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軽井沢にて

心に灯る、淡い想い-4

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「時に華乃子さん。華乃子さんが嬉しいことって、なんですか?」

唐突にぶつけられた質問に、華乃子は一瞬答えられなかった。嬉しいことなら幾らでも挙げられるが、雪月の意図するところはどこだろう、と首を捻ったからだった。

「え、……え、えと……?」

華乃子が戸惑いがちに言い淀むそぶりを見せると、雪月は言葉が足りなかった事に気が付いたのか、焦って頭を掻きながらこう続けた。

「ええと、つまりですね。今回の小説は、華乃子さんをモデルにするわけですので、華乃子さん……、のような女性が、どんなことに喜びを感じるのかを、知りたかったのです」

成程、モデル。……そうか、モデルか……。
少しがっかりしたけど、自分の望みが叶うことなどないと分かっている華乃子は直ぐに切り替えて笑顔を浮かべると、そうですね……、と考えた。

「仕事で成功を収めるとか、お金を稼げるとかですか……?」

華乃子の答えに、雪月がふふっと笑った。

「現実的ですね。空想の世界に羽ばたくのですから、もっと夢を見て下さい」
「夢……」
「そう、夢です。これから綴るお話なのですから、華乃子さんをこれでもかという程、幸せにして差し上げたいのです。でも考えてみたら、私は華乃子さんの好きなものすら知らなかった……。春からずっと一緒にお仕事をさせて頂いているのに、この事実を自分の中に見つけた時は、少々がっかりしました」

そんなことに落胆してくれたなんて、……嬉しいではないか。華乃子は口許に笑みを浮かべないようきゅっと頬を引き締めて、では、と次の答えを考えた。

「それでしたら、やはり女ですから、……恋がしたいです。誰にも……、……先生とお会いするまでは、誰にも理解されなかったこの『目』を知って尚、愛してくれる人が現れたら……、それは素晴らしいと思います……」

それは貴方なのだと、言いたくても言えない。雪月の行動は、可哀想な身の上の華乃子に同情して、得意な小説の世界で幸せにしてやろうとする、……いわば慈善事業のようなものなのだ。華乃子に何の感情もあろう筈がない。いくら雪月があやかしに対して理解を示してくれたって、それは自分の得意分野の話に裏付けをすべく資料を得ている……、それだけに過ぎないのだ。

華乃子のいらえに雪月は穏やかな微笑みを浮かべて深く頷いた。そして次の言葉を零す。

「愛されるとして……、どう、愛されたいのですか? 身分の差を超えて落ちる恋ですか? 危険を顧みず結ばれる恋ですか? 恋愛にも様々な種類があります。華乃子さんの望むように、僕は綴りたい」

真摯な瞳が華乃子を見つめる。本当に……、雪月は約束を守ろうとしてくれているのだ。それならば、華乃子の望むものは一つだ。

「約束を……、約束を違えない恋愛が良いです……。傍に居ると約束したら、傍に居て下さること。素敵なものをくれると約束したら、それを見せて下さること。……約束は契りです。恋愛において、……それ以上に尊いものはないのではないでしょうか……」

望んで裏切られる経験ばかりして来た。与えるつもりがないなら、最初から与えないと約束して欲しい。その代わり、愛すると言ったら、最期まで愛して欲しい。華乃子は自分の中に、これほどの欲があることを初めて知った。せめて、雪月の筆で、それを叶えて欲しい……。言葉の最後は小さく、顔は俯きがちになったが、雪月の透き通った声ではっきりと、分かりました、と了承されたとき、華乃子は雪月との間に『約束』が生まれたのだと知った。

「必ず言葉を違えない愛を書き綴りましょう。そして華乃子さんを幸せにします。これも『約束』です」

顔を上げると、雪月はいとおしむように華乃子を見ていた。それは傷付いてきた幼い華乃子を包むようで……、華乃子は雪月の前で、また泣いてしまったのだった……。

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