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雪月との出会い

雪月-5

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「あの、先生……。たまには、あの、人間の恋愛ものを書いてみませんか……?」

華乃子が雪月の家に通い始めて一ヶ月。既に雪月の家のことも大体把握して、台所なんて自分の住む別宅同然に使えるようになった頃、華乃子は原稿をしたためている雪月に向かって資料を差し出しながらそう切り出した。

華乃子がそう言ったのには理由があった。雪月は相も変わらずあやかしと人間の悲恋物語を書いている。一定の読者は居るようだったが、芳しいヒット作と言うものは出ていない。今書いている話はどうやら蛟と人間の娘の悲恋物らしく、此処は今流行りのモダンガールとモダンボーイの恋愛ものが良いと思ったのだ。

モダンガールの話は婦人誌にも取り上げられているから読者の幅が広がるし、モダンガールものだったら華乃子の今までの知識が生かせる。雪月の為に尽くしたいという気持ちがそう言わせていた。
しかし雪月は頼りなく笑うだけで頑なに首を縦には振らなかった。

「……雪月先生があやかしに対して持ってらっしゃる印象って、良いものなんですね……」

華乃子はお茶を淹れながら雪月に話し掛けた。雪月が手を止めて華乃子を見る。

「……私、あやかしって正直申しますと、……その、……どうしても好きになれないんです……。……古い題材ですし、……今をときめく活劇の題材にだってなりません、……よ……」

暗に雪月の作品が古いと言ったようなものだった。それでも雪月は柔和な笑みを崩さない。

「僕は日本人とともに生きてきた神やあやかしたたちをいとおしいと思ってますよ。あやかしは人間にとても近い。だからこそ、日本人はあやかしを受け入れてきたんだと思うんです。維新以降、世の中は急速に西洋化していて、日本古来の古きよきものが見失われようとしている。僕は、見えないものを信じなくなった世の中に一石を投じているつもりなんです」

雪月はそう言うが、そういうきれいごとは、あやかしが絵空事だと思っているから言えることだ。今だって男性の家に上がり込む華乃子に雪月がいたずらをしないか、太助と白飛が部屋の隅でじっと監視している。大人しくしていて、と言い聞かせたから今はまだいたずらを働いていないけど、時間が経てば原稿用紙を飛ばしたり資料の本の頁を舐めたりといたずらするんだろう。それを苦に思わないのは窓から吹き込む風や雨が掛かったと思うからであって、あやかしたちが気まぐれにいたずらをしていると知ったら、鬱陶しくてたまらないと思う。

「時代は新しいことを求めています……。……雪月先生にも、新しいことに挑戦していただきたいと思うのですが……」

頑なな雪月に頑なな華乃子が応じる。雪月は困ったように笑って、どうしたんですか、と華乃子に言った。

「そんなにあやかしが嫌いですか?」

問われるまでもない。嫌いだ。しかしそう応えると、雪月の作品を否定してしまうようで言えなかった。返答に困って押し黙った華乃子に、雪月がさらに問う。

「どうしてそんなに嫌いなんですか……?」

穏やかな口調は春の日差しのようにあたたかい。華乃子は雪月の醸し出すやさしい雰囲気につられて、辛かった子供の頃の話をぽろりと零した。

「……私、……実は、あやかしが少し、視えるんです……」

意を決して切り出した華乃子の言葉を、雪月は驚きもせずにむしろ仏様のような穏やかな微笑みを浮かべて静かに聞いた。今までそんな反応をしてくれた人は居なかった為、それがきっかけになって、華乃子の口からは過去の出来事が次から次へと溢れ出した。

「あ……、……あやかしが他の人には視えない、って知らなかった頃……、あやかしと関わって、変人扱いされたんです……。……その所為で友達は居なくなりました。……勿論親弟妹からも見放されて過ごしました……」

家族なのに家族として扱われず、独り寂しく暮らした日々。母のあたたかさも父のやさしさも弟妹と触れ合う楽しさも、華乃子には与えられなかった。周囲の子供が家族の話をするのを寂しい思いで聞いていた。乳母のはなゑはやさしかったけど、それでも両親の代わりにはならなかった。

「……雪が降った子供の頃に、おなかをすかせた子供に会ったんです……。私はあやかしと人間の区別がつかなくて、おなかをすかせたその子におにぎりを持って行ったんです……。そうしたら、その子は人間の子ではなかった、お前は雪だるまの姿をしたあやかしに握り飯を与えていたんだ、と父からひどく怒られました……。鷹村の家の名に泥を塗るつもりかとひどく怒鳴られて、金輪際あやかしに係わらないと誓うまでと言ってお仕置きとして蔵に閉じ込められたんです……。……雪だるまに話し掛けておにぎりを渡していた子供の頃の私は、きっと近所の人の目に奇異に映ったと思います……。親は人々から後ろ指をさされるのを恐れて、それを隠すために私は独り別宅に住まわせられました……。だから、あやかしはどうしても好きになれない……、嫌いなんです。今も……、どんな形に化けて人間の中に紛れ込んでいるか知れない……。あやかしなんて視えない方が良い……。私は……、本当の人間だけを信じます……」

躊躇いながら、それでも絞り出した華乃子の話を、雪月は最後まで黙って聞いてくれた。そして、そうですか、そんなことがあったんですね、と言うと、華乃子の頭をぽんぽんと撫でた。

「……っ!?」
「華乃子さんは心根がやさしいから、あやかしの方も姿を現したのでしょう。そのあやかしは貴女にありがとうとは言いませんでしたか? あやかしの話は、文明開化以来人々から忘れ去られていっている。日本が西洋化して、日本人らしさを忘れてしまった人たちに、日本人が語り継いできたあやかしのことをもう一度思い出してほしくて、僕はあやかしの物語を書いています。目まぐるしく変わる日常ばかりでなくても良い。そう伝えたい。その象徴があやかしなのです」

普段気の弱そうな笑みを浮かべている雪月が、華乃子の過去を包み込むような瞳で語る。華乃子があやかしと会ったことがあると話して奇異の目を向けられなかったのは、これが初めてだった。穏やかな声で語る雪月の言葉が、渇いた土に雨粒が沁み込んでいくように華乃子の固く殻で覆った心の表面を濡らした。

「華乃子さんは辛かった過去を乗り越えて自立して働いてらっしゃって素晴らしいと、私は思います。……でも、一方で、その頑張り……、人間だけを信じると言う気持ちには、……もしかしたら過去に華乃子さんに辛く当たった人たちを見返したい、という気持ちがおありなのではないですか? そうだとしたら、華乃子さんの生きていく道はとても辛いものになる。もっと素直に、辛かったことを思い返した時には、立ち止まって、泣いても良いと思うんですよ」

愛(いつく)しむように細められた月のカーブを描く目は、やさしく華乃子を見つめている。華乃子は雪月の言葉をかみ砕いて心に落とすと、そうなのだろうか、と呟いた。

「私は……、意地を張っていたのでしょうか……。確かに幼い頃から周りに受け入れてもらえなかった日々が続きました。それは全て、私が視えてしまうことが理由で、それがあるから私は……」

私は、ちゃんと『私』を見てもらえなかった。

そう言おうとした時に、喉の奥の方からぐぐっと熱い塊がせり出してきて、眼の奥に涙が溜まり、涙腺が緩んだ。
ぽろり、と、一粒零れてしまえば、透明な雫はあっという間に華乃子の頬を濡らした。

……そう、辛かった。

家族に味方は居らず、友人たちも離れていった。独りぼっちで過ごした学校生活は華乃子に悲しみだけを植え付けた。視えない人間だったらどんなに良かっただろうと己を悔いて、そうありたいと思って生きてきた。視えないふりをすれば、会社ではうまくやれた。だから『視える』自分を心の奥に仕舞って封印したかったのだ。こんなこと、寛人にだって言っていない。

それを雪月は、視えても良いんだと言ってくれる。心根がやさしいから視えるのだと言ってくれる。太助も白飛も華乃子の些細な行動に恩義を感じて一緒に居てくれる。そういう……、ことなのだろうか。ほんのちょっとの親切、ほんのちょっとの思いやりで、見渡せる人生が変わるのだろうか。

否定し続けてきた自分の人生が、悲観するばかりのものではなくなっていく。ぽろぽろと目から零れる涙は、悲しいものからあたたかいものに変化していた。

「ああ、頑張って来られたのですね……。良いんですよ、泣いても……」

雪月の、華乃子の頭をなでる調子がやさしい。穏やかな声は何時までも聞いていたくなる。

「おやさしい華乃子さんには、きっといいことがあります。心を覆わなくても、幸せになる方法が、きっと……」

ぽとり、ぽとりと雪月の言葉が綴られるたびに、乾ききって固くなっていた華乃子の心の殻には雪月からの思いやりの言葉のしずくが落ち、潤って解けていった。

「今、華乃子さんに恩義を感じたあやかしが居たら、きっとその手で涙を拭ってくれていましたね」

そう言って微笑むと、雪月は華乃子の頬に伝う涙を拭ってくれた。

……不思議だ。雪月から語られるあやかしは、やさしく穏やかに華乃子を見守っているように聞こえる。あの時……、祠の隣に佇んでいた少年もぼろぼろの着物を着ながらおにぎりに目を輝かせていた。米の一粒に神様が宿るんだと言って、最後の一粒まで食べつくしていた。洋食がもてはやされるようになり、大人になってからおにぎりなんて食べたことなかった。

「華乃子さんにあやかしが視えないのだったら良いと思うんですよ。ただ、視えることを、無理して視えない、と思おうとしているのだとしたら、それは良くない。ガス灯の灯りの陰、煉瓦の隙間に視えるものがあるなら、それを否定しない方がいい。自分の感覚を否定することは、自分で自分を認めないことに繋がります。自分自身が自分を認められないことほど、苦しいことはない。……まあ僕は西洋文化に馴染めなくて、それが考えに影響しているのかもしれませんが」

情けない話ですけどね、と雪月は恥じるように微笑んだ。その微笑みが。

とても眩しくて、そんな風に生きてみたいと思わせた。

「……先生、私……」

くすん、と鼻を啜り、雪月を見ると、雪月は何とも言えない……、いとおしさと恥ずかしさと、それから信念を持った瞳で華乃子を見た。

「ああ、すみません。決して無理に華乃子さんのお考えを変える必要もないのですよ。ただ、僕はそう言う気持ちで物語を書いている。僕の担当者として、知っていておいて頂きたかったのです」

はい、と涙目で頷く横で太助と白飛がにやにやと華乃子を見ている。雪月には頷いたが、彼らがいたずらを繰り返す限り、あやかしに好意的にはなれないだろうなあ、と華乃子は思った。

担当作家の前で泣いてしまうという失態を繰り広げてしまったが、それが雪月の許で良かったと顧みるほどに、雪月に過去の自分を受け止めてもらえたことは、華乃子にとって心温まる出来事だった……。

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