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中村朋美の章

第54話 ふたつのお守り(改)

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(これまでのあらすじ……)

 愛するおばさんとの辛い別れを経た少年は中学生活の中で思いを募らせた少女と同じ道を歩み始めますが、高校3年の春、愛する少女は遠く異郷の土地で不慮の事故死を迎えました。少女の死に責任を感じる少年の前に1人の少女が現れます。少年もまた次第に少女にひかれつつある自分に気づきますが、最愛の女性の死を引きずる少年はその葛藤に苦しみ始めます。少女との別れを決意した少年は少女を訪れ、対する少女もまたひとつの決意を秘めて、少年の引きずる過去を断ち切るために身体を投げ出しました。そこで少年は愛する理恵子はずっと少年を見守っていたことに気づきます。それが分かった時、少年は理恵子に対する思いも含め、少年のために身をなげうった朱美に対して心からの愛を捧げようと思うに至りました。そして、遂に少年は女性自身と相対し、その美しさと神秘さに感動を覚えたのでした。そうして、少女に対する愛に応えた筈の少年でありましたが、予想もしない結末で急転直下の破局となり、少年と少女は別れてしまいました。

**********

 年も明けて、いよいよ大学受験のラストスパートです。外はうっすらとした雪景色ですが、空はどんよりとした灰色の雲が覆っています。今の少年には、底抜けの青空の下は辛すぎました。冬の灰色の空こそが、今の少年にはお似合いでした。

 いつものように、少年は高校に登校すべく駅にやってきました。あと、何回、このルーティンをやればよいのか。

 もうすぐ、この苦しく辛い儀式から解放されることをよすがに、少年はまるで修行僧の苦行ででもあるかのように、淡々と、そして黙々と毎日の行を繰り返していました。今の少年にとっては、比叡山の千日回峰行よりも、この通学がつらく苦痛であったことでしょう。

 しかし、この日は違いました。後方から、数人の若い女子高生たちの騒ぎ声がしたかと思いきや、少年に声をかけてきた子がいました。その声は、誰あろう中村朋美のものでした。

 濃紺のダッフルコートにグリーンのチェック柄のマフラーを顎まで深々と巻き、顔が埋まるように髪の毛をボリュームアップに持ち上げ、前にも増して可愛らしい笑顔で少年に向かいあいます。障害を掻き分けてやってきたことを、少女の荒い息づかいと白い息が明白に示していました。

「あだち先輩!お久しぶりです!」

 彼女は、前と変わらぬ元気な明るさで、息せき切って、少年のもとに飛ぶように駆け込んできました。友達の止める手をふりきって来たのは、視線の先に見える柏倉久美子達のねめつけるような眼差しが雄弁に物語っています。

 辛い時こそ笑顔で……、それはもはや少年が少女に教えた訓戒ではありませんでした。彼女自らが自分の努力で身に付け、自分の習性として昇華されたものでした。

「もうすぐ受験ですよね。勉強、頑張ってください。……これ、良かったら使ってもらえませんか? 」

 そう言って少女は、ラッピングした小さな箱を少年に差し出しました。少年はバツの悪そうな思いで、視線の先にいる彼女の友人達を一瞥しました。

 本当なら、ここでこの小箱を握り潰すか、踏みつけにして、最低最悪の男を演出すべきだったかもしれません。朋美には一時的な辛いショックで済みさえするなら、朋美の友人達にとっても、それは満足のいく結果となったことでしょう。もちろん、そんな行為への衝動が、少なからず彼の心をよぎりました。

 しかし、こんなにも明るい笑顔で飛び込んで来た少女に、そのような無下な対応をするなんてことは、少年には、とてものこと、できませんでした。もっとも、それが一番悪い少年の弱さであるとの自覚もあるのでしたが。

「ありがとう。喜んで使わせていただくよ。」

 少年は、ややはにかんだような笑顔で、短いお礼の言葉を言って改札に入りました。

 改札を抜けて人混みの中に入る前、やや振り返り気味に、少女に軽く右手を上げて手を振りました。少女はにこやかな笑顔で少年に視線を送り続けているのが彼の瞳の中に見えました。

 しかし、それと同時に少年は、少女に重なるように睨み付ける柏倉久美子の姿も視界の中に認め、一瞬の晴れやかな陽射しが、たちまち冬の厚い雲に塞がれてしまったような、そんな思いにとらわれてしまいました。

(別に久美ちゃんたちが悪いわけじゃない。たとえ、ぼくが彼女でもそうする。……一番悪いのはこのぼくなんだから。)

 そう思いつつ、少年は灰色の曇天のもと、冷たい風が吹くホームで、コートの衿を立てるのでした。

 そもそも、本当に少年が朋美を避けようとするのであれば、電車の時間を思い切り変えさえすれば良いことでした。しかし、少年は自分のルーティーンを変えることはありませんでした。心のどこかで、今日のように朋美と会えるかもしれないという卑しい自分がいたのかも知れません。

 ふと、ホームの中でそのことに思い至った時、少年は更なる自分の醜悪なる面を見つけてしまったように感じ、今更ながらに自分の弱さ、醜さを感じるのです。自分には果たして生きているだけの価値があるのだろうか、……と。

 しかし、だからと言って、自分で命を絶つ最後の勇気さえも持てないことに、また、自分の弱さを恨むのでした。

**********

 学校も終わり、自宅に帰って、自分の部屋でひとり静かな気持ちになり、今朝、中村朋美からもらった小箱を開けました。

 小さいくせにやけに丁寧なラッピングは、その少女の思いを表すかのように可愛らしいものでした。少年はしばらく忘れていた華やいだ嬉しさをそこに感じました。

 その箱の包装を丁寧に開封すると、中から出てきたものは少年の予想通りのものでしたが、別な意味で少年を驚かせるに足るものでもありました。

(……え! )

 それはキーホルダーのお守りでした。何の変哲もない、ありがちなキャラクター的なお守りでした。しかし、なぜか少年には、それがとても懐かしく思えました。

 それは、理恵子がベルギーへ旅立つ前、少年が理恵子からもらったキーホルダーにも似ていたからでした。

 そのお守りは『OCHINAIKUN』のローマ字をロゴにして、小猿がそのアルファベットに尻尾を引っ掛けてぶら下がっている絵が刻印された、合皮のキーホルダーでした。もちろん、それが大学入学試験に『落ちない』ことになぞったキャラクターであることは言うまでもありません。

 少年は机の中から、久しぶりに理恵子からもらったキーホルダーを取り出しました。図柄の構図は若干異なるものの、やはり同じシリーズのキャラ物と思われるものでした。

 理恵子のキーホルダーを見ることは、少年にとってもつらいものでしたが、朋美の無垢な瞳を思い出すと、それがとても可愛いものに感じられます。

 中には簡単なメッセージが同封されていました。『受験勉強、頑張ってください』その一言だけでしたが、丸々としたその可愛い字体に、少年は朋美の純粋無垢な心情を感じたように思えました。彼は久しぶりに無意識にほころんでしまった表情を押さえることができませんでした。

(朋美ちゃん、……辛いときの特効薬は心から笑うこと、だったね。)

 本来、それは少年が朋美に教えた筈の言葉であったものでした。しかし、いまでは、朋美が少年を励ますために使われている言葉のように感じられました。

 今、少年は、ドイツ軍の監視におびえながら、音も立てずに建物の隠れ部屋に逼塞している半世紀以上も昔の少女のことを偲んでいました。民族差別という理不尽な理由によって貶められ、逼塞を余儀なくされた十代半ばの少女です。

 少年は、自分もまた、歴史の中のその少女と同じ境遇の中で逼塞しているように感じていました。しかし、それは違います。いわれなき民族差別で苦しむ少女と違い、少年は自ら好んでその境遇に甘んじているだけなのです。幾らでもそこから抜け出す手段が用意されていたにも拘わらず。

 しかし、そんな手前味噌の自分勝手な感慨を感じる一方で、少年はそのふたつのキーホルダーの不思議な偶然に驚かざるを得ませんでした。そして、そのキーホルダーは、朋美の優しい心づかいとともに、すさんでいた少年の気持ちを和ませてくれました。

(ありがとう。このふたつのお守りがあれば、ぼくは大丈夫。……朋美ちゃん、本当にありがとう。)

 深夜までの受験勉強の中、頭が疲れた時、睡魔と戦っていた時、このふたつのお守りを見つめているだけで、不思議と気持ちがリラックスして、勉強再開に立ち向かえるのでした。あの邪気のない可愛い朋美の瞳と、思い出の中でいつも笑顔の理恵子の瞳が、少年に暖かい眼差しを送って、勇気づけてくれるように思えるのです。

 そして、いよいよ東京での大学受験が始まります。大学は東京西郊、多摩地区の中心でもある八王子の中央大学多摩キャンパスで実施されます。

(理恵子、それに、朋美ちゃん、……行ってくるよ。)

 少年は、二人の思いのこもったお守りを手に上京していきました。

**********

 少年にとっての初めての都会で、新宿駅のビジネスホテルに宿泊して受験日を迎えた少年は、故郷では絶対に見ない都会の雑踏にあてられて舞い上がってしまいました。

 受験会場のある八王子方面への乗り場を探し、少年は予想を遥かに超える早朝の都会人の奔流に押し流されて、ようやく八王子行きの電車に乗り込みました。

 ひと息ついた少年は、カバンに入れた受験票を再確認すると、大学側から届いた入学試験のガイダンスを開きます。その時でした。

「絵里、ばかだよね、あたし、ちゃんと『八王子』って言ったじゃんよ。」

「知らないよ、あたしは井の頭線だから、京王線の方が安いし、中央線なんか使わないから、『八王子』って聞いたら、自動的に頭ん中で『ケーハチ(京王八王子駅)』って自動変換されんだよ。」

「ったく、あわてたよ、ラインで『もう来てる、電車、乗るよ』てのにどこにも絵里がいないからさ。」

「だから、謝ってんじゃん、友美。でも、発車寸前で助かったよ。ブバイ(分倍河原駅)でナンブ(南部線)なんて、タルイことしちゃうとこだったよ。」

 眼の前の女子高校生の会話を何気なく耳にした少年は、はっとして気付きました。

 慌てて広げた受験生向けガイダンスの試験会場までのアクセスを確認します。まさにそうでした。同じ新宿駅から八王子方面に向かう中央線と京王線を取り違えて乗車していたのです。

 中央線の発車のベルが鳴り響く中、眼の前の女子高生の間を割って飛び出した少年は、間一髪で中央線の特別快速八王子行の電車から飛び降りたのでした。

「なんだ?あれ?」

「ラッキー!あたしの席~!」

「あ!ずりぃ、友美!」

 少年は中央線のホームを駆け出して京王線のホームを探し求めて走り出しました。

 しかし、走りながら、受験日という大切な日に、縁起でもない大失敗をしかけた少年は、なぜか笑みを浮かべていたのでした。

(……ありがとう、理恵子。……ありがとう、朋美ちゃん。やっぱり、みんな、ぼくを見守ってくれているんだよね。よし、大丈夫だ!ぼくは合格できる。絶対に。)

 少年は新宿駅の中を疾走しました。

**********

 受験会場である中央大学多摩キャンパスは、京王線の高幡不動駅から乗り換えてひと駅の多摩動物公園駅で降りて、だらだら坂を登った上の小さいトンネルをくぐり抜けた先にありました。

 受験番号を提示して会場案内係から教えられた少年の試験教室は、大学中央棟図書館のカンファレンスでした。少年は試験開始直後の五分遅れで着席し、試験に臨みます。

 着席すると、少年はふたつのお守りを握りしめて呼吸を整えて鉛筆を握りしめます。最初の科目は英語です。

 試験に遅れたドタバタで慌てるかと思いきや、むしろ少年は雑念が消えて、スッキリとした気持ちでテスト用紙に向かい合うことができたのです。

 その後も、受験会場の中で少年は各科目のテスト開始直前までキーホルダーを強く握りしめ、そのキーホルダーを見つめながら精神を集中させていました。少年はそこで全力を出しきったのです。

 あとは結果待ちです。受験を追えて帰郷した少年は、学校に行く以外には、あとはひたすら家に閉じこもり、誰とも合わない生活を過ごしていました。

 そして、少年は合格しました。中央大学文学部現代社会学科に合格したのでした。
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