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薔薇の約束
(3)
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健斗が右の前髪を払って見せると、琴子は大声を上げて腰を抜かした。
「ひ、ひいい!」
「そのような体たらくで、よくもまあ私を支えるなどと言ったものだな」
茂三は琴子の失態に舌を打ちながらも、一枚の書類を示して見せた。それは楓の字で署名捺印された離婚届の書類だった。
「何の茶番だ」
「では家にお帰りになって、確かめてごらんになると良い」
勝ち誇ったような茂三の笑みに、苛立ちは最高潮に達した。
「I'll kill you, you bastard。まどろっこしいことを言うな。今、私は、最高に苛立っている」
*
ふう、と意識が浮き上がると、楓は体の自由を奪われて、部屋の真ん中に寝転がっていた。気が付きましたか、とひょうひょうとした顔で見てきたのは、森内である。
「……っ、森内さま。どうしてこんなことを……」
確かに二度も楓を助けてくれた人なのに、どうしてこんな風に豹変してしまったのだろう。彼の真意を確認したくて、楓は訊ねた。森内は、世間からの非難を考えてのことですよ、と微笑んだ。
「楓さま、あなた、本当の華族ではないそうですね? でしたら社長の事業拡大のために必要なものを持っていないということになる。それなのに、何故あなたは社長の妻としてのうのうとその座に居座ろうとするのですか。僕の会社としても、協力相手の社長の妻が平民であったことで、被る被害も大きいのですよ。商売と言うのはハクが大事ですのでね。あなたから社長に離縁を申し出るべきでは?」
商売に影響がある、というのは楓も理解できる。それでも、心に決めていることがある。力のある目で、森内を見る。
「確かに私は平民でしたし、琴子さまに比べて素地も教養もないかもしれません。ですが、旦那さまをお慕いし、お支えしたい気持ちは本当です。旦那さまも私を頼って下さった。その事実を糧に、私はこれからも旦那さまの隣に居たいとおもうのです」
しっかりとした口調で対抗すると、森内は口端を上げて楓を見下ろした。
「強欲ですね、そういうところは琴子さまにそっくりだ。あなたを社長の妻として認めない層が、社交界に何割かは居るのですよ。お聞きになったでしょう、パーティーでのあなたへの蔑視の言葉を。あなたはその事実を憂い、社長から身を引く覚悟をなさい。覚悟が持てないのなら、作って差し上げます」
森内は涼しい顔をして、懐から小刀を取り出した。鋭利な刃先は部屋の灯りに輝き、白い光を放っている。ぴたり、と刃が頬に触れ、少しでも動いたら、容易に皮膚が切れそうだった。
「琴子さんを旦那さまの妻にして、あなたが琴子さんに峯山のもうけを融通してもらうつもりですか? 私に傷が付こうが、旦那さまは気にされないと思うし、旦那さまはご自分の育てている会社の命運をあなたに委ねることなどなさらない」
しかし楓はきっぱりとした口調で森内に対峙した。瞳に浮かぶ冷静な輝きは森内を苛立たせた。
「そこまで言うなら、傷をつけて差し上げましょう。女の顔に傷があるということが、どれほど世間に受け入れられないか、身をもって知ると良いですよ。あなたはその傷をもって、社長の妻の座から降りるのです」
ひゅっと空気が流れる。ドスン、と鈍い音がして、楓に当たっていた小刀は床に落ちると、カラン、という音と共に、森内が楓の隣にくずおれた。森内の背後には、彼の肩を掴んでその場に組み敷いている健斗の姿があった。
「旦那さま!」
「人の妻に随分乱暴なことをしてくれる。代償の覚悟があってのことか」
冷ややかなまなざしの面から発される低い声は、その場の空気を凍らせるかと思うほど恐ろしいものだった。
「ふ……、堀下殿は口ばっかりだな。僕があれだけ手はずを整えてやったのに」
「悪事は必ず露見するというだろう。茂三殿の借金元も裏が取れている。彼に口利きをしたのは君か」
健斗の言葉に、森内は口許を歪めた。
「そこまで知れていますか」
「うまくごまかしたものだな。峯山(うち)すじと堀下(むこう)すじ、二重に取引しようという魂胆だったか」
「はは、さすが社長だ。よくお見通しでいらっしゃる」
「何故、そんなことをした。露見すれば、お前だってただでは済まない」
諭すような健斗の言葉に、しかし森内は毒を吐いた。
「お言葉ですが、社長。養蚕農家の家計は繭相場に左右されて安定しない。僕のように農家を取りまとめたとしても同じだ。ならは取引先を増やしたいと思うのは、ごく当然のことでしょう?」
「それでも、人の道理に背いて良いという理屈にはならない」
健斗の弁に、森内の口の端がいびつに歪む。
「そういう世界で、生きていたかったですよ」
「ひ、ひいい!」
「そのような体たらくで、よくもまあ私を支えるなどと言ったものだな」
茂三は琴子の失態に舌を打ちながらも、一枚の書類を示して見せた。それは楓の字で署名捺印された離婚届の書類だった。
「何の茶番だ」
「では家にお帰りになって、確かめてごらんになると良い」
勝ち誇ったような茂三の笑みに、苛立ちは最高潮に達した。
「I'll kill you, you bastard。まどろっこしいことを言うな。今、私は、最高に苛立っている」
*
ふう、と意識が浮き上がると、楓は体の自由を奪われて、部屋の真ん中に寝転がっていた。気が付きましたか、とひょうひょうとした顔で見てきたのは、森内である。
「……っ、森内さま。どうしてこんなことを……」
確かに二度も楓を助けてくれた人なのに、どうしてこんな風に豹変してしまったのだろう。彼の真意を確認したくて、楓は訊ねた。森内は、世間からの非難を考えてのことですよ、と微笑んだ。
「楓さま、あなた、本当の華族ではないそうですね? でしたら社長の事業拡大のために必要なものを持っていないということになる。それなのに、何故あなたは社長の妻としてのうのうとその座に居座ろうとするのですか。僕の会社としても、協力相手の社長の妻が平民であったことで、被る被害も大きいのですよ。商売と言うのはハクが大事ですのでね。あなたから社長に離縁を申し出るべきでは?」
商売に影響がある、というのは楓も理解できる。それでも、心に決めていることがある。力のある目で、森内を見る。
「確かに私は平民でしたし、琴子さまに比べて素地も教養もないかもしれません。ですが、旦那さまをお慕いし、お支えしたい気持ちは本当です。旦那さまも私を頼って下さった。その事実を糧に、私はこれからも旦那さまの隣に居たいとおもうのです」
しっかりとした口調で対抗すると、森内は口端を上げて楓を見下ろした。
「強欲ですね、そういうところは琴子さまにそっくりだ。あなたを社長の妻として認めない層が、社交界に何割かは居るのですよ。お聞きになったでしょう、パーティーでのあなたへの蔑視の言葉を。あなたはその事実を憂い、社長から身を引く覚悟をなさい。覚悟が持てないのなら、作って差し上げます」
森内は涼しい顔をして、懐から小刀を取り出した。鋭利な刃先は部屋の灯りに輝き、白い光を放っている。ぴたり、と刃が頬に触れ、少しでも動いたら、容易に皮膚が切れそうだった。
「琴子さんを旦那さまの妻にして、あなたが琴子さんに峯山のもうけを融通してもらうつもりですか? 私に傷が付こうが、旦那さまは気にされないと思うし、旦那さまはご自分の育てている会社の命運をあなたに委ねることなどなさらない」
しかし楓はきっぱりとした口調で森内に対峙した。瞳に浮かぶ冷静な輝きは森内を苛立たせた。
「そこまで言うなら、傷をつけて差し上げましょう。女の顔に傷があるということが、どれほど世間に受け入れられないか、身をもって知ると良いですよ。あなたはその傷をもって、社長の妻の座から降りるのです」
ひゅっと空気が流れる。ドスン、と鈍い音がして、楓に当たっていた小刀は床に落ちると、カラン、という音と共に、森内が楓の隣にくずおれた。森内の背後には、彼の肩を掴んでその場に組み敷いている健斗の姿があった。
「旦那さま!」
「人の妻に随分乱暴なことをしてくれる。代償の覚悟があってのことか」
冷ややかなまなざしの面から発される低い声は、その場の空気を凍らせるかと思うほど恐ろしいものだった。
「ふ……、堀下殿は口ばっかりだな。僕があれだけ手はずを整えてやったのに」
「悪事は必ず露見するというだろう。茂三殿の借金元も裏が取れている。彼に口利きをしたのは君か」
健斗の言葉に、森内は口許を歪めた。
「そこまで知れていますか」
「うまくごまかしたものだな。峯山(うち)すじと堀下(むこう)すじ、二重に取引しようという魂胆だったか」
「はは、さすが社長だ。よくお見通しでいらっしゃる」
「何故、そんなことをした。露見すれば、お前だってただでは済まない」
諭すような健斗の言葉に、しかし森内は毒を吐いた。
「お言葉ですが、社長。養蚕農家の家計は繭相場に左右されて安定しない。僕のように農家を取りまとめたとしても同じだ。ならは取引先を増やしたいと思うのは、ごく当然のことでしょう?」
「それでも、人の道理に背いて良いという理屈にはならない」
健斗の弁に、森内の口の端がいびつに歪む。
「そういう世界で、生きていたかったですよ」
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