グズマニアの作品集

グズマニア

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妖市

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 涼しい風が窓辺の風鈴を揺らす。その爽やかな……寝起きに聞くには僅かばかり不快な音で僕の意識は覚醒した。どうやら昨夜は窓を開けっ放しで寝てしまったらしい。窓を開けたままだったせいか、部屋は少し肌寒かった。窓の向こうのどこかでは一、二匹の蝉が鳴いている。朝早いからかもしれないが、前よりも蝉の声が静かに感じられた。いや、もう八月も折り返し。蝉の鳴く夏はもう終わっていて、ただの暑いだけの日なのかもしれない。
 そんなことを考えながら、僕は窓を閉めた。風鈴が日の光を浴びて水面のようにきらめいていた。
 一階に降りると珍しく一番乗りだった。基本的に僕は朝が苦手なので一番早く起きるのは珍しいことだ。
 顔を洗ってカウンターのデジタル時計を覗くとまだ八時だった。日付は八月十六日を示していた。今日は何か用事があったような気がして、カレンダーを見てみると、今日の日付に「送り盆 ばあちゃんの家」と書かれていた。そうか……。今日は送り盆の日だった。
 基本的に送り盆は夕方から夜に行われるものだが、この町は少し特殊で昼間に送り火をするのだ。この町では昔から八月十六日に送り盆のお祭りがあって、その影響で家庭での送り盆は昼間に行われるようになったらしい。うちも例に漏れず昼間に先祖を送ることになっている。
 ……それにしてもみんな起きてくるのが遅い。早く起きたからには早く行きたいところだが、熟睡している家族を起こすのは気が引ける。改めて考えてみると、ばあちゃんの家はここから徒歩数分の距離にあるのだからわざわざ家族と行く必要はない。なので僕は先に一人で行くことにした。
 外に出るとやはり日差しが強い。少し前ほどではないにせよ、それでもだいぶ眩しい。汗をかくのは嫌なので、自転車で向かうことにした。自転車を漕ぐと僕の体は涼しい風に包まれて何とも心地よかった。

 ばあちゃんの家に着いた。日陰に自転車を止めて、家に入ろうとしたが、鍵がかかっていた。まだ寝ているのだろうか。家に帰るのも面倒なのでここで待つことにした。庭の木で蝉がけたけましく鳴いている。すぐ隣の県道では車の走行音が少しずつ増えてきた。……少し蒸し暑くなってきた。庭の水道で水を飲むために自転車から降りると背後から不意に「みゃあ」と、おずおずと挨拶するような鳴き声が聞こえた。
 振り返ると、ばあちゃんの家で放し飼いにされている猫さくらがこちらを見上げていた。いつも近づくとちょっとうっとおしそうな鳴き声で距離をおかれてしまうのでこれは珍しいことだ。この機会にとら柄のお腹を触ろうとしたら後ずさりされて逃げてしまった。さくらは僕から少し離れたあと、首だけこちらも向けて「みゃぁ」と鳴いた。
初めは挨拶かと思っていたが、三歩進んだあたりでもさくらが同じことをしたので、どうやら違うようだ。なんとなく気になったのでさくらについていくことにした。
 さくらについていくと、家の裏にある蔵についた。普段蔵の扉は閉まっているのだが、今日は珍しく開いている。蔵を覗いてみると、長袖の服を着たばあちゃんが蔵の整理をしていた。
 僕に気づいたのか、何かの箱の仕分けをしていたばあちゃんが僕のほうを向いた。
 「あれ、もう来たのかい早いねぇ。とりあえず上がりな。」そう言ってばあちゃんは玄関の鍵を開けてくれた。
 
 「麦茶とブラックコーヒーどっちがいい?」
 「麦茶で。」僕が答えるとばあちゃんはブロック状の氷が入った麦茶をくれた。居間のちゃぶ台で麦茶を飲んでいると、強に設定したエアコンがすぐに部屋を快適な温度にしてくれた。ちびちびと麦茶をすすっているとばあちゃんが話しかけてきた。
 「パパとママは?」
 「二人ともまだ寝てるかも。早く起きちゃったから一人で来たんだ。」
 「そうかい。まぁお盆休みくらいゆっくり寝るといいさ。」
 それからばあちゃんは麦茶をずずずとすすった。
居間の時計はからボーンと音が鳴った。時計は九時を示している。
 「ああそうだ。お前に渡したいものがあるんだった。取ってくるから待ってな。」
 そういってばあちゃんは部屋を出た。
 それからほんの少したった後、ちょうど僕の居場所を問う母からのLINEに返信したのとほぼ同時にばあちゃんが帰ってきた。
 「これを渡そうと思ってね。」ばあちゃんの手には時計が握られていた。
 「これは腕時計?」どこのブランドのものかロゴを探してみたが見当たらない。時計の針や文字板は一般的なものだが、長針と短針の根元部分がわずかに半球状にくぼんでいる。
 「あの人が昔卒業研究で手作りしたっていう時計を見つけたからお前にあげようと思ってね。」
 「あの人って昔に失踪したじいちゃんのこと?」
 ばあちゃんは黙って首を縦に振った。
 ばあちゃんが自分からじいちゃんの話をするのはこれが初めてのことだった。僕が生まれるよりもずっと前に当時まだ幼かった父とばあちゃんの話をする時、ばあちゃんは決まってばつの悪い顔をするのだ。
 「……これ本当にもらっていいの?」
 「構わないさ。私は時計持ってるし、しまっておくのも何だかもったいないからね。」
 「ありがとう。これもらうね。」
 じいちゃんの作ったという腕時計は大きさに対してやや重く、裏蓋がひやりと冷たかった。
 「ばあちゃん、時間合わせとかしてくれたの?」
 「いや、蔵で見つけたままの状態だよ。」
 驚くべきことに、この時計は正確な時刻を示し続けていた。まだ動いているというだけですごいというのに、正確な時刻を示しているというのはおそらく奇跡的だろう。時計の秒針が動くのを眺めていると両親が到着した。

 全員揃ったのでいつもと同じように墓参りをして食事をした。ただ、仏壇に新たにじいちゃんの写真が飾られていることだけが去年と違っていた。写真の中のじいちゃんは息子である父よりも若く、当時は新築だったこの家の玄関の前で笑っている。そして、左手には今僕がつけている腕時計がはめられていた。

 家に帰って映画を一本見終わる頃にはすっかり日が傾いていた。視界にちらつく西日を遮る為ブラインドに手をかけると、浴衣を着た親子が歩いているのがふと目に止まった。そういえば今日は祭りだ。ここから少し行った町の大通りではそろそろ祭りの準備が終わってぞくぞくと人が集まり始めた頃だろう。今日はもう暇なので誰かを誘って行こうかと思ったが、僕の同級生は皆大学入試を控えているのでやめておいた。家族と行くような年齢でもないので、結局今年は一人で行くことにした。

 準備をして家を出る頃には日はすっかり落ちて、西の空が微かに茜色に染まっていた。図書館の駐輪場に自転車を停めて、早速歩行者天国の喧騒に加わった。祭りの様子は去年とあまり変わらない。出店も人の数も通りをゆく浴衣の数も。世界は刻一刻と変わっていくが、こういう変わらないもの、どこかノスタルジックなものも安心出来ていいな。そんなことを考えながらフライドポテトと冷凍みかんを食べていると、ふいに奇妙な鳥の鳴き声なような音が聞こえてきた。音が聞こえた南の空を見上げると空に大輪の花が咲いていた。
 「わぁ……。」無意識に声が出ていた。周りも空を見上げている。時計をみると、八時になっていた。ああそうだ。八時からは花火が上がるんだった。花火は八時半には終わってそれで祭りは終わりになるのでそれまでに食べたいものを買わなければいけない。
 牛串を食べている時にちょうど最後の花火が咲いた。そこら辺から控えめな歓声が漏れると、各々思い出したように家路につきはじめた。露店はほとんど一斉に後片づけを始めた。祭りの夜は終わりだ。僕も牛串の串を捨てて図書館の駐輪場に向かう。
 僕が青白い発光体を見たのは、その途中だった。図書館の近くの枝道の奥にそれは昔「世界の妖怪辞典」で見たウィル・オ・ウィスプのようにゆらゆらと浮いていた。電柱や民家の灯りには到底見えない。一番近いのは提灯の灯りだが、青白くはならないだろう。僕は気付くと半ば本能的に、誘蛾灯の灯りに導かれる蛾のようにゆらりゆらりとそれのもとに向かって行った。

 僕が目の前にたどり着くと、それは蝋燭の炎が消えるようにフッと消えてしまった。それが目の前から消えた瞬間、僕の左目の端に再びその灯りを捉えた。城跡を利用して作られたという公園の芝生にそれはある。公園に入って城壁の間を通って灯りのもとに向かう。灯りのもとに再びたどり着くとそれはまた消えてしまった。辺りを見回してもさっきのような光は見えない。消えてしまったのだろうか。帰ろうと思って公園を出ようとしたら、公園の奥にある古井戸の中から青白い光が出ていることに気づいた。今日はそこまで月が出ていないので月明かりだとは考えられない。先ほどの灯りだろうか?僕は古井戸の前に移動して、その中を覗きこんだ。古井戸のそれはまばゆく光って僕の意識を一瞬奪った。その一瞬、僕は水に潜って浮かび上がる時のような奇妙な浮遊感を感じたのだった。

 目が覚めると僕はどこかもの知らない路地の脇に横たわっていた。道の右手側には、社会の教科書で見た江戸時代の民家のような建物が並んでいる。左手側には、大きい川が流れている。対岸はそれなりに遠く向こう側に渡る橋もない。シルエットから対岸には森が広がっていることがかろうじてわかった。うちの町にそんなに大きな川があった記憶はない。どこかに誘拐されたのかと思って慌てて周りと荷物を確認したが、それらしい人物はいないし、何か盗まれたということもなかった。リュックのスマホで現在地を調べたが、なぜか圏外になっていて使えなかった。次いで時計をみると、まだ八時四十分でほとんど最後の記憶からのタイムラグはない。ということは公園から離れた場所にはいないということだ。だったら歩いて人にあったら道を尋ねればいい。そう思って僕はどこか知らぬ夜の町を道に沿って歩いた。

 驚いたことにここには電柱がないので、妙に明るい月明かりだけを頼りに進んだ。五分ほど歩いた場所にある曲がり角に誰かが俯いて座りこんでいるのが見えた。不審者かホームレスかと思い、声をかけるのは躊躇したが、これ以上夜道を一人でさまようのは嫌なので話しかけてみることにした。
 「あの、夜分遅くにすいません。道を尋ねたいのですがよろしいでしょうか。」
 僕が話しかけると男の目深にかぶった帽子がもぞもぞ動いた。
 「あぁ……。道だとぉ。そんなもん帰る気になれば帰れるだろうが。」
 「スマホがなぜか圏外になっちゃって道がわからないんです。」
 「あ~。なるほど。なるほど。迷いこんじまったわけか。」
 「そうなんですよ……。気づいたらここにいて……。」
 「いやいや……。そういう次元の話じゃねぇよ。」男は何がおかしいのか先ほどから笑いを押し殺すような喋り方をしている。
 「一応聞いておくがよ、お前のいた場所に俺のようなやつはいたか?」男はそう言って目深にかぶっていた帽子を外した。
 男の顔には会話をしていたというのに口がなかった。口もない。目も鼻も当然眉毛もなかった。ただ、のっぺりとした楕円にまるで水面のそれのように月が映っていた。
 「ひっ。」呼吸することさえ忘れていたのか、悲鳴のなりそこないのような声しか出なかった。気付けば僕は男と川に背中を向けて走りだしていた。

 50メートルくらい走っただろうか。建物によりかかって顔を拭うと思いのほか汗をかいていた。急に走りだして体から吹き出てきたのか、それとも悪夢から覚めた時のような冷や汗だろうか。恐らくはどちらもだろう。その一方で怒りに任せてものを壊した時のように冷静になっていく自分がいた。滴る汗と早鐘のように鳴る心臓がこれが現実であると冷徹に告げていたからだ。

 少し休んで心拍数がいつもと同じくらいに待った。呼吸も落ち着いたのでまた歩き始めた。とりあえずこの道をまっすぐに進むことにした。休んでいる途中に気づいたのだが、先ほどの川沿いの道に比べてこの道のほうが建物が小さく、間隔が狭いのだ。おそらくこの道はこの空間の中心に向かっているのだろう。
 三分ほど歩くと道の先にぼんやりと光が見えてきた。耳を澄ますとざわざわとにぎわっている音が聞こえてくる。久しぶりの灯りにほっとしたのか自然と早足になっていた。
 そこは市のような場所だった。大きな道の脇に小さな露店が並び、たくさんの人がそこで買い物をしている。それから少し行ったところでこの場所の異質さに気づいた。通りを行く人がどれも変なのだ。アフリカの未開の民族のような格好をした男性、細かい幾何学模様のお面と体をすっぽり覆う黒いマントをまとった人物、物語でみるような鬼の格好をした人物さえいた。全体として見たそれは渋谷のハロウィンなんかとは比べものにならないほどの混然一体具合だった。彼らを見ていると、日本語が通じるかすら不安になってくるので、とりあえず日本人を探すことにした。

 通りにある店も奇妙な商品が多かった。全身に鱗のようにナイフをしまっている人物の営む刀剣屋や西洋の魔女そのもののような女が営む薬屋なんかがあった。そんな通りをしばらく歩いているとついに日本人らしき人物を見つけた。
 「あの、すいません。道を尋ねてもよろしいですか。」本屋の店主である初老の男は煙草の煙をゆっくりとはいてから答えた。
 「道……?そんなもの帰ろうとしたら帰れるだろう……?お前さんもしかしてここに来るのは初めてかい?」男はそう言って僕の目を覗きこんだ。
 「初めてです。気づいたらここの近くにいました。」
 「そうか……。」男は煙草の火を座っている椅子の肘掛けで消しながら続けた。
 「ここはな、買い物しないと出られないようになってるんだよ。」
 「……何で出られないんですか?」
 「何でだろうな。ここのルールは誰も正確にはわかっちゃいねぇよ。」
 「そこでだ。」男は語気を強めて言った。
 「俺の店で買い物していかねぇか?そうすりゃお前はもといた場所に帰れて俺は儲かる。一石二鳥じゃねぇか。」
 「でも、」僕があまりお金を持っていないと言う前に男がまくしたててきた。
 「見ての通りうちは本屋でな。主に扱ってるのは昔の奇書さ。そうだなおすすめは……。」男は店頭に並べていた本をいくつか取った。
 「この本は探し回ってようやく見つけたネクロノミコンの完全版でこれは死海文書の全文を本に書き写したものだ。そしてこれがヴォイニッチ手稿だ。」そして男は選べと言わんばかりにそれら三つを机の上に並べた。
 「え~と。三十円で買える本はありますか?」
 「三十円……?」
 「あんまりお金持ってないんですよ……。」男はがっかりした顔をし、本を戻し始めた。
 「残念だがそんな額で買える商品はここにはないな。他のところをあたってみるんだな。」
 「……わかりました。」

 僕は再び大通りに出た。三十円でも買えそうなものを探すたび再び歩き始めた。
 「ねぇ、僕。何か困ってるの?」振り返ると、眼鏡をかけた小柄なおばさんが立っていた。
 「……何か買い物しなくちゃいけないけど三十円しか持ってなくて……。」その時、おばさんのしわのある口元がうれしそうに緩んだ。
 「まぁ。それは困ったわね。じゃあ私と取引する?」
 「いいんですか!?」
 「全然構わないわよ。」そう言っておばさんは持っていた小さいかばんからあめ玉くらいの大きさの黒い塊を取り出した。
 「はいこれ。十円でいいわよ。」僕が十円を渡すとおばさんはその黒い隕石のような形をしたあめ玉サイズの塊を僕に渡した。
 「これは何ですか?」僕が尋ねるとおばさんは少しばかり眉間にしわをよせて答えた。
 「それはね、黄泉戸喫っていう私の国の食べ物よ。ささ、足が早い食べ物だから早く食べちゃって。」おばさんは僕のすぐ隣に来てしきりに食べるよう勧めてきた。黒い塊の匂いを嗅いでみると、漢方薬のような独特の匂いがした。全く食欲がわかないが、帰る為なら仕方ない。そう思って、それを口に入れようとした時、ごつごつした大きい腕が僕の右腕を掴んだ。
 「おいおいばあさん。何も知らないやつにこんなの食わせようとするなんて反則だろ。」そう言って登山家のような巨大なリュックを持った男は僕の腕から黒い塊を奪っておばさんのほうに投げ帰した。
 「変な考えなんて起こさずにさっさと買い物して黄泉の国に帰りな。」おばさんに吐き捨てるように言うと、男はようやく僕のほうに視線を向けた。
 「よし、行くぞ。」そう言って、僕の腕を掴んだまま歩き始めた。男に引っ張られて行く途中、後ろのほうからかん高い怒声が聞こえてきた。
 「ちょっと!!ふざけるんじゃないわよ!あんたさえいなけりゃそのガキを連れて行けたのに!覚えてなさいよ!!」後ろを振り返ると、先ほどのおばさんが髪を乱しながら恐ろしい形相でこちらを睨めつけていた。
 「ババアのヒステリックほど醜いものはねぇな。」男はそう呟きながら雑踏の合間を縫って進んだ。
 「ちょっと、さっきのは何だったんですか?それとどこに向かってるんですか?」僕が尋ねると男は気だるげに答えた。
 「さっきのは、誘拐から助けてやっただけだよ。あと、お前人間だろ?今から行くのは人間好きな変わったじいさんのところだ。」男のリュックが邪魔でほとんど前が見えなかったが、すれ違う人(?)の数が少なくなっていたので、なんとなく大通りから外れたのだろうと思った。男の歩みが止まったのはそれからすぐのことだった。
 右腕の拘束が解かれ、辺りを確認するとそこは何とも怪しい雰囲気のする路地裏だった。いかにも怪しい見た目の人達が動物の生首や赤黒い液体と入った小瓶なんかの黒魔術にでも使いそうな物を売り買いしている。そして目の前には一階建ての家があった。
 「ここだ。」そう言いながら男は家のゲートを押し開けた。鉄製の小さなゲートは軋むような不協和音を出して開いた。逃げ出そうとも思ったが、不安しかなかったのでおとなしく男について行った。
 男が玄関の扉を叩くと家の中から七十くらいの黒目黒髪の日本人らしき男が出てきた。
 「……お前か。例のやつは無事に入手出来たか?」
 「ああ。別に大したもんじゃないからな。」
 男が答えると、老人は満足げにそうか、と言った。そして僕の視線に気づいたのか老人と不意に目があった。
 「おい。この子はなんだ?」
 「こいつは見ての通りただの人間だ。あんたが好きそうだからここまで連れてきたんだ。」
 「なるほど……。とりあえず二人とも靴を脱いで上がりなさい。」老人はそのまま家の奥に消えた。僕も靴を脱いで男の後ろについて行った。男は巨大なリュックが家を破壊しないように慎重に進んでいるようだった。家はそこまで大きくなく、ドアの数をみるに部屋は三個ほどしかないようだった。
 男はそのうちの一つ、廊下の行き当たりのドアを開けた。そこはちゃぶ台と大きな本棚が置かれた部屋だった。男が荷物を下ろして座布団に座ったので僕も座った。カーテンが風ではためく。何だかおかしなところへ来てしまったが、今のこの状況は僕にとってあまりにも正常で安心出来た。部屋から老人が三つのマグカップを持って戻ってきた。
 「お茶だ。」そう言って僕たちの前にカップを置いた。マグカップの中の液体は緑茶のような明るい黄緑色だった。
 「ありがとうございます。いただきます。」僕がそれを飲もうとしたら、男が再び制止してきた。
 「じいさん、ぼけちまったか?ここのものを食べたり飲んだりしたやつがどうなるかあんたが一番わかってるんじゃないか?」老人はお茶を飲みながら答えた。
 「……問題ない。これはこの子がいた世界の飲み物だ。」
 「そうか。ならいいんだ。」そう言って男はマグカップの飲み物を飲んだ。僕もつられて飲んでみると、確かに緑茶の味がした。

 少しの間お茶をすする音だけがした。そこまで気まずい沈黙ではなかったがどうにも気がかりだったので僕はさっきから気になっていたことを聞いてみることにした。
 「あの、さっき言ってたここのものを食べたり飲んだりってどういう意味なんですか?」一呼吸おいてから老人が答えた。
 「ここのものを体に取り入れるとな、ここから出られなくなるのだ。体の中に入るというのはその者の一部になるということでな、違う世界の物を取り込むと元の世界からももちろん違う世界からも異物扱いになってしまう。……つまり、どこの世界にも属さないここの住人になってしまうというわけだ。」
 「そういうこった。お前も危なかったんだぜ。あのババアの物を食ってたら取り返しのつかないことになってた。」
 「なるほど……。さっきはありがとうございました。」僕は気づかない間に男に助けてもらっていたらしい。
 「ところでお二人は……その、大丈夫なんですか?」僕がこう尋ねると男が急に表情を曇らせた。老人は表情を変えない。
 「俺は特殊な体質でいろんな世界を行き来出来るがこのじいさんは……」老人が続けた。
 「私は駄目だ。空腹に耐えられなくなってここの食べ物を食べた。……もう何十年もここの住人だ。」
 「そうなんですか……。すいません。」
 「何、気にするな。もうずいぶん昔のことになる。……正直もう前にいた世界のこともほとんど思い出せない。どこにいたのか……いつここに来たのかもな……。今朝の夢のように時折昔いた世界をふと思い出すだけだ。」
 「場所さえ分かればこいつを向かわせるのになぁ。」老人は重い空気を変えるためか明るい口調で言った。
 「ふん、面倒事はごめんだね。あ、そういえばそろそろこの小僧を帰してやれよ。」
 「ああそうだったな。まぁまずここの説明から始めるか。私はここでしばらく研究をしていてな、この世界は多重構造になっていることがわかっているんだ。例えば、君や私のいた人間界、黄泉の国、冥界なんかだな。普通これらの世界は交わることがないがまれに交わるところがある。ここはその一つだ。」老人はここで一旦区切り、お茶を飲んだ。
 「ここは不安定なゆらぎの空間でな。ここの端に大きな川があったろう?あれが境界線になっているのだ。端のほうに行くにつれて不安定になる。ここに来るには繋がりやすい場所から入るか何かに導かれるかだが、出る方法は一つしかない。……それはここで取引することだ。金と物でも物と物、金と金でも両者が合意すれば何でもいい。君の場合は人間界のものだ。私は人間界の物を集めていてね、君のようなものはめったに来ないから希少なんだ。」そして老人は僕を頭の先から腹の辺りまで吟味するように眺めてきた。
 「ふむ……。少し左手の時計を見せてくれんか?」老人は言った。じいちゃんの形見のようなものなので取引する気にはなれなかったが、とりあえず外して渡した。
 「人間界の時計というのは素晴らしくてな、たくさんの小さなパーツが働いて正確な時間を刻み続けるというのが実にすごい。だから私は時計が好きなんだ。向こうの世界にも時計コレクターってのがいるんだろう?」機嫌よさげに喋っていた老人は僕の時計を見た途端急に黙ってしまった。少し沈黙が続いた後、老人が口を開いた。
 「これはどこで?」
 「じいちゃんの形見の時計ですよ。」僕が答えると老人は時計をじっと眺めた。
 「この時計を少し貸してくれないか?さっきのお茶と取引との取引でいい。」
 「貸すだけならいいです。」僕がそう言うと、老人はありがとうと言い残し部屋を出た。

 「あのじいさんがもらうじゃなくて貸りるだなんて珍しいな。年取って物欲が無くなってきたのか?」男が言った。黙ったままだと気まずいので僕も何かしゃべることにした。
 「おじさんとあのおじいさんはどういう関係なんですか?」
 「……俺はまだ三十二だ。あのじいさんとはビジネスパートナーみたいなもんだ。俺はじいさんのお使いをして金をもらってるんだよ。」
 「へぇ。お兄さんは自由に世界を行き来出来るんですね。」
 「まぁな。俺は妖怪と人間のハーフなんだ。俺みたいなハーフはたいていどちらかの世界で生きるんだが、俺は行商人として世界を旅することにしたんだ。ていうか、お兄さんっていう年でもないな。俺のことは森川と呼んでくれ。」
 「わかりました。」
 それから僕は森川さんといろいろな話をした。ジャングルの奥地に植物の種をとりに行かされた話、不義理を働いた商人を違う世界まで追いかけた話など。基本的に楽しそうに話してくれたが、人間界での森川さんや自らの幼少期に関してはかたくなに口を閉ざしていた。
 一通り喋り終わった頃、老人が帰ってきた。
 「ありがとう。これを返すよ。」そう言って僕の腕に時計をつけてくれた。しわだらけの手だったが、その奥に人間的なぬくもりが確かにあった。
 「これで取引完了だ。後は君が元いた場所をイメージすれば来たときと同じように帰れるはずだ。」
 「ありがとうございます。じゃあ森川さん、おじいさん僕帰りますね。」
 「おぉそうか。これからは変な光と怪しいババアには気をつけろよ。」森川さんが言った。
 「達者でな。……風邪、引くなよ。」老人が泣いているようにも笑っているようにも見える顔で言った。
 僕の体は来たときと同じような不思議な感覚に包まれた。目を開けると僕は古井戸の近くに寝そべっていた。辺りにあの光はない。ただの夜の公園だった。ここは老人の言っていた繋がりやすい場所だったのだろうか?もう一度古井戸を覗いてもそこにはただ闇が広がっているだけだった。
 さて、家に帰ろう。僕は公園を出て家に向かった。家までの道のりは来た時と同じようで、仮面をつけた謎の人物なんていなかったし、コンビニでは食べ物が売られていた。途中でふと、老人に貸した時計が気になった。何となくみたそれはぼんやりと青白く発光していた。時計をよく見てみると、長針と短針の根元の不自然な空洞に青白く光る石がぴたりとはめられていた。これは老人がつけたのだろうか?一体なぜ?いや、もしかしてあの老人は……。

 僕は祭りの翌日の八月十七日、一人でばあちゃんの家に行った。じいちゃんの写真を見るためだ。ばあちゃんの家につくと挨拶もそこそこに仏壇にあるじいちゃんの写真を見に行った。写真の人物は白黒で細かいところは分からなかったが、やはり昨日の老人に似ている気がした。おそらく、昨日の老人は僕の祖父だったのだろう。直接的な面識がないからなのか、昨日の出来事がいまいち現実味がないからなのかひどく冷静な自分がいた。ばあちゃんにこのことを話すかは、悩んだが、結局何も言わずなど帰ることにした。信じて貰えたとしても今さらどうすることもできないと思ったからだ。

 あの夜からちょうど一年がたった。僕はこの一年、ウィル・オ・ウィスプのようなあの光を見ることも、登山家のようなリュックを背負った森川さんに会うこともなかった。そして、僕はあの夜のことをゆっくりと忘れようとしていた。今朝の夢のように不確かに、虫食いのように忘れていく。
 ただ、ぼんやりと、静かに光る時計の石を見ていると老人の泣きそうにも笑っているようにも見えるあの表情を思い出すのだ。それもいつまで続くかわからない。ゆっくりと記憶がなくなっていくかもしれないし、これだけは記憶に残り続けるかもしれない。だけど、別にどっちでもいいと思った。あの夜のことは現実であり、夢でもあるのだから。
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