狭い個室に並ぶ面々に大変重い頭痛を覚えた。
女三人、男三人。自分を除けば五人のメンバーのうち、顔見知りが男女ともに一名ずつ。男の方はまだいい。なんともいえない複雑な表情で私を見つめる松岡くんに、まあ今日はお互い気にせず飲みましょうと私は苦笑で目配せする。
問題は、女の方だ。
「……愛菜、どうしてここに……?」
「……凛こそ……」
気まずさ全開。かつて友達でありライバルでもあった同期の池田愛菜は、合コン用のメイクと服で居心地悪そうに座っている。でもよく見ると、まだ酒の席が始まってもいないのに彼女の目元の化粧は崩れ、瞳も少し充血しているようだ。
鮫島先輩の後輩だという会計課の男の人は、こういった席にも慣れているようで自ら進行を買って出てくれた。軽薄そうなタレ目が印象的で、まあ、イケメンと呼ばれる部類だろう。本人にもその自覚があるみたいで、立ち振る舞いがいちいち気障っぽく、私は少し癪に障る。
勢いよく乾杯をしてから、めいめい好きなもの同士でのおしゃべりが始まった。わかっていたことではあるけれど、これは確かに合コンだ。
「……あのさ」
もう一人の女の子が話し上手で目立ちたがり屋なのをいいことに、私は料理を取りながら隣の愛菜に声をかけた。
「山田先輩はどうしたの?」
「こんなところに来ている時点で答えはもうわかりきってるでしょ」
別れたのか。振ったの? 振られたの?
私が根掘り葉掘り聞くより先に、愛菜はビールを一気に飲み干すと、
「あんなマザコン男に騙されて、実家まで行った私がバカでした」
と、心から悔しそうに言い捨てた。
「実家って、まさか」
「そうだよ。シンガポール断ってまで行ったあの時の話だよ。お付き合いから早二週間、結婚を真剣に考えているからと言われてホイホイ東北まで行き、彼の最愛のママ上様にメタメタのボコボコにされてきたの」
「……ん!? あの頃にはもう別れてたの?」
「いや、別れたのは二ヶ月前かな。あっちの実家と距離さえ置ければ本当に結婚できるんじゃないかって、自分なりに色々頑張ってみたんだけど……無理だった。先輩の家でベッドにいる最中ママが合鍵で部屋に入ってきたとき、ああもうダメだ、別れようって、心がスーッと冷めたんだ」
タッチパネルで追加のお酒を注文する愛菜。彼女は小さく鼻をすすると、画面を睨んだまま低い声で言った。
「あの頃は、ごめん」
……ずっと友達だと思っていた。独身同盟なんて言って、二人で馬鹿みたいに笑って過ごして、仕事も一緒に頑張ってきて、そして離れ離れになった彼女。
私はいいよとは言わないまま、うん、と小さく返事をする。昔みたいな友達同士に戻ることはないだろう。でも、いつまでも憎しみにリソースを割くほど私は暇じゃないつもりだ。
「だから私、今日は本気で勝ちに来てるから」
「気合い入ってるね」
「当たり前でしょ。いつまでも昔の男を引きずって、くよくよしてるなんて人生の無駄。私はもう前を向いて、自分の幸せを探すって決めたの」
――自分の、幸せ。
愛菜の言葉が油断していた心のやわい部分をえぐる。
自分の幸せ。声には出さないまま、唇の中で反復する。なんてことのない普通の言葉なのに、どうしてこんなに鉛を詰められたみたく胸が重くなるのだろう。……
「ていうか凛って社長代理と愛人契約してたんじゃなかったの? あんたの方こそこんなところ来て大丈夫?」
うわあああ! 声が! でかい!!
案の定歓談が一変して静まり返った個室の中で、私は顔を真っ赤にしながら慌ててその場で立ち上がる。
「あ、愛人契約なんて! そんなのしてるわけないでしょ! 誤解だよ!」
「あれ、そうなの? 二人で歩いてるとこよく見かけるし、そういう仲なのかと思ってたんだけど」
「私ね、これでも一応秘書だから! そりゃあ社長代理の斜め後ろを歩かせていただいてますよ! 仕事だからね!」
なんだか弁明が大声になって、却って怪しまれているような気がする。でも、こうも直球で問いただされる日が来るとは想像してなくて、私はもう必死になりながら誤解だ仕事だと繰り返す。
そんな中、鮫島先輩の後輩である会計課のタレ目気障男が、
「高階さんがそんな馬鹿なことするわけないじゃん」
と、私の方へ視線を向けながら、どこかからかうように言った。
「でも噂になってるじゃないですか。私以外にも聞いたことある人いますよね?」
「そりゃ聞いたことはあるけどさ。本当に結婚できるならともかく、愛人なんていくらなんでも割に合わなさすぎでしょ。高階さんみたいに賢い女の子が、そんな無駄なことするはずないじゃん。ねえ?」
ねっとりと笑うタレ目気障男は、おそらく私を助けてあげたとでも思っているのだろう。私は曖昧に微笑んで、返事の代わりにお酒に口付ける。
ごめんなさいね。あなたたちの目の前にいる女は紛れもなく椎名玲一の愛人で、昨夜だって彼の指先でさんざん喘がされてきたところです。
ありとあらゆる噂と悪口で盛り上がっているこの会場で、そんなことをバラしてしまったら皆はどんな顔をするだろう。驚く? 呆れる? あるいは軽蔑されるかもしれない。
(馬鹿なこと、か)
玲一さんが好きだから、彼のことをもっと知りたいと思った。
たとえどのような関係でも、何もないよりマシだと思った。
今もその気持ちに嘘はない。でも、私が今までしてきたことは、客観的に見ればそんな五文字で片づけられるもので。
(……否定、できないな)
ふっと小さく笑みを漏らし、追加のお酒を注文する。
グラスに結露する水滴を見下ろし、静かにため息を吐いた私を、松岡くんが心配そうな眼差しで見つめていた。
玲一さんにつけられた傷痕は当たり前だけど消えてくれなくて、私は仕方なくタートルネックで赤らむ首を強引に隠す。
万が一傷痕を見られたときは、なんて言い訳したらいいだろう。虫に刺された? 猫に噛まれた? ……ううん、どれも不自然だなぁ。
(まあ、仕方ない。今日はただの交流会だし、襟さえ気を付ければ大丈夫なはず)
始まる前から疲れた顔で会場に到着した私は、狭い個室に並ぶ面々に大変重い頭痛を覚えた。
女三人、男三人。自分を除けば五人のメンバーのうち、顔見知りが男女ともに一名ずつ。男の方はまだいい。なんともいえない複雑な表情で私を見つめる松岡くんに、まあ今日はお互い気にせず飲みましょうと私は苦笑で目配せする。
問題は、女の方だ。
「……愛菜、どうしてここに……?」
「……凛こそ……」
気まずさ全開。かつて友達でありライバルでもあった同期の池田愛菜は、合コン用のメイクと服で居心地悪そうに座っている。でもよく見ると、まだ酒の席が始まってもいないのに彼女の目元の化粧は崩れ、瞳も少し充血しているようだ。
鮫島先輩の後輩だという会計課の男の人は、こういった席にも慣れているようで自ら進行を買って出てくれた。軽薄そうなタレ目が印象的で、まあ、イケメンと呼ばれる部類だろう。本人にもその自覚があるみたいで、立ち振る舞いがいちいち気障っぽく、私は少し癪に障る。
勢いよく乾杯をしてから、めいめい好きなもの同士でのおしゃべりが始まった。わかっていたことではあるけれど、これは確かに合コンだ。
「……あのさ」
もう一人の女の子が話し上手で目立ちたがり屋なのをいいことに、私は料理を取りながら隣の愛菜に声をかけた。
「山田先輩はどうしたの?」
「こんなところに来ている時点で答えはもうわかりきってるでしょ」
別れたのか。振ったの? 振られたの?
私が根掘り葉掘り聞くより先に、愛菜はビールを一気に飲み干すと、
「あんなマザコン男に騙されて、実家まで行った私がバカでした」
と、心から悔しそうに言い捨てた。
「実家って、まさか」
「そうだよ。シンガポール断ってまで行ったあの時の話だよ。お付き合いから早二週間、結婚を真剣に考えているからと言われてホイホイ東北まで行き、彼の最愛のママ上様にメタメタのボコボコにされてきたの」
「……ん!? あの頃にはもう別れてたの?」
「いや、別れたのは二ヶ月前かな。あっちの実家と距離さえ置ければ本当に結婚できるんじゃないかって、自分なりに色々頑張ってみたんだけど……無理だった。先輩の家でベッドにいる最中ママが合鍵で部屋に入ってきたとき、ああもうダメだ、別れようって、心がスーッと冷めたんだ」
タッチパネルで追加のお酒を注文する愛菜。彼女は小さく鼻をすすると、画面を睨んだまま低い声で言った。
「あの頃は、ごめん」
……ずっと友達だと思っていた。独身同盟なんて言って、二人で馬鹿みたいに笑って過ごして、仕事も一緒に頑張ってきて、そして離れ離れになった彼女。
私はいいよとは言わないまま、うん、と小さく返事をする。昔みたいな友達同士に戻ることはないだろう。でも、いつまでも憎しみにリソースを割くほど私は暇じゃないつもりだ。
「だから私、今日は本気で勝ちに来てるから」
「気合い入ってるね」
「当たり前でしょ。いつまでも昔の男を引きずって、くよくよしてるなんて人生の無駄。私はもう前を向いて、自分の幸せを探すって決めたの」
――自分の、幸せ。
愛菜の言葉が油断していた心のやわい部分をえぐる。
自分の幸せ。声には出さないまま、唇の中で反復する。なんてことのない普通の言葉なのに、どうしてこんなに鉛を詰められたみたく胸が重くなるのだろう。……
「ていうか凛って社長代理と愛人契約してたんじゃなかったの? あんたの方こそこんなところ来て大丈夫?」
うわあああ! 声が! でかい!!
案の定歓談が一変して静まり返った個室の中で、私は顔を真っ赤にしながら慌ててその場で立ち上がる。
「あ、愛人契約なんて! そんなのしてるわけないでしょ! 誤解だよ!」
「あれ、そうなの? 二人で歩いてるとこよく見かけるし、そういう仲なのかと思ってたんだけど」
「私ね、これでも一応秘書だから! そりゃあ社長代理の斜め後ろを歩かせていただいてますよ! 仕事だからね!」
なんだか弁明が大声になって、却って怪しまれているような気がする。でも、こうも直球で問いただされる日が来るとは想像してなくて、私はもう必死になりながら誤解だ仕事だと繰り返す。
そんな中、鮫島先輩の後輩である会計課のタレ目気障男が、
「高階さんがそんな馬鹿なことするわけないじゃん」
と、私の方へ視線を向けながら、どこかからかうように言った。
「でも噂になってるじゃないですか。私以外にも聞いたことある人いますよね?」
「そりゃ聞いたことはあるけどさ。本当に結婚できるならともかく、愛人なんていくらなんでも割に合わなさすぎでしょ。高階さんみたいに賢い女の子が、そんな無駄なことするはずないじゃん。ねえ?」
ねっとりと笑うタレ目気障男は、おそらく私を助けてあげたとでも思っているのだろう。私は曖昧に微笑んで、返事の代わりにお酒に口付ける。
ごめんなさいね。あなたたちの目の前にいる女は紛れもなく椎名玲一の愛人で、昨夜だって彼の指先でさんざん喘がされてきたところです。
ありとあらゆる噂と悪口で盛り上がっているこの会場で、そんなことをバラしてしまったら皆はどんな顔をするだろう。驚く? 呆れる? あるいは軽蔑されるかもしれない。
(馬鹿なこと、か)
玲一さんが好きだから、彼のことをもっと知りたいと思った。
たとえどのような関係でも、何もないよりマシだと思った。
今もその気持ちに嘘はない。でも、私が今までしてきたことは、客観的に見ればそんな五文字で片づけられるもので。
(……否定、できないな)
ふっと小さく笑みを漏らし、追加のお酒を注文する。
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